また泣いたー「永遠の0」

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永遠の0」をまた見て、また泣いた。
ストーリーがわかっていて感動するのは、この映画の完成度の高さを物語るものでしょう。
原作になかった、主人公が「必ず帰って来る」と妻に伝えるエピソードが、この映画の感動に大きく貢献しています。
それを追加した山崎貴監督の感覚は見事です。
前回も感じたことですが、元ゼロ戦パイロットでヤクザの親分に扮する田中泯の存在感は際だっていました。

井筒和幸監督が、「永遠の0」は特攻を美化している、観たことを記憶から消したい」と批判しているようですが。どれだけ粗雑な感性であれば、この映画からそういう結論がでるのでしょうか。
「特攻は悪」という観念に凝り固まった人間には何を言っても無意味でしょう。短期記憶を消すには認知症が有効なので、そうなることを願わずにはいられません。

特攻が作戦として間違っていたことは明らかです。しかし特攻という無謀な作戦に身をささげた若者たちが守りたかったのは、日本と言う国であり家族であり文化でした。金や地位や自己のエゴを大事にする昨今の日本人なら、特攻になど志願しません。
国や同胞や家族をまもるために散って行っ若者たちに、感謝をささげることができないほど日本人が落ちぶれたことを知ったら、彼らは自分たちの死が犬死だったと悔しがるでしょう。

話はまるで違いますが、著名な音楽評論家である宇野功芳さんは、チャイコフスキーが嫌いだと公言しています。多分甘美な旋律が俗っぽいのだと言いたいのでしょうが、例えば『「白鳥の湖』の「情景」の美しい音楽を聴きながら、これは美しいのではない、俗なだけだと自分に言い聞かせているのだと想像するとほほえましくなります。

好き嫌いの問題であれば、バッハが嫌い、チャイコフスキーが嫌いと言っても、その趣味をとやかく言うことはできません。
しかし特攻は悪である故に、それをテーマにした映画は無意味だと断ずるのは、論理的に正しくないだけでなく、映画や芸術のテーマを限定し、表現の自由を制限することになります。映画表現は正しさを基準にするものではありません。もしそうであれば、井筒監督の映画も存在理由が無いはずです。


先だって、山田洋次監督の「小さいおうち」を観ながら、しまった、「永遠の0」をもう一度観るべきだったと考えていました。

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「小さいおうち」は、別の映画を観るつもりが、上映時間を間違えて代わりに観たものでした。映画をつくりなれた山田洋次監督らしくそつのない作品で、別に悪く言う出来ではないのですが、松たかこ演ずる人妻が好意を寄せ、不倫関係になる相手の男が吉岡秀隆と言う点で、感情移入ができず白けてしまいました。(彼は無いよ)
もうひとつ、舞台になる家が小さいとは言えなかったのは企画のミスでしょう。家が出るたびに「小さくないよ」と思っていました。
「小さいおうち」ではなく、小さかったのは映画でした。
主人公のお手伝いさんを演ずる黒木華は、昭和の香りがする女優ではまり役でした。

「永遠の0」をもう1回観ようと思っています。
 観ていない方は是非観てください。



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