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軽い直訴

無題


参院議員の山本太郎が園遊会で天皇陛下に手紙を渡して非難を浴びています。
彼は天皇陛下に手紙を渡してはいけないと憲法に書いてないと言っていますが、まるで小学生の喧嘩です。

手紙の内容が公開されましたが、捏造だと山本事務所が抗議しているようです。
しかしタブレット端末に映った字を見ると、すべて捏造とは言えないようです。

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「陛下、私はこの国を憂う
参議院議員のひとり山本太郎と申します。
これはお国の一大事と本当にあなたはわかっておられますでしょうか。
昨日私は福島へ行きました。 
あまりにひどい状況です。 
目の前のお金の為となてます。
安全基準を設定すべきです。 
経済が滞らない様にするだけで原発敷地内は
「低レベル放射性廃棄物」と同等の「一キロあたり何ベクレル」
が現在の「食品の定量」なのです
また寝るところもひどいです。 
毛布など取り合いとなってます。
人は睡眠時間が一日何時間寝ればよいかおわかりでしょうか
福島は平均4時間、労働時間は12時間と労働基準法も守らられておりません
どうか国を憂う山本太郎の意見を聞き届け、
脱原発を国民に呼びかけてください  
参議院議員 山本」

もしこの手紙が本当なら、この国の頂点に位置する方に対して、「あなたは」と書くなど無礼極まりない文章です。

かつて天皇陛下に直訴する人間は、大義のために一身を賭す覚悟がありました。
丸谷才一さんのエッセイで知った半藤一利さんの「昭和史探索(1~6)」に、天皇陛下に直訴した北原二等兵の手記が紹介されていますので引用します。
北原二等兵の息を呑むような見事な文章に圧倒されます。

昭和史探索〈1〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)昭和史探索〈1〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)
(2006/12)
半藤 一利

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『1927年(昭和二年)は天皇への直訴事件が頻発した年である。
八月二十五日、宮城から赤坂離宮で帰ろうとする天皇の車に向かって、一人の男が宮城広場へ走り出た。懐中には「身を殺して陛下に奉る」と大書した白い布があった。
十月二十六日には宮城へおもむくため離宮を出た天皇の車に、「直訴、直訴」と叫んで一人の女が飛びつこうとし、警察に押さえられた。彼女も懐中に直訴状を持っていた。

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十一月十九日、名古屋城東練兵場における陸軍特別大演習での観兵式で、北原泰作二等兵が閲兵中の天皇に駆け寄って直訴した。懐中の直訴状には、「軍隊内ではいぜん差別待遇がひどいので陛下の聖察をお願いする」旨が書いてあっった。
八月二十五日、十月二十八日の二人の直訴者は、精神に異状ありと判定されたが、北原二等兵は、取り調べ中も、法廷においても、極めて冷静で、正気であることが明らかだった。
彼はいはゆる被差別部落出身者で、部隊内でも軍律に逆らって差別糾弾の闘争をおこなっていたのである。』

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北原二等兵の手記(1957年 昭和32年4月五日発行「特集文芸春秋」今こそ言う ー主役のメモー)

午前八時三十分、天皇の閲兵が始まった。参列の光栄に感激する六万の将兵は、不動の姿勢をいっそう硬直させて緊張した。一瞬間、厳粛な雰囲気が広大な式場を包んだ。私は、その巨大な軍国主義の圧力に押し倒されそうな感じであった。
 やがて諸兵総指揮官の賀陽(かや)近衛師団長官を先導として、近衛騎兵が棒持する天皇旗、愛馬「初緑」にまたがった天皇、つぎにやや距離をおいて奈良侍従武官長、そのあとに侍従武官や陸軍の諸将星が従い、外国の武官がしんがりという順序で、きらびやかな騎馬行列が粛々と進んだ。

右翼の部隊からつぎつぎに、隊長の「捧げー銃」(注 ささげ つつ)という号令がかかった。いっせいに銃を捧げて敬礼する動作で、数千の銃身に触れる革紐が、びしっと鳴った。つぎの部隊、そのつぎの部隊と、天皇の閲兵がすすむにつれて、号令と動作が機械的な正確さをもっておこなわれていった。

私は、不動の姿勢をとりつつ、左手の指先でズボンのポケットに触れてみた。そこにはたしかに訴状の手ごたえが感じられた。最後の決意の瞬間であった。父母や姉妹のこと、同士たちのこと、恐ろしい刑罰のことなど、電光の速さで頭のなかを去来した。私は前方をみつめながら、走り出す時間と最前線までの距離を測っていた。すべての神経がその事に集中されていたように思う。

(それ、今だ!)と、何ものかに背後から突き押されるような感じがした。私はおおきく息を吸いこんだ。数分後におこる私の行動によって、私自身の上にもたらされる運命の大きな変化を、私は瞬間的に意識した。私はぐっと腹に力を入れた。私の胸の動悸は高鳴った。唇は乾いて、喉がつまった。勇気と怯懦(きょうだ)の渦巻きのなかで、私はじっと前方をみつめて立っていた。

「捧げー銃!」
連隊長の号令がかかった。六八連隊の全将兵はいっせいに敬礼の動作にうつった。それを合図に、私は隊列を離れて駆け出した。部隊と部隊との間隔は五歩の広さだった。そこはまっすぐに平坦な通路となっていた。私は銃をひっさげたままはや駆けに駆けた。最前列まで150米(メートル)ばかりあった。
だれ一人として、私を追っかけてくる気配はなかった。みんな固くなって、捧げ銃をつづけていた。

何分かかったであろうか。わたしは最前列に出た。先導の賀陽中将官がおどろいて、馬上から指導刀を振いながら、「捕まえろ、捕まえろ」と叫んだ。天皇と私の間隔は十歩ぐらいであった。私は訴状を左手で高くさしあげて、左手に銃を持ったまま天皇に近づいていった。天皇は呆然と、馬上から私を見下ろしていた。そのとき奈良侍従武官長が馬をすすめて、天皇と私の間をさえぎった。私は停止して「折敷け(注 ひざまずけの意)」の姿勢をとり、「直訴、直訴」と叫びながら訴状を前方へさしだした。
「捕まえろ! 捕まえろ!」と、また賀陽宮が叫んだ。そのとき私は背後から強い力で引き倒された。起きあがると、血の気を失った奥田少尉の顔が目にはいった。
奥田少尉が何ごとか叫んだように思った。しかしその声はかすれて、言葉にならなかった。彼は慄える手で、私の背嚢をつかみ、どんどん突き押して、私を後方へつれて行った。私はこうして捕えられて、憲兵隊に引き渡された。』

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息詰まるような臨場感を伝える見事な文章です。北原二等兵の教養の深さを物語っています。

個人的な話になりますが、20代の頃、旧賀陽宮家の方と仕事をしたことがあります。当時は天皇制など無いほうが良いと考えていたので何も考えず話をしていましたが、このようなところで名前を聞くと歴史の重さを感じます。

山本太郎が天皇陛下に直訴したことを評価する、あるいは否定しない人がいますが、天皇陛下に対する直訴を認めることは、天皇陛下の位置を貶めることになります。
天皇制が2600年以上存続してきたのは、天皇陛下が権力の中心ではなく、日本人の心性の中心にいたからです。
愚かな行為で天皇陛下の存在を貶めることは、日本を貶めることになります。
断じて許すことはできない。



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