もののあはれと秋

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子供の頃、一年で一番さびしかったのが夏の終わりでした。
いつも夏休みの宿題が残っていて、登校日の朝までやっていましたが、何年生の時だったか、さすがに反省して夏休みが始まるとすぐに宿題に取り掛かりました。しかし、この反省が続いたのはせいぜい1週間で、結局登校日の朝までやっていました。
勉強だけやっていれば良かった時代にもう一度戻りたいものですが、こういうことに気づくのは、いつも手遅れになってからです。

「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」 

夏の終わりには、いつもこの歌を想い出して、子供心にも秋のさびしさを思っていました。
藤原敏行によって、立秋の日に詠まれた有名な歌ですが、この歌の背景には、立秋の日から風が変わるという詩作上の前提があったようです。

昔の日本人は、朝晩の涼しさや虫の声、木々の葉や雲の形など、わかりやすい変化によってではなく、顔をかすめる風の変化に秋が来たことを感じることができたのでしょう。
虫の声を右脳で聞く唯一の民族である日本人は、もののあはれを理解できる唯一の民族ではないかと思います。

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移ろいゆくものに、もののあはれを感じる日本人の心は、繊細な四季の変化に感応してはぐくまれたものでしょうが、その美的感覚が物質文明に浸食された現在の日本人の心にも残っているのは、いまだ残る四季の美しさとともに、もののあわれの根底にある優しさが、心の重要な位置を占めているからだと思います。

もののあはれを英語で表現すると、「complexd feelings of elegant beauty, delicacy and grief to nature and life.」となるようです。しかしこれだけ説明を重ねても、もののあはれの本質を知ることはできません。

以前、NHKBSで、「漂泊のピアニスト アファナシエフ もののあはれを弾く」が放映されていました。ソ連から亡命して、今パリに住むピアニストのワレリー・アファナシエフは、徒然草や源氏物語に感じるものあはれを心の拠り所に演奏するピアニストです。

彼は「もののあはれ」を感じる日本ほど、細やかな美的感覚をもった国はなく、その感性は世界でも類を見ないほど研ぎ澄まされていると言っています。

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今年の6月に、豊田市コンサートホールでアファナシエフの演奏会がありましたが、豊田市コンサートホールには能舞台があり、演奏会の後、「漂泊のピアニスト アファナシエフ もののあはれを弾く」で能の「夕顔」を舞っていた、金剛流家元の金剛永謹さんとの対談がありました。

能舞台の上手から、金剛永謹さんに続いて、右手と右足、左手と左足を同時に出す能の摺り足で入ってきたアファナシエフの姿を見て、この人はやはり過去世で日本人だったのだろうと感じました。
ドナルド・キーンさんやアファナシエフのような、もののあはれを理解し愛する人間は、きっと日本人の過去世を持っているのでしょう。






アファナシエフは「もののあはれを弾く」で、シューベルトのピアノソナタ21番を弾いていました。
西洋音楽でもののあはれが表現できるかどうかわかりませんが、モーツアルトではなく、「悲しくない音楽なんて知らない」と言ったシューベルトである点には共感します。
個人的には美しくて、優しくて、はかなくて、哀しい4つの即興曲の方に、よりもののあはれを感じます。



シューベルト 4つの即興曲第3番 ラドゥ・ルプー(ピアノ)


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