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ちいさな不幸に感謝

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先々月、通勤用の車を置いていた駐車場から、突然来月いっぱいで立ち退いてほしいと連絡がありました。
自宅から20m位の近場で、雨の日や荷物がある時も苦労しないで済むとても便利な場所だっただけに、突然やってきた小さな不幸を嘆きました。

近隣の駐車場を探しましたが一杯で、歩いて6~7分の場所にある駐車場を借りることにしました。これまで歩いて1分も掛からない距離だったので6~7分でも遠く感じられ、これから駐車場を利用するたびに不便を嘆くことになるだろうと思っていました。

ところが、新しい駐車場に車を置いて自宅に戻るたびに、不満ではなく感謝の思いが湧いてくるのでした。それは今日一日、元気で仕事できて有り難いという思いであったり、道すがらのキンモクセイやギンモクセイの香りがうれしかったり、あるいはタバコを止めて体重増加が気になる中、多少でも運動になってありがたいなという思いであったり、様々な感謝の思いが湧いてくるのです。

なぜ感謝の気持ちが湧いて来たかといえば、普段当たり前だと思っているすべてのことが実は有り難いことで、人は様々なお陰に支えられて生きているのだということを、駐車場の一件であらためて気づかされたからでした。
そのことは、理屈では良く分っていることで、以前の記事「ありがとうの反対語」で書いたことでもあります。
しかし人間は当たり前に慣れると、失うまでその有り難さを感じることはできません。
生命の根幹となる空気や水や太陽に、あるいは自分自身の健康に感謝を忘れないことは困難なことです。

ところで、新しい駐車場がもっと遠く、例えば歩いて20分の場所だったとしたら、感謝するどころか、やはり不満を募らせたはずです。失ったものの有り難さを感謝しても、代わりに与えられたものに不満を抱けば、感謝した徳が消えるだけでなく不徳を積むことになります。そのことがわかっていても、納得できる範囲の中でしか感謝できないのが凡人です。

人は幸せや満足や快適さの中で気づくことはできません。
失ったものの有り難さを教えてくれるのが、少しの不便さ、少しの不幸であったら、それは幸いと言うべきだと思います。
少しの不幸の中で気づかなければ、さらに大きな不幸によって学ばなければならないこともあるでしょう。
気づきのきっかけを与えてくれる、小さな不幸に感謝したいと思います。





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