丸谷才一さんの死に思うこと

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丸谷才一さんが亡くなりました。
小説については熱心な読者ではなかったけれど、日本語に対する評論や知的で軽妙な随筆の長年の愛読者でした。あの名エッセイがもう読めなくなったことを残念に思います。

丸谷さんの専門は英文学でありながら、万葉、古今、源氏などの古典の広範囲な勉強量と、漢文の素養、さらにあらゆる分野に対する知的好奇心のすさまじさに、いつも圧倒されていました。
今後、このような人が出て来ることはもうないでしょう。
なぜなら、テレビやパソコンや様々な情報に囲まれて暮らす現代人が、「本を読むことが人生で一番立派なことだった」という、読書一筋の人生を送ることはもはや不可能だからです。
昔の日本人は偉大だったと思うことしきりですが、丸谷さんは偉大であった日本人の、最後を飾る一人であったような気がします。

作家の辻原登さんが、読売新聞に寄稿した記事が心に残りました。

「いま、二葉亭四迷、森鴎外、夏目漱石、尾崎紅葉にはじまる「日本近代文学」の巨大な山脈が、私にみえる。これほどくっきりその姿を捉えたことはなかった。
丸谷才一さんが亡くなったからだ。丸谷才一という作家がその眺望を邪魔していたのではなく、彼がその山脈の最後の山塊を形成していたからだ。それは、ため息が出るほど美しい山容だ。
終わったのだ、と私はつぶやく。
・・・・中略・・・・
私たちの「日本近代文学」は、世界に誇る文学山脈である。それは、英文学山脈、仏文学山脈、独文学山脈、ロシア文学山脈に匹敵する規模と高さを持ち、日の光、月の光を浴びて輝くさまは崇高でさえある。
非ヨーロッパ地域で、唯一、日本においてだけ、なぜかくも豊饒な「近代文学」の稔がもたらされたのか。記紀万葉より江戸期に至る千二百年に亘る和文、漢文による豊かな文学地層があったからで、先に挙げた先達たちはみな、そのぶ厚い地層から出て、ヨーロッパ近代文学と出会うことでそれが可能となったのだ。日本古典と漢文古典とヨーロッパ近代文学との幸福な出会いが、日本列島で奇跡的に実現した。
丸谷才一は、その出会いの最後の体現者、主峰のひとつだった。

丸谷才一の死によって、「日本近代文学」の命脈は尽きた。あとには、荒涼とした、うすら寒い光景が広がっているばかりだ。どんな細道を行けばよいのか。・・・・・」

読売新聞編集手帳より
「丸谷才一さんが音楽学校で英語を教えていた頃の逸話が、まことしやかに伝わっている。丸谷さんの声があまりに大きいので、隣の教室で合唱の授業をしていたクラスが離れた教室に避難したという。合唱も打ち負かす伝説の大声をじかに浴びたのは、3年ほど前である。食事をご一緒した折、質問をした。村上春樹さんの小説が芥川賞の選に漏れたとき、丸谷さんは選考委員でしたね。いま顧みて、「しくじった!」という感想をお持ちですか?」。
「僕が!僕が、ですか?」。空気が震え、グラスのワインが波立った。
「Aだ」。丸谷さんはある作家の名前を挙げた。「Aが村上の才能を恐れて受賞に反対した。僕と吉行(淳之介)はAに抵抗したが、力が及ばなかった」。30年も前の選考会を昨日のように振り返り、血をたぎらせる。日ごろ穏やかな紳士だからこそ、大音声の爆発がサマになった。洒脱なエッセーなどで親しまれた丸谷さんが87歳で死去した。・・・・」

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昨年、丸谷さんが文化勲章を受章した祝宴の写真に、丸谷さんが英語を教えていた桐朋学園の教え子、小澤征治さんと、音楽評論家で桐朋学園の創立者の一人であった吉田秀和さんが愉快に談笑している姿が映っています。
今年5月、吉田秀和さんが亡くなり、今、丸谷才一さんが亡くなりました。
知の巨人たちが育つ豊かな土壌が、いつまでも日本に残ることを心から願います。





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