言葉は民族性

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言葉は時代と共に変化します。

「当たり前」と言う言葉は、「当然」が変化したものであり、「新しい(あたらしい)」は、「新たし(あらたし)」が変化したものです。

言葉の変化を承知していても、最近若い人がインタビューに答えて、「~しているんで」とか、「~と思うんで」と言っているのが気になります。

「~していますので」、あるいは「~と思いますので」と礼儀正しく答える若者はいません。

先のロンドンオリンピックでは、どの選手も、「勇気と感動を与えたい」と言っていました。

これは目上の者が目下の者に対して使う表現ですが、それが非礼であることを注意する監督やコーチはいなかったのでしょうか。

もしかしたら敬語の感覚が、急速に乱れてきたのではないかと思います。


最近の中国や韓国の言葉づかいを見ると、外見は日本人と似ていても、その内面性はまったく別ものであることがわかります。

かの国の為政者たちは、従軍慰安婦や領土問題が嘘であることを知りながら、平然と嘘をつき、日本を貶めながら利益を得ようとします。

不正や嘘を嫌い、損と知りながら正直であろうとする日本人のメンタリティーは、彼らとはまったく無縁であることを肝に銘じなければならないでしょう。


日本人は謙遜を尊び、自己宣伝を嫌います。

巧言令色少なし仁、言葉に出さずとも真実はいずれ明らかになると信じています。

このことは素晴らしいことですが、一方で上手に自己宣伝する技術が養なわれなかった原因でもあるでしょう。


日本の素晴らしい家電が苦戦しているのは、直接的には円高の影響ですが、海外メーカーのように、新製品を宣伝するために、アルバイトに夜中や早朝に並ばさせて、それをテレビ局に取材させるような、偽りの演出を嫌う体質も影響しているのではないでしょうか。

その意味では、余り丁寧語や尊敬語にとらわれず、テレビカメラの前で堂々と自己宣伝ができる若者たちが増えたことは、評価すべき点もあるのかもしれません。





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