生きる権利とは

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戦後、日本を堕落させた言葉の一つが、「権利」ではないでしょうか。

最近やたらと振りかざされる、「人権」とは何でしょうか。
人は生きる権利がある、平等に扱われる権利がある、最低限度の文化的な生活を営む権利があるなど、様々な権利が声高に叫ばれます。

生きる権利とは何でしょうか。我々は権利があるから生きているのでしょうか。

生きるためには太陽の光や水や空気が必要です。食べ物が必要です。
食べ物が生産されるためにも、水と空気と光が必要です。
水と空気は地球のものであり、光は太陽からです。水と空気の循環も、太陽のお陰です。
大地を区切り、自分のものだと権利を主張しますが、すべて地球のものです。

誰が作ったものでもなく、神が与えてくれたものです。

生命が偶然に出来ることは、確率的にありえません。人工的に作ることも出来ません。
偶然にできないことは、確率を計算すればわかります。
(命が偶然に出来ない確率については、「生命と神」をご覧ください。)

生命とは神の愛の賜物であり、神は生命を維持するために、水や空気や太陽の光や大地を与えてくれています。
神はその権利を主張しません。無償で与えてくれています。

江戸時代まで、日本に権利という言葉はありませんでした。
その代わり、太陽をお日様と呼び、水や火を祭っていました。
農作物の収穫に感謝し、秋の祭りを行っていました。
与えられること、生かされていることに感謝していました。

人権と言うものがあるなら、牛権、豚権、魚権、野菜権もあります。
すべての命に権利があります。
人間は他の生命を犠牲にしながら、命を維持しています。
他の命を犠牲にすることによって生きている人間が、自分の権利だけを主張することは傲慢です。

給食費を払っているので、給食を食べる時にいただきますと言わなくてよい、と教える親がいると聞いて驚きました。
このような親は、自分の権利のみを主張することでしょう。
「いただきます」とは作ってくれた人への感謝とともに、他の命の恵みをいただく感謝の心です。

「権利」と「義務」は対で使われます。言い換えれば、give & take です。
1を与えたら、1をもらう権利があると考えるなら、イエスの、
「自分がしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」、
あるいは孔子の、「己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」でなければならないでしょう。

真に価値あることは、対価を求めずに与えることです。
マザー・テレサは対価を求めて行動したわけではありません。give & give です。

私たちは権利があって生きているのではなく、生かされています。
行き過ぎた自由の主張が放埓になるように、行き過ぎた権利の主張は貪欲となります。
私たちがなすべきことは、生きる権利の主張ではなく、生かされていることを感謝し、与えられた命を輝かせることではないでしょうか。




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コメント

Re: 鹿とウサギのように

咲希さん

ウサギと鹿の写真、素敵ですね。
心が和みます。

命がどれだけの奇跡か、そのことを確率でみると良くわかります。
偶然にできることはありえないのですが、生まれた時から与えられているので、
不思議に思いません。

喜捨は報恩の行為ですから、人のためになることは、すべて喜捨と言えるでしょうね。
貧者が一灯を喜捨することは、富者の万灯に匹敵しますので、金額ではなく、
思いがすべてだと思います。

少しでも命を輝かせたいと思っていますが、未だ、五里霧中を歩いています。

2010/03/20 (Sat) 23:10 | パック #- | URL | 編集
鹿とウサギのように

パックさま、こんばんは。

鹿とウサギの写真、
ほのぼのとする素敵な写真ですね。(^―^)

本当に「与えるだけで権利を主張しない」
を、そっと教えてくれる写真ですね。

「生命と神」
の確立の数式は、
見ただけで、気が遠くなる数字の確立ですね。

(クラクラする程、難しい数式ですが(汗)
 生命の確立の数式をはじめて見させて頂き
 尊敬・感動しております。)

生きる権利とは話がそれてしまいますが、

お坊さんが「喜捨」とは・・・

「説法を説くことも喜捨ですが、
みなさんが、笑顔をふりまくことや、
元気な挨拶も喜捨です。」

と、おっしゃっていた事を
ふと思い出しました。


パックさまのおっしゃるように、
「生かされていることを感謝」できても、

「与えられた命を輝かせること」に関しては、
とてもとても、
ほど遠い私ですが、
少しずつでも、頑張って行きたいと思います。

いつも、素敵な記事を

ありがとございます。

心より感謝です。

(^―^)

2010/03/20 (Sat) 21:34 | 咲希 #- | URL | 編集
Re: No title

荒野鷹虎さん

おっしゃる通り、布施とは報恩感謝の気持ちを表すものだと思います。
自分が生かされている感謝を行為に移さなければ、言葉だけの有難うになってしまいます。
イエスは、自分の善行を人に見せびらかしてはいけないと、
「右手のしていることを、左手に教えるな」と言いました。
仏教的に言えば、陰徳を積むと言うことでしょうか。

2010/03/20 (Sat) 18:35 | パック #- | URL | 編集
No title

いつもご高説感銘して読んでいます。私は、仏教徒ですが。無欲で感謝の気持ちで、、布施をすることと同じだと思いました。!

2010/03/20 (Sat) 18:05 | 荒野鷹虎 #- | URL | 編集
Re: No title

yumiさん

すべての命が祝福されるわけではなく、生まれた途端に邪魔者扱いされることがあります。
花はみんなから愛され、雑草は邪魔者扱いです。
その事を道元は、「花は愛惜に散り、草は棄嫌に生うるのみ」と言いました。

命に変わりは無いのに、外見や要不要で扱いが変わってしまいます。
その判断をしているのが、人間のエゴです。

人間は勝手で弱い存在です。
その勝手で弱い人間を唯一偉大にするのが、心だと思います。
真善美を理解できる、唯一の存在が人間であれば、それを追い求めるのが
人間として生まれた我々の使命だと思います。

「魂は欲すれど、肉体は弱し」、いつもそのジレンマに苦しめられます。

2010/03/16 (Tue) 19:28 | パック #- | URL | 編集
No title

生きたくても生きられなかった命があることを考えた時にエゴで命を奪うようなことがどうして許されるのかと思ってしまいます。生きる権利を奪うことは誰にも出来ないはずなのに。。。。。

でもその権利という言葉でなんでも通すのは本末転倒なことよくありますね。。。
権利と主張する前に責任だったり感謝だったりという自分を見直すことを先にすれば人を責めるために、エゴを貫くために権利なんてこと言い出さないと思うのですが。。。。人間はやっぱりもろいものですね。。。

2010/03/16 (Tue) 12:14 | Yumi #- | URL | 編集
Re: No title

midoriさん

「いただきます」は、日本人の心性が現れた言葉なので、外国語の一つの言葉に置き換えるのは難しいえしょうね。
「いただきます」と言わなくても良いと教える親は、給食費を払っているので、食べる権利があると考えているのでしょう。
戦後の日本弱体化教育、ここに極まれりというべき、見事な成果です。

ウサギと鹿の写真は、パックを重ねていました。
今でも思い出しています。

2010/03/16 (Tue) 09:23 | パック #- | URL | 編集
No title

パックさん、こんにちは。感謝の心を忘れるばかりか、果たすべき義務も忘れて、権利だけ主張するのは論外ですね。本来の日本の心が、今よりもずっと貴く清らかであったということが、パックさんが折々指摘されているとおり、有難い、いただきます、などの言葉からわかります。お食事の前に、”いただきます”と唱えるのは、フランス人がボナペティというのとは訳が違うのだと、一生懸命説明したことがありますが、こんな親が出現するとなると、日本(語)自慢ができなくなってしまいます・・・。鹿といっしょのうさちゃんを、故パックちゃんの姿と重ねてご覧になっていることでしょうね。動物は健気で罪がありません。

2010/03/16 (Tue) 06:03 | parismidori #SQbl7Cak | URL | 編集
Re: タイトルなし

えんくんさん

科学の進歩と人間の進歩はまったく別物で、古代ギリシャやローマを見ていると、人間はまったく進歩していないと痛感します。
特に近年、思考力を奪い、人間性を破壊し、支配しやすいようにコントロールされています。

ある人から、「Right」を日本語にする時、「権理」と翻訳する案もあったと聞きました。
「権利」は自己の利益になりやすいので、「権理」と訳すべきでした。

生命はすべて根源的な一つの命から生まれ、また一つのものに帰ることに気づく時が
近いのではないかと期待しています。
そのために、宇宙の大きな力が働き始めるでしょうね。

2010/03/14 (Sun) 21:50 | パック #- | URL | 編集

自分が、生命全体の一部である事を感じにくい世の中だから、生命の神秘への畏怖の念を抱きにくいのでしょうね。
全体を見渡せる場所へ辿り着こうにも、障害物や足を引っ張る雑事が多過ぎます。
大半の人は、精神に翼を与えてくれる本物の音楽にも、そうそう出会える機会もないでしょうし。
地上に縛り付けられて、窒息寸前になってる姿を見るのは辛いです。

江戸時代まで、「権利」という言葉がなかったのは象徴的ですね。
日本に過剰な権利意識は、馴染まないかと、、、。
「権利」という言葉も、日本人の強固な横の繋がりを切断し、孤立した原子の様にさせて、奴隷化を進めるために役立ってますね。
人と人の距離が、時代が進めば進むほど遠のいていく気がします。

自然と悪い面ばかり目についてしまうのが悲しいですが、俺も感謝を忘れずに、生命を輝かして、大海原に還っていこうと思います。

2010/03/14 (Sun) 20:33 | えんくん #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

せばすてぃあんさん こんばんは。

相変わらず忙しそうですね。
忙しいのは良いことですが、それも程度の問題ですね。

いつの頃からか、自分の利益、権利のことばかり言うようになりました。
自分さえ良ければ、人がどうなろうと構わないという風潮ですが、
道徳心が薄れて行くのと比例しているように思います。

ところで、最近、ヤナーチェクの弦楽四重奏にはまっています。
ほとんど毎日聴いていますが、飽きないですね。
コンサートで聴く機会がないのが残念です。

2010/03/12 (Fri) 22:18 | パック #- | URL | 編集

こんばんは!

そういえば最近というかもうずっとこの
「権利」
と言う言葉が横行していますよね。
良い意味ならいいのですが、
その意味すら何なのか分らないのに、言ってる感じ。

仰るとおりこの「権利」とやらは、
人間のエゴなのかも知れないですね。

2010/03/12 (Fri) 19:44 | せばすてぃあん #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

風光さん

争いは権利の主張から始まります。
それはエゴのぶつかり合いですが、最近はそれを正当化するようになってきました。

「行列のできる法律相談所」という番組がありますが、訴える行為を正当化しています。
裁判員制度も裁判に慣れさせて訴訟を日常化させ、弁護士の仕事を増やそうとするアメリカの策略ですが、日本もアメリカのような訴訟社会になる恐れがあります。

権利意識は、愛よりも憎しみを助長するものです。
お互いを尊重し、感謝する気持ちがあれば、権利の主張は起こらないはずです。
日本はそのような社会であってほしいですね。


2010/03/12 (Fri) 12:23 | パック #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

タヌ子さん

昔、親から「米と言う字は、八十八と書く。米ができるまで、お百姓さんは八十八の手間をかけてくれている。残したらバチが当たる」と教えられました。
タヌ子さんと一緒で、今でも食べ物を残すことができません。
食べきれない程注文することもできません。

「キリスト教国でも食事の前の神への感謝の祈りを捧げる習慣は薄れ」ているのは驚きました。
キリスト教の原点と言うべき習慣であるはずですが、それが失われてきているのであれば、信仰が形骸化しているのでしょうか。

人類の歴史は、食糧確保の歴史でした。
食糧の確保が難しかった時代が長く、人間の体は栄養不足には耐えられるように出来ていますが、栄養過多に対しては耐える力がありません。
成人病の多さはそのためですが、一方で食べ物に対する感謝の心を失ったことが背景にありそうです。
食べられる有難さを表す、「いただきます」は素晴らしい言葉ですね。


2010/03/12 (Fri) 10:18 | パック #- | URL | 編集

権利は時に自分の欲求を満足する時に使われる場合が多いようです。
上下関係を作ったり、自己の意見を押し通そうとしたり・・・・
その思いの中に、相手の権利までを考えない事が多いですね。

私は生かされているものすべてが平等だと思うのです。
平等と言う中では権利を振りかざすことは必要がなく、互いに尊重し合うことしか生まれてこないように思います。
誰かが権利を盾にすれば、おのずと相手も同じように権利を盾にしようと思うのでしょうね。
権利は武器に変わってしまうこともあるように思います。

まずは生かされているもの全ての生命を感じ、個人では生きていけない事を知る(気が付き)事だと思います。
全ては愛ある行動から始まるものであって欲しいと思います。

2010/03/12 (Fri) 10:06 | 風光 #- | URL | 編集

給食費を払ってるからいただきますは言わなくてもいいと言う親がいるなんて信じられません。
私が子供の頃は、幼稚園でお弁当を食べる前には必ず『お父さん、お母さん、お百姓さんありがとうございます!』と手を合わせてから頂いていました。
そのせいか、今でも食べ物を残すということにすごく抵抗感があります(だから太るのですが:::)。
食物が食卓に上るまでは色々な人の手がかかっています。
今は農家も機械化で、手作業をすることはあまりないかも知れませんが、それでも、一つの『命』を別の『命』が吸収するために育ててくれていることには変わりありません。
最近はキリスト教国でも食事の前の神への感謝の祈りを捧げる習慣は薄れ、敬虔な正教徒が多いギリシャでは食べ物は残すのが当たり前という習慣があり、皆食べきれないほどの量を注文します。
イスラムでは食事を残すのは当たり前のことだそうですが(余ったものは捨てずにどこかに回っているらしい)、キリスト教国でそういう光景を見るのは悲しいことです。

2010/03/12 (Fri) 09:41 | タヌ子 #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

アラレさん

思いつくまま書いて、推敲せずにアップしたので、舌足らずな内容でしたが、
アラレさんのコメントが補足してくれました。
有難うございました。

日本で主張される「権利」や「自由」は、わがままやエゴイズムであることが多いですね。
キーワードを頂いたので、補記します。

鹿とウサギの写真、素敵ですね。
あの2匹は野生ですが、なぜか仲良しです。
お互い、与えるだけで権利など主張しないでしょうね。

2010/03/12 (Fri) 06:20 | パック #- | URL | 編集

「権利」という言葉を声高に叫ぶ人間の多くは、おそらくは意図的に「わがまま」という言葉とすり替えて使っているのでしょう。
同じような使われ方をしている言葉に、「自由」という言葉もあります。
本来、それらには「義務」「責任」が付いて回ります。
当然、すり替えて軽々にその言葉を使う人間に、「義務」も「責任」も負う覚悟はありません。元々、「わがまま」を言っているだけでしょうから。

日本にも勿論、「権利」「自由」という言葉を使うに値する人たちもいるでしょう。あるいは、その言葉で守られるべき人たちもいるでしょう。
しかし、実際に使いたがるのは無責任で、わがままな、横着者。
あるいは、「不平」「不満」を愚痴りたがるだけの怠け者。

我が事を書いてるようで、少々切なくなってきた。

「権利」という言葉が、どれほど多くの人たちの血や汗や涙の中から生まれたかを思うと、軽々に使い、パックさんに「日本をダメにした」と感じさせるほどに貶めた者たちにこそ憤りを感じます。もちろん、私も含めて。

鹿とウサギの画像、素敵ですね。心が和みます。

ありがとうございました。



2010/03/12 (Fri) 02:49 | アラレ #- | URL | 編集

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