聖人と言われた人物ー中江藤樹

ブログを書き始めてから1年が経ちます。自分の意見や情報を発信する多数のブログの存在を知り、日本人の文章力の高さを知りましたが、中でも多くの女性が自分の意見や価値観を自由に発信しているのに驚きました。もしかしたら紫式部や清少納言の伝統が生きているのではないと思わせられるほどです。
現在、世界のブログの37%が日本語で書かれており、世界一だと言われます。控えめな日本人にとって、匿名性の高いブログは優れた自己表現の場となっているのでしょう。

これまで政治的な記事を控えてきましたが、記事のあり方を模索しながら2年目に入ります。

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近江聖人 中江藤樹


日本の歴史上、数多くの偉人がいます。しかし、聖人と称された人は多くありません。その第一が「近江聖人」と言われた中江藤樹です。内村鑑三の著書「代表的日本人」では、「ここに理想の教育者がいる」として紹介されています。

中江藤樹は1604年生まれですから、江戸初期の人です。日本の陽明学の始祖と言われます。
自宅にフジの老木があったことから、藤樹先生と呼ばれました。

藤樹は九歳の時に読み書きを習い始め、十歳の時には庭訓住来貞永式目を学び、それらを忘れることがなかったといいます。十七歳の時には、四書大全を学び終えており、極めて優秀な頭脳であったことがうかがえます。

吉田松陰、佐久間象山、橋本佐内などの幼少期の天才的なエピソードを思い出しますが、それは日本のかつての幼少期の教育が、如何に優れていたかを物語るものであり、同時に、最も頭脳の働きが活発な幼少期に、「ゆとり教育」を行うことの愚かさを証明しています。


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藤樹記念館

中江藤樹の藤樹書院は日本で始めての私塾と言われます。私塾や寺子屋の果たした意義については過去の記事「吉田松陰から思うこと」をご覧ください。

中江藤樹の考えを簡単に言えば、何が正しいかを本当に知っていれば、人は正しく行うことができる、知っているつもりでも実践できなければ、本当に知っているとは言えないというものです。

「人間千々よろづのまよひ、みな私よりおこれり。わたくしは我身を、わが物と思ふよりおこれり」

この言葉は、人間の迷いや悩みが、小さな自分の肉体を自分と思うことから生じるものであり、真の自分は心・魂(真我)にあることを教えるものです。
「胎内にある間も母徳の教化あり」との言葉は、現在の胎内教育を思わせますが、魂の仕組みが分かっていなければ言えない言葉であり、陽明学というだけでは藤樹の全体像を見ることができないのではないでしょうか。

藤樹の生涯を見る時、大洲藩を脱藩してまで母の面倒を見るために帰郷したことが、人生の岐路であったことが分かります。士農工商が支配する当時に、それを行うことがどれほどの決断であったか、想像に余りあります。
今、多くのサラリーマンが親の面倒と仕事の板ばさみにあります。
藤樹先生なら、迷わず「孝」を優先しなさいと言われることでしょう。

㈱タニサケ発行の上田三三生著「歴史と人物に学ぶ」より引用します。


「琵琶湖西岸の小川村(現在滋賀県安曇川町)が、中江藤樹生誕の地であり、逝去の地であります。
少年期から青年期にかけ、武士だった祖父の転勤にともない、山陰の米子、それから四国の大洲に移り住みます。
大洲藩郡奉行だった祖父、さらに祖母があいついて亡くなり、加えて故郷で農業を営む父も病没。母ひとりが小川村で暮らしているので、「いま孝行をつくさなければ、後悔しても間にあわない」と武士をやめ故郷に帰ります。

刀を売った資金で、米や酒を仕入れ安く売り、貧しいながらひたすら老母に仕え、村人たちに学問を教え、うわさを聞いて遠近から藤樹の人柄を慕ってくる者に講義をしたり、本を書いたりする日々でした。

酒を買いに来た村人には、今日はどんな仕事をしたかたずね、その労働の程度によって、売る酒の量を加減します。酔って喧嘩をする者や、酒で身代を持ちくずすようなことがなくなりました。学問を教えている時に客がくると、自由に量って持っていかせ、代金は竹筒に勝手に入れさせます。少しの間違いもありませんでした。現在、藤樹署員で行われている本の販売方法もそうです。

知行合一(ほんとうに知ることは行うことである)-つねにみずから先頭に立って実践し、人々を導くので、賢愚、老若男女にかかわらず、大きく広く深く、その感化を及ぼしました。

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藤樹書院

講義を受けていたなかのひとりの馬方が、客が馬の鞍に結びつけたまま忘れた二百両入りの財布を、八里(32キロ)も離れた宿場まで届に戻り、礼金を受けようとしなかった話は有名です。

たまたまこの話を聞いたのが、学問の師を求めていた熊沢蕃山という武士でした。
あなたのような立派なお武家にお教えするような学も徳もございません」と固く断る藤樹の家の前に二日も座り込んで、蕃山の入門がかないました。
のち岡山藩に仕えた蕃山は、学問を実際の政治の上に大きく生かします。

藤樹は日本最初の陽明学者といわれる人です。徳川幕府は儒教の朱子学を盛んにしました。朱子が形式や礼儀を重く見たのに対し、王陽明はこころの持ち方を大切にしたのです。

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「良知に到る」-人はだれでも、生まれながらにして美しい心、すなわち良知を持っています。その心をよごさず、いつも鏡のように磨きあげておく、これが身を修める根本だという意味であります。具体的には、「孝は徳の本なり」で、藤樹は孝を実践して、後世にまで手本を示したのです。

小川村の玉林寺に藤樹のお墓があり、付近には藤樹書院があります。村の有志の方が、今も交代で説明に当たっておられます。藤樹神社も、藤樹記念館もあって、藤樹の教えが現代にも脈々と伝わっていることがわかります。

至徳堂 大洲市
大洲市 至徳堂

愛媛県の大洲の場合もそうです。大洲の人たちは、藤樹先生、藤樹先生と敬称して、今もその学徳を慕っています。県立大洲高校の敷地内に藤樹邸が大切に保存され、生徒の茶道・華道の稽古など、現在も活用されているのには驚きです。

藤樹は若くして亡くなりますが、多くの門人を教えるのに、熱心・まじめ・丁寧だったため、「近江聖人」と讃えられ、長く尊敬され続けているわけです。」  寛永五年(1648年)四十一歳没



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藤樹記念館 馬方又左右衛門

逸話「正直馬子」高島市ホームページ

ある日、河原市(現在の滋賀県新旭町安井川)に住む馬子の又左衞門は、京都へのぼる加賀の飛脚を馬に乗せました。そして、仕事を終えて河原市にもどり、馬を洗おうと鞍を取り外すと、さいふのような袋が出てきました。その中味を改めると、なんと金子200両もの大金が入っているのでした。

 驚いた馬子は、「これはもしかしたら、さっきの飛脚のものかも知れない。今ごろは、あの飛脚きっと困り果てているに違いない」と思うと、ふたたび馬子は日暮れの道をとって返し、飛脚の泊まっている榎の宿(現在の滋賀県志賀町和邇)まで、30キロの道のりを走っていったのです。

 いっぽう、飛脚はというと、旅篭で旅の疲れをいやそうとしたところ、大金の入った袋が手元にないことにようやく気づき、必死であたりを捜したものの、どこにも見つかりませんでした。
 そうした折、馬子が旅篭に現われたのです。飛脚に会って、いろいろ仔細をたずねると、確かに飛脚の置き忘れ物であることがわかり、馬子は200両の入った袋をそっくりそのまま返してあげたのです。
「この金子は藩の公金で、京の屋敷へ送り届けるためのものです。もしも、この金子200両が見つからなかったときは、自分の命は申すまでもなく、親兄弟までもその累がおよんで、重い罪になるところでした」と、飛脚は涙ながしながら話すのでした。

 そこで飛脚は、行李より別の金子を取り出し、当座のお礼として馬子に15両を差し上げるのですが、馬子は一向それを受け取ろうとはしませんでした。馬子は、「そなたの金を、そなたに返したただけなのに、なんでお礼などいりましょうや」と言うばかり。そこで、飛脚は10両と減らし、5両、3両と減らして馬子に受け取ってもらおうとするのですが、それも受け取ろうとはしません。困りはてた飛脚の顔を見かねて、ようやく馬子は「それじゃ、ここまで歩いてきた駄賃として鳥目200文だけは頂戴いたしましょう」と。

 200文を受け取った馬子は、その金で酒を買ってきて、旅篭の人たちと一緒に酒を飲み交わしました。酒もなくなり、ほろ酔い機嫌で馬子が帰ろうとすると、飛脚は感激のあまり「あなたはどのような方か」と問うのです。

 馬子は、「自分はこのように名もない馬子に過ぎません。ただ、自分の在所の近所に小川村(現在の滋賀県安曇川町上小川)というところがあって、この村に住んでおられる中江与右衞門(藤樹)という先生が、毎晩のように講釈をしておられ、自分も時々は聞きにいくのです。先生は、親には孝を尽くすこと、人の物を盗んではならないこと、人を傷つけたり、人に迷惑をかけてはならないことなど、いつも話されておられます。今日の金子も、自分の物ではないので、取るべき理由がないと思ったまでのことです」と言って、夜遅くふけて河原市へもどりました。

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藤樹記念館 藤樹の母

逸話「藤樹の母」(心の洗濯室

藤樹のいる伊予とは違い、母の住む近江は冬はことのほか寒い。井戸端での水仕事で老母の手にひびやあかぎれができていはしないかと心配した藤樹は、冬のある日とうとう、思い余って母を訪ねるのである。母のためにあかぎれの薬を買って急ぎ故郷へ帰った藤樹は、雪の降りしきる戸外でつるべ仕事をしていた母にその薬を差しだしていたわり、肩を抱いて家の中へ入ろうとする。

ところが母は、
「あなたは学問をするために生まれてきた人だ。母を訪ねる暇などないはずだ。すぐに帰りなさい」
と、薬も受け取らず、家にも入れてくれずに藤樹を追い返してしまうのだ。母に諭(さと)され、雪深い道をとぼとぼと帰っていく藤樹の後ろ姿を、老母は涙しながら見送るのである。辛い別れでありながら、母親の子を思う気持ちを理解した藤樹は、その後勉学に励み、当代一流の儒学者となる。そしてその評判は、日本全国津々浦々に鳴り響いていくのであった。」(「自分の品格」渡部昇一著 三笠書房より)


逸話「そば屋の看板」中江藤樹記念館
小川村からほど近い鴨村の街道ぞいに、一軒のそば屋がありました。その主人は、藤樹先生が大変りっぱな学者だと聞きおよんで、先生に店の看板を書いてもらったら、きっと商売繁盛になると思い立ち、まっさらの板をかかえてお願いに上がりました。先生は、ふたつ返事で承諾しました。

一週間が過ぎて、主人が先生の屋敷をたずねると、「まだできておりません。もう少し待ってください」との返事でした。それからまた10日ばかりが過ぎた頃にうかがうと、そこにはみごとな字で書かれた看板ができ上がっていました。主人はとても喜び、さっそく店の軒先に吊るしました。

ある時、大名行列があって、そば屋の近くで休息をとりました。家来がお殿様にお茶を差し上げるためそば屋に行くと、軒先の看板に目が止まりました。「これを殿様に献上したら、きっとお喜びなされるに違いない」家来は、大金を主人にわたして、看板をもらいうけました。

思わぬ大金を手にして喜んだ主人は、もう一度、先生に頼んでおなじ看板を書いてもらおうと、屋敷に行きました。先生は、主人を座敷に上がらせ、家の奥から半櫃を運び出してふたを開けました。すると、その中にはなんと「そば屋」の下書きのほごが、びっしりと入っていたのです。それを見た主人は、驚くとともに、自分のなした言行の軽率に、ふかく恥じ入るのでした。

逸話「愚鈍な子を医者に育てる」中江藤樹からの伝言
中江藤樹は、「医者になりたい」という願望をもった大野了佐という愚鈍な少年を 医者に育てあげました。了佐は一つのことを何百回も繰り返してようやく覚えますが、晩飯を食べるとすっかり忘れてしまったといいますから、かなり鈍かったようです。
 
それを藤樹は根気よく教え導き、育てます。これは並々ならぬことです。そして本当に医者に育て上げたというのですから、これぞ真の教育者と呼べるのではないでしょうか。藤樹は「了佐を医者にするのに、精根尽き果てた」ともらしています。
中江藤樹の、「各自の得意とするところをよく知り、それぞれの能力、分際にふさわしくそれを使えば、用に立たない人間はいない」 という言葉は実際の経験からにじみ出た金言です。

逸話「醜女との結婚」pケペル先生のブログより

藤樹は結婚も30歳のときであるから、当時としてはずいぶんと晩婚だった。律義にも「三十にして室(妻)有り」という礼記にならったものであろう。しかも、この妻にした女性は高橋某の娘だが、これがもう二目とは見られぬほどのひどい醜女だった。

母親のほうでも「おまえ、弟子の出入りも多いことだし、なにも好き好んで、あのようなひどい面相の女をそばに置くこともないではないか。いまからでも遅くはない。離縁しなさい」と申し出たほどだったが、日ごろ母親のいうことはなんでも聞く親孝行息子の藤樹であるが、このときばかりは頑として母親の言を容れなかった。

「あんな醜女のどこがいいんだ」母親があきれるように言うと、「女は顔ではありませぬ」藤樹はきっぱりと答えた。「たしかに、あの女は見てくれは悪い。しかし、性格がとてもいいんです。非常に利口で、気くばりもきき、考え方にまちがいがありません」息子にこういわれては、それ以上母親も口出しはできない。ついに、嫁を追い出すことをあきらめた。

この藤樹と13歳年下の妻は、はじめの4年間に3人の子を生んだ。いずれも育たず、5年目に産んだ男の子がようやく無事に成長した。これが嗣子の直伯。ついで9年目に次男の仲樹を産んだが、産後の肥立ちが悪かったのだろう、26歳の若さで他界した。藤樹もそれから2年後の慶安元年8月に死んでいる。享年41歳だった。(参考:歴史読本29-1)

参考:中江藤樹記念館  
   :中江藤樹
   :林田明大の「夢酔独言
   :中江藤樹





国際有機認証「しらい田七人参」
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コメント

Re: タイトルなし

トレビアンさん、こんばんは。

トレビアンさんのいつもながらの行動力に感心します。
学生時代の探検部の好奇心が今だ健在ですね。

剃髪(毛)されて身も心も軽くなり、さらに行動力がアップしたのではないですか。

こんばんは。
私は近江高島(滋賀県)にドライブに行きます。
その時に中江藤樹の里を何度も訪問していましたが、興味を持ったのは最近です。
滋賀県からも結構逸材が出ているのですね(*^_^*)

Re: コメント欄

ys_tate様 ご無沙汰しています。

過分なコメントを頂きありがとうございました。
コメント欄を閉じたいと考えた理由は二つあります。
一つはいつも交流頂いている方に、負担を掛けたくないという思いです。
もう一つは、1年前にブログを始めて、まだコメントを頂くことが無かった頃のことを思い出すと、
人様の評価を気にせず、自分の書きたいことだけ書いていました。
しかし、コメントを頂き始め、そのコメントに励まされる一方、読んでくださる方を意識する
自分の卑しさを感じ始めました。

ブログを書き始めた頃、ブログランキングに参加していました。
ランキングが上がれば、更に上位を目指したい思い、トップになった時は、
その位置を維持したいと考えていました。
それに振り回される自分が嫌になり、ランキングをはずしましたが、
今から思えば良い判断だったと思っています。

コメント欄につきましては折角のご意見ですので、しばらくこのままにしたいと思います。
しかし、義務的な記事を書いたり、受けを狙う自分が嫌になった時は、はずすべきだと考えています。

貴重なご意見をいただき有難うございました。
今後とも宜しくお願い致します。





コメント欄

パック様、お世話になります。
私は、パック様の記事を拝読いたしますことで、
明らかに己の道のあるべきを「修正」いたしております。
その「修正」の主軸は、パックさまの記事の内容によるものですが、
パック様は確かなるご意志で自分ではない「ことがら」をもちいることで、ご自分の「こころ」を体現され、そのことでひとつの融和を出現させておられる、と感じております。
その融和の時間軸に追従し、コメントをお書きになられる皆様が、
パック様のおこなった融和と同様に、記事とコメントのさらなる融和を生みだされている、と感じております。
それは、私にとって、ひとつの「こころ」の象徴でありました。
私はそのひとつの「こころ」の象徴を拝読いたしますことで、
私の中のあらたな融和を生成いたします。
その私の「融和=己のこころ」こそが私にとっての、
「修正」であり、「宇宙」の「光」なのであります。
どうか「コメント欄」のある「一体」ログを存続させてください。
******
中江藤樹先生のお記事は今回も涙をもって拝読させていただきました。
これからも宜しくお願い申し上げます。
有難う御座いました。
ys_tate

Re: タイトルなし

yumiさん こんにちは。

サウンド・オブ・ミュージックは、ローマの休日と並んで、私も一番好きな映画です。
子供たちと一緒に何度見たかわかりません。
モデルとなったマリアさんは何年か前に亡くなりましたが、存命の頃、
NHKが特集番組を放映していました。
親思いの子供たちに囲まれて、幸せな一生だったことを知りほっとしました。

yumiさんの月見の記事で子供の頃を思い出していました。
節分の豆まき、節句、七夕、月見、四季折々の伝統行事が楽しい思い出として残っています。
日本の伝統行事は文化であるとともに、子供の記憶に楽しい思い出として残る、親と子の
大切な絆であることを再認識しました。

コメントのご意見有難うございます。
良く考えてみます。

いつもパックさんの記事にはすぐにコメントを書くのではなくて何度も読んでから書きたくなるのでまたまた遅くなってしまいました(^^;)
このお話が頭に残っていた状態でたまたま子供の見ているチャンネルでサウンドオブミュージックをやっていました。私の一番大好きな映画です。
フォントラップ大佐が家族を優先してナチの命令に背いて国を出るということになるのですが、その生き様を映画で見て終わったときにふとパックさんの記事で拝見した中江藤樹のお話が思い浮かんだのです。。。。目先大変なこととか時代の流れとかでも大きな脅威にそむくとどうなるかとかじゃなくて家族を大切にした選択をしたというところに共通点のようなものを感じました。
自分の人生でもまだまだ小さなことに迷いが沢山あります。そんな迷いや悩みも中江藤樹のように何を大事にするべきかがしっかりわかっていると岐路に立たされても迷うことがないのでしょうね。。。こういう大きな考え方をイメージすると映画で考えされられたガンジーなども思い出されるのでしょうが、ということは人として、国や文化や時代を超えて大事なものってシンプルなのでしょうね。。。。いつもいいお話をありがとうございます♪
そしてパックさんとの会話がなくなるのは寂しいので是非コメント欄閉じないでください~~☆

Re: タイトルなし

アラレさん こんにちは。

コメントに気をつかって頂き、申し訳ありません。
私のブログはコメントを書きにくいと思いますので、
今後、コメント欄を外し、お気づかい頂かないようにしようかと思っています。
有難うございました。

パックさん、いつも素晴らしい記事をありがとうございます。
また、今回も私のブログにコメントをいただきありがとうございました。

なかなかコメントを書けずに途中で挫けておりまずが、記事ごとに色々と考えさせられながら、楽しく拝見させていただいております。

パックさんのおかげで、今回もまた一人、素晴らしい方を知ることが出来ました。
これからも、素敵な記事を書き続けて下さることを、心から楽しみにしております。

Re: 円相の心

風光さん、まったく同感です。
人間の魂は、生まれてから死ぬまで丸く光り輝いていると思います。
自分の肉体がすべてであるとの思いが、その光を覆い隠すのでしょう。

子供は白紙であり、そのキャンバスには何でも書き込むことができ、どんな色でも塗れます。
俗悪を教えれば俗悪に、気高いことを教えれば感動できる人間になります。
すべては大人の責任だと思います。
藤樹のエピソードに、愚鈍の子を医者に育てる話がありましたので追加します。
ありがとうございました。


円相の心

笑顔で拝読させて頂きました。

私は人間の本来持つ心は円相であると思っております。
その円相は生涯変わらぬままに円相であるのですが、
いつしかその事を忘れ、迷いや悲しみに心を奪われ
自分の心が歪になってしまったと思ってしまいます。

また、そんな人を見た他人も同様に表面的な判断で
本来持つその人の良さを見なくなってしまいます。

人生ですので色々な問題に出会いますが、
満月が雲に隠れるように、また光のさし方で
円く見えなくなりますが、満月が欠けたのではなく
いづれ消えゆく暗雲と思っています。

私は自分のこれまでの体験から真の生き方を考えてきました。
そんな中で不登校と出会い、また発育障害と告げられた子とも出会い
その都度、自らに問われる課題として、そしてその子たちが、
自ら内面を磨けるように話しております。

他人の評価は、ややもすると間違った方向を向かせてしまいます。

私も戸惑いながらの塾の運営ではありますが、
人には永遠に変わらない円相の心がある事を伝えていきたいと
思っております。

塾中でしたが、よい講義を聞かせて頂きました。


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