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花子と白蓮

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NHKの朝の連続ドラマ「アンと花子」は、「赤毛のアン」の翻訳者村岡花子が主人公ですが、花子が歌人の白蓮と親友であったことは知りませんでした。
ドラマの中で、花子の友人である伯爵家の葉山蓮子が、年の離れた九州の炭鉱王と結婚しますが、生まれ育った華族の環境との違いに、次第に希望を失って行きます。多分このあとの展開で「白蓮事件」が出て来るのでしょう。
それにしても、主人公の着る着物の美しさに毎回目を奪われます。着物はなんと美しい衣装でしょうか。


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 白蓮

白蓮の本名は柳原燁子(あきこ)。華族出身の歌人でその美貌でも有名でしたが、北小路家に嫁いだあと離婚し、その後九州の炭坑王伊藤伝右衛門と再婚しました。
燁子はかねてより短歌を佐々木信綱に学んでいて「白蓮」と号していましたが、夫の伊藤伝右衛門は女出入りが激しく、燁子の孤独な生活の中で生きがいは短歌と詩だけでした。
  
   ゆくにあらず帰るにあらず戻るにあらず生けるかこの身死せるかこの身

こうした時、白蓮は社会主義運動家で東京帝国大学法学部に在学していた宮崎龍介と出会います。
宮崎龍介との関係が深まり夫との離婚を決意した白蓮は、大正10年10月、大阪朝日新聞に夫への絶縁状を公開しました。

まだ姦通罪がある時代に、華族出身の美貌の歌人柳原白蓮が、夫である九州の炭坑王伊藤伝右衛門にあてた絶縁状を新聞に発表したことにより、世情を騒然とさせるスキャンダルとなり、白蓮に対して轟々たる非難がまきおこりました。これが「白蓮事件」です。

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事件当時の宮崎龍介と白蓮

白蓮は昭和42年に81歳で亡くなりました。夫の弁護士宮崎龍介は「柳原白蓮との半世紀」という回顧録を同年6月の文芸春秋に寄稿しています。
私は見た―決定的体験 (文春文庫)」という本にこの回顧録が掲載されており、それによるとこの絶縁状を朝日新聞に掲載する事を決めたのは宮崎龍介と友人の赤松克麿、それに朝日新聞にいた友人早坂二郎の3人であったということです。

そこには伊藤伝右衛門の社会的立場に対する配慮や、白蓮に向けられる世の中の非難に対する配慮はありませんでした。多分正義感の強い若い社会主義運動家たちは、大金持ちが金にあかせて女性の人格を踏みにじっていることに対して、社会的制裁を加えなければならないと考えたのでしょう。
社会主義的な正義感には、本人の気づかない独善性が含まれています。

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伊藤伝右衛門と白蓮

しかし大正時代、石炭王の女出入りが激しいことは世間の容認するところであり、ましてや姦通罪があった時代にこのような絶縁状を妻が発表したことにたいして、轟々たる非難が沸き起こったのは当然のことでした。白蓮はこの後、世間から身を隠し、宮崎龍介に対しては、悪党、国賊と罵る手紙が山のように届きました。
この騒動のあと、伊藤伝右衛門が度量を見せて離婚が成立したのは幸いなことでした。

後ほどご紹介する絶縁状は、白蓮が宮崎龍介と赤松克麿と相談して書いたものです。夫への不平不満や恨みが綴られていますが、その内容は女性問題に終始しています。
どの時代でも夫の女性問題で悩んでいる人は大勢いますが、その上に大酒飲みで仕事をしない男もいれば、暴力を奮う男だっています。それに比べれば、むしろ贅沢三昧できた白蓮は恵まれていたと言えるかもしれません。
女性問題で新聞に絶縁状を出されては、男性はたまらないですね。(無論私は平気です)


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旧伊藤伝右衛門本邸

伊藤伝右衛門の本邸は飯塚市にありましたが、燁子を迎えるため福岡天神に青銅の屋根の御殿を作り、湯の町別府にも瀟洒な別荘を構えて燁子に気ままな暮らしをさせていました。
自分なら亭主はいらないのでそっちを選ぶ!という女性も少なくないでしょうね。

白蓮は晩年、緑内障で両目が見えなくなりました。
短歌研究」に寄稿した最後の作品にはその辛さが綴られています。 

   月影はわが手の上と教えられさびしきことのすずろ極まる
   昨日と云い今日とくらしてうつそ身の明日のいのちをわが生きむとす
   そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ


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白蓮と宮崎龍介と子供たち

回想録の中で宮崎龍介は、「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人々よりは燁子の個性を理解し、援助してやることができたと思っています」と述べています。

それほど自信があるわけではないと言っているのは、多分白蓮のその後の人生に苦労や心労がつきまとったからでしょう。
特に生きがいであった息子が学徒出陣で戦死したことがこたえたようで、死ぬ間際まで、ひょっとしてお母さんただいま、と帰って来るんじゃないかと願っていたようです。

   英霊の生きてかえるがありといふ子の骨壷よ振れば音する
   きちがひと人や見るらめ子が植えし花にものいふわれ見る勿れ  
   かへらぬをかへるとかりに楽しみて子が座をおきぬわれと並べて 
   かえり来ば吾子に食わする白き米手握る指こぼしては見つ

以下は大正10年10月に大阪朝日新聞に公開した夫への絶縁状です。長いのを書き写しましたが、どこかでコピペできたかもしれません。お暇な方はご覧ください。

「私は今あなたの妻として最後の手紙を差し上げます。今私がこの手紙を差し上げるということは、あなたに取っては突然であるかも知れませぬが、私としては当然の結果に外ならないので御座います。あなたと私との結婚当初から今日までを回顧して、私は今最善の理性と勇気との命ずるところに従って、この道を執るに至ったので御座います。

ご承知の通り結婚の当初からあなたと私との間には、まったく愛と理解とを欠いていました。この因襲的な結婚に私が屈従したのは、私の周囲の結婚に対する無理解と、そして私の弱小の結果でございました。
しかし私は愚かにもこの結婚を有意義ならしめ、出来る限りの愛と力とをこの内に見出して行きたいと期待し、且つ努力しようと決心しました。

私が儚い(はかない)期待を抱いて東京から九州に参りましてから、今はもう10年になりますが、その間の私の生活はただやる瀬ない涙を以って掩(おお)われまして、私の期待は総て裏切られ、私の努力はすべて水泡に帰しました。
貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私は茲に(ここに)くどくどしくは申しませぬが、貴方に仕えている女性の中には、貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思われないものもありました。

貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われて居たこともありました。それも貴方の御意思であったことは勿論です。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものでした。こういう状況において貴方と私の間に真の愛や理解のありよう筈がありませぬ。私がこれ等の事につきしばしば洩らした不平や反抗に対して、あなたは或いは離別するとか里方に預けるとか申されました。実に冷酷な態度を執られたことをお忘れにはなりますまい。
またかなり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても、常に貴方の愛はなく、従って妻としての値を認められない私が、どんなに頼り少なく寂しい日々を送ったかは、よもや御承知なき筈はないと存じます。

私は折々我が身の不幸を儚んで(はかなんで)死を考えたこともありました。しかし私は出来る限り苦悩と憂愁を押さえて今日まで参りました。その不遇なる運命を慰むるものは、
只歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだ不遇とこの不遇から受けた痛手のために、私の生涯は所詮暗い幕のうちに終わるものだとあきらめたこともありました。

しかし幸いにして私にはひとりの愛する人が与えられ、そして私はその愛によって今復活しようとしているのであります。このままにしておいては、あなたに対して罪ならぬ罪を犯すことになることを恐れます。最早今日は私の良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時期に臨みました。即ち虚偽を去り真実に就く時が参りました。よってこの手紙により私は金力を以って女性の人格を無視する貴方に、永久の決別を告げます。私は私の個性の自由と尊重を守り且つ培う為に、貴方の許を離れます。長い間私を御養育下さった御配慮にたいしては厚く御礼を申上げます。
〈二伸〉
私の宝石類を書留郵便で返送いたします。衣類等は照山支配人へ手紙に同封しました目録通り、総てそれに分け与えてくださいまし。私の実印はお送りいたしませんが、若し私の名義となっているものがありましたら、その名義変更の為には何時でも捺印致します。
二十一日           燁子
伊藤伝右衛門様」





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Tag: 白蓮

日本の色

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秋田 刺巻湿原


日本ほど色彩の豊かな国はありません。
せんだって、オバマ大統領が韓国を訪問した時の民族衣装での歓迎式典を見ながら、あらためて日本人の稀有な色彩感覚を思っていました。


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四十八茶100鼠(しじゅうはっちゃ・ひゃくねずみ)という言葉があります。
江戸時代、茶系の色だけで四十八色、鼠色だと100色もあるという意味です。実際に鼠色系は100近くあり、茶系色は四十八でなく60以上が同定できているようです。

その中には現在だと茶系やグレー系に入れない色もありますが、これだけ茶系と灰色系が増えた理由は、江戸時代後期の奢侈禁止令により、庶民が派手な色の着物を着ることを禁じられたため、地味な茶色と鼠色の中に色彩の変化を求めたためだといいます。

驚くのはその一つ一つの色に名前がついていて、しかもセンスが良いことです。
たとえば「城ヶ島の雨」の歌詞、“雨はふるふる 城ケ島の磯に 利休鼠の雨がふる”は、利休鼠色の雨が降るという意味ですが、利休鼠の名前の由来は、地味でくすんだ色が侘茶を想像させ、さらに利休を連想させたことによるものです。
たくさんの微妙な色合いを創り出し、それを再現できた技術力にも驚くほかありません。


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江戸時代の日本人の興味深いところは、浮世絵や歌舞伎や芸事を楽しむ一方で、徹底的にものを大切にしていたことです。
文春文庫のベスト・エッセイ集「片手の音」に掲載された、友禅職人の岩原俊さんの「貸しふんどしの話」は、日本人の物を大切にする心が如何に徹底していたかを示すものでした。

江戸時代、参勤交代で江戸屋敷づめになった単身赴任や独身の侍は、ふんどしの洗濯を下男にさせるわけにいかず、何日間に一度届けられる貸しふんどしを利用していたそうです。
こうしたレンタルのふんどしは、古くなってくたびれる前に業者が買い取り、小紋のデザインを藍染してから野良着に仕立てて東北地方で売っていました。

六尺ふんどし四本で野良着が一着、もんぺなら二本できたようです。こうして再生した野良着がぼろぼろになると、また集められて江戸に運ばれ、古くなった庶民の藍染の普段着などと一緒に洗濯したあと臼でつかれました。


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藍染

藍染は植物の藍に含まれるインディゴを発酵、酸化させて藍色にします。酸化した藍は元に戻らないので、臼でつくと藍の微粒子が繊維から離れ臼の底に沈殿します。そうして集められた藍の成分にニカワを混ぜて小指ほどの大きさに固めます。

それは藍棒と呼ばれ青色の染料になりました。水を入れた小鉢の中で藍棒を刷ると青色の水になり、薄めれば水色になります。
江戸時代、青色は藍棒によって得られていました。鉱物系の顔料としてはブルーの群青、グリーンの緑青がありましたが、大変高価だったため、高名な絵師の屏風絵や襖絵などにしか使えません。葛飾北斎や安藤広重の浮世絵の美しい青も、元々はふんどしを染めていた藍だったかも知れないのです。
但し、北斎の「冨嶽三十六景」など、後年にはオランダ船によって持ち込まれたベロ藍が使われています。

黄色は南方の植物、オトギリソウの樹液から作られていましたが、これを藍棒の水色と混ぜるとグリーンになります。
グリーン系の色はすべてこの組み合わせでできていました。

藍の色素を抜かれた木綿は、さらに臼で叩かれてこまかい繊維にされ、高級な紙の原料として使われていました。
現在でも木綿を叩解したパルプからボンド紙という高級印刷用紙が作られていますが、江戸時代の日本人の、物の命を使い尽くすもったいない精神と知恵には驚くほかありません。エセ環境意識を振りかざす現在とは比較を絶しています。

四十八茶100鼠に見られる同系色の多様さには、日本人の色彩に対する繊細な感覚に加え、やさしさ、おだやかさ、慎み深さという日本人の繊細な心が現れているように思います。
こんな国民は他にいません。失われつつある日本のすべてが、かけがいのない文化遺産です。


日本の伝統色

藍について




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