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日本の原風景

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先だって百年前の日本の写真が公開されていました。
これを見て思い出されたのが文部省唱歌の「海」です。

 松原遠く消ゆるところ
 白帆の影は浮かぶ
 干網浜に高くして
 かもめは低く波に飛ぶ
 見よ、昼の海
 見よ、昼の海

 島山闇に著(しる)きあたり、
 漁火、光淡し
 寄る波岸に緩くして
 浦風輕く沙(いさご)吹く
 見よ、夜の海
 見よ、夜の海


この曲が発表されたのが100年前の1913年(大正2年)ですから、この歌に歌われた「白帆の影は浮かぶ」とは、このような風景だったことがわかります。
作詞作曲は新潟県上越市出身の小山作之助で、地元の景色を歌ったものです。従って、この写真の海とは多少雰囲気が違っているでしょうが、それでも当時の日本の美しさがわかります。(「夏は来ぬ」も小山作之助の作です。)

先年、奈良を見下ろす山あいの自動車道を走っていた時、もしこの光景から人工的なものを排除したら、どれだけ美しいだろうかと考えたことがあります。
無論、昔の風景を想像することは不可能ですが、それでも「やまとは 国のまほろば」と称賛された美しい景色を垣間見る思いでした。

「やまとは 国のまほろば(うつくしい場所) たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる やまとしうるはし」


奈良の美しい景色は広葉樹で彩られています。日本の原風景は広葉樹林にあります。
戦後、住宅建築のために日本全国におびただしい針葉樹が植えられました。そのために日本の山は豊かさを失い、山の動物たちはエサを求めて山里に降りて来るようになりました。

横浜国立大学の宮脇昭教授が岡山、広島など中国地方の山々を調べたところ、松が自然状態の250倍も密集して植えられていたということです。
松枯は、松くい虫(マツノマダラカミキリ)によって媒介されるマツノザイセンチュウが原因ですが、松が密集して植えられていることも要因です。


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近年、豪雨により山崩れが起きるのはいつも針葉樹です。
枝の広がりは根の広がりに比例しており、広葉樹が針葉樹よりも枝を広げているのは、根が針葉樹より広く張っていることを表しています。
広葉樹の落ち葉は腐葉土となって栄養をもたらし、また多くの水を蓄えます。

現在、国土強靭化計画に多額の予算を計画していますが、この予算の一部で、針葉樹をナラ、ブナ、クヌギなどのドングリの木に植え替えれば、豊かで美しい日本の自然を復活させることができます。

安倍首相が「日本を取り戻す」と提唱されていますが、山の荒廃は戦後の日本の荒廃の象徴です。
四季折々に美しく変化する広葉樹林を取り戻すことが、日本人の心と文化を取り戻すことになるのではないかと思います。


100年前の日本の写真

よみがえる光景



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もののあはれと秋

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子供の頃、一年で一番さびしかったのが夏の終わりでした。
いつも夏休みの宿題が残っていて、登校日の朝までやっていましたが、何年生の時だったか、さすがに反省して夏休みが始まるとすぐに宿題に取り掛かりました。しかし、この反省が続いたのはせいぜい1週間で、結局登校日の朝までやっていました。
勉強だけやっていれば良かった時代にもう一度戻りたいものですが、こういうことに気づくのは、いつも手遅れになってからです。

「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」 

夏の終わりには、いつもこの歌を想い出して、子供心にも秋のさびしさを思っていました。
藤原敏行によって、立秋の日に詠まれた有名な歌ですが、この歌の背景には、立秋の日から風が変わるという詩作上の前提があったようです。

昔の日本人は、朝晩の涼しさや虫の声、木々の葉や雲の形など、わかりやすい変化によってではなく、顔をかすめる風の変化に秋が来たことを感じることができたのでしょう。
虫の声を右脳で聞く唯一の民族である日本人は、もののあはれを理解できる唯一の民族ではないかと思います。

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移ろいゆくものに、もののあはれを感じる日本人の心は、繊細な四季の変化に感応してはぐくまれたものでしょうが、その美的感覚が物質文明に浸食された現在の日本人の心にも残っているのは、いまだ残る四季の美しさとともに、もののあわれの根底にある優しさが、心の重要な位置を占めているからだと思います。

もののあはれを英語で表現すると、「complexd feelings of elegant beauty, delicacy and grief to nature and life.」となるようです。しかしこれだけ説明を重ねても、もののあはれの本質を知ることはできません。

以前、NHKBSで、「漂泊のピアニスト アファナシエフ もののあはれを弾く」が放映されていました。ソ連から亡命して、今パリに住むピアニストのワレリー・アファナシエフは、徒然草や源氏物語に感じるものあはれを心の拠り所に演奏するピアニストです。

彼は「もののあはれ」を感じる日本ほど、細やかな美的感覚をもった国はなく、その感性は世界でも類を見ないほど研ぎ澄まされていると言っています。

無題

今年の6月に、豊田市コンサートホールでアファナシエフの演奏会がありましたが、豊田市コンサートホールには能舞台があり、演奏会の後、「漂泊のピアニスト アファナシエフ もののあはれを弾く」で能の「夕顔」を舞っていた、金剛流家元の金剛永謹さんとの対談がありました。

能舞台の上手から、金剛永謹さんに続いて、右手と右足、左手と左足を同時に出す能の摺り足で入ってきたアファナシエフの姿を見て、この人はやはり過去世で日本人だったのだろうと感じました。
ドナルド・キーンさんやアファナシエフのような、もののあはれを理解し愛する人間は、きっと日本人の過去世を持っているのでしょう。






アファナシエフは「もののあはれを弾く」で、シューベルトのピアノソナタ21番を弾いていました。
西洋音楽でもののあはれが表現できるかどうかわかりませんが、モーツアルトではなく、「悲しくない音楽なんて知らない」と言ったシューベルトである点には共感します。
個人的には美しくて、優しくて、はかなくて、哀しい4つの即興曲の方に、よりもののあはれを感じます。



シューベルト 4つの即興曲第3番 ラドゥ・ルプー(ピアノ)


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