誕生日は母への感謝の日

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永六輔さんは、映画評論家の淀川長治さんと誕生日が同じだったそうです。
ある年の誕生日に、友人知人を招いてパーティーをすることになり、淀川さんを招待しましたが、淀川さんは、「誕生日は、母が陣痛の痛みに耐えて私を産んでくれた日です。私を産んでくれた母に感謝する日なので、母といっしょに過ごしたい。」と答えたそうです。

子供の誕生日は、母親が祝ってくれるものと考えますが、十月十日母親が胎内で育み、陣痛の苦しみに耐えてこの世に送り出してくれたことを考えれば、誕生日とは子供が母親に感謝すべき日でした。これほど単純なことを、淀川長治さんに言われるまで気付きませんでした。

淀川長治さんは、街中で年老いたお母さんを背負って歩いていたと言います。
石川啄木の、 「たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」という歌もあり、昔は母親を背負って歩くことは、親孝行の自然な現れでした。

但しこの歌については、いくら母の軽さに泣いても、三歩も歩けないというのは不自然だなと思っていましたが、啄木の妹さんによれば、啄木は戯れにも母を背負うような人ではなかったとのことで、想像で詠んだ歌のようです。

かつての日本において、親孝行は人としてなすべき第一の徳でした。中江藤樹は、近江にいる母に孝養を尽くすため、四国の伊予大洲藩を脱藩し帰郷しましたが、もし親孝行より大洲藩での職を大事にしていたら、近江聖人と呼ばれることもなく、歴史に名前を残すこともなかったはずです。

転勤で田舎に親を残して心配している人も多いでしょうが、人生の岐路で、選択の基準を親孝行に置いて後悔した人を見たことがありません。親を犠牲にして多少出世しても、そんなものは何の値打ちも無いことです。
今にして、そのことを痛感します。

母は病院に健康診断に行ったその晩に、病院で急死しました。
医療ミスだと考えるしかありませんでしたが、それも運命だと考え病院を追求することはしませんでした。
多くのものを与えられ、返せたのはほんの僅かでした。

花々を 世話する母と庭にいて 
      憂いを知らぬ遠き日のわれ

亡くなった母に感謝の言葉を伝えることはできないけれど、それでも次の誕生日には、育ててくれてありがとうと言ってみよう。


参考:聖人といわれた人物ー中江藤樹




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