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心の贈り物

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Photograph 国立情報学研究所 


読売新聞の特別編集委員である橋本五郎さんが、読売新聞の「五郎ワールド」で、哲学者の今道友信先生の著書を紹介していました。

『大学院の頃、ライバルでもあった友人が肺結核で入院しました。彼は大学の売店でアルバイトをしている娘さんに恋をしていました。しかし、貧しい家の彼女との結婚は両親が許さないことも知っていました。

そんな彼をギリシャ哲学の泰斗、斎藤忍随先生と一緒に病院に見舞いました。有名ブランド「モーツアルト」のチョコレートを一箱持参しました。

病室で彼は言いました。「嬉しいことがあったんだ。サエ子さん(恋人)がチョコをくれたんだ」。それはたった一枚の板チョコでした。貧しいゆえに一枚しか変えなかったのでしょうが、彼には何よりもうれしく、見せびらかすのでした。

その時、僕は無思慮にも「実は僕たちもね・・・」と、鞄からチョコの箱を取りだそうとしました。斎藤先生はすかさず「僕達も何か持ってくるべきだったなあ」と言って、僕を売店に連れていきました。そして板チョコよりも安いキャラメルを一箱買い病室に戻りました。

先生は「僕達は忙しくて何もお土産を持ってこられなかったんだよ。これで勘弁してくれ。喉にはいいよ」と渡しました。
・・・・
美しい心、美しい行為です。今でも斎藤先生の温かい心づかいに涙ぐみます。』(今道友信東大名誉教授「今道友信 わが哲学を語る」かまくら春秋社)

今道友信わが哲学を語る―今、私達は何をなすべきか今道友信わが哲学を語る―今、私達は何をなすべきか
(2010/07)
今道 友信

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今道先生のお年から考えると、このエピソードは昭和20年代の出来事でしょう。その時代にモーツアルトチョコレートがあったことに驚きますが、入院していた友人はきっとモーツアルトファンで、彼を喜ばそうとして当時貴重なモーツアルトチョコレートを持って行ったのでしょう。

この記事を読みながら、自分も多分持ってきたチョコレートを渡さずに帰っただろうと思いましたが、キャラメルを買いに行くことはしなかったはずです。
彼女の板チョコより安い一箱のキャラメルを渡す行為には、やさしい思いやりが溢れています。
キャラメルを受け取った友人にも、その思いやりは届いたはずです。

貧しさや身分の差を越えた恋愛が、かっては文学の大きなテーマでした。貧しさが恋愛を際だたせるのは、金や物を離れて、愛のみが二人を結びつけているからでしょう。高価なプレゼントではなく、一枚の板チョコであるが故に、愛の純粋さが伝わってきます。
もし一枚の板チョコさえ買えず、道端に咲いている小さな花を手折って渡したとしても、大きなバラの花束以上にうれしかったはずです。

心で見るもの」に書きましたように、すべての価値は心から生まれます。家族や友人や恋人の大切な思い出、あるいは感動の体験も、心から生まれ、心の中だけに存在します。
お金や物は生きていく上で大切なものですが、この世限りのものであって、いくら大金を稼ごうとも、1円たりとあの世に持って帰ることはできません。
しかし、魂に刻んだ経験や学びは輪廻転生を繰り返しながら、永遠に心の中に存在します。

人生の価値とは、そのようなかけがいのない思い出や感動や気づきを積み重ねることであり、同時に不幸や挫折や辛い体験であっても、魂の学びにとって一つ一つがかけがいのないものであるはずです。

橋本五郎さんは、読売新聞の書評欄で「今道友信 わが哲学を語る」をこう評しています。
「碩学がたどり着いた終着駅にあるのは平凡すぎるほど美しいヒューマニズムである。哲学は決して遠くかなたにあるものではない。そう語ろうとしたことが実に感動的なのである。」

真理は遠くにあるものでも、難解なものでもないはずです。
喜び、悲しみ、苦しむ、その一つ一つの体験を通して、すべての生の営みが神と言う愛の御手の中にあることに気づくために、我々は生かされているのだと思います。




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人の好き嫌いについて

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趣味や価値観が違っても合う人がいるのに、同じような方向を目指していて居心地の悪い人もいます。
人の好き嫌いや気が合う合わないは、何に起因しているのでしょうか。

音叉が共鳴するように、同じ振動数(波動)を持ったものは共鳴します。人間の心にも振動数があり、気が合う合わないは振動数の違いによるものです。
繊細な心の振動数を持った人が、粗い振動数の人と合わないのは物理的にやむを得ないことです。

しかし誰とでも合わせられる人がいる一方、好き嫌いが激しい性格があるのはなぜでしょうか。
その理由を考えることは難しくありません。なぜなら自分自身が人一倍好き嫌いの激しい性格であったからです。
職場で上司と合わず苦労している方が多いと思いますが、以下に挫折の体験を述べます。失敗を参考にしていただければ幸いです。

若い頃は人一倍程激しい性格でした。それが露見したのは社会人になってからです。
傲慢で思いやりのない人間は上司であろうと許せず、反発を繰り返していました。
まだ新入社員の頃、ある役員から「君のようなふてぶてしい人間を初めて見た」と言われましたが、反骨精神こそ自分の信条であると思っていた人間にとって、その言葉は肯定的にしか響きませんでした。

どんな立場の人間であろうと許せないことには徹底的に反発しましたが、自分は正義感の強い人間であり、正義感に基づく反発である以上、悪いのは上司でした。

幸いに仕事の実績を挙げ、同期より早く昇進して得意の内にあった翌年、担当役員と衝突し課長を降格され左遷されました。得意からの挫折はより屈辱的であり、打ちのめされる思いの毎日でした。
しかし悪いのは上司であり、自分が間違っているとは思いませんでした。

左遷先での屈辱の日々の中、ある本に「組織の長の命令は絶対である」と書かれていました。
組織にとって必要なのは調和であり、調和を乱すことは、仕事が出来る出来ないに拘わらず悪であったのです。
それが組織の原則であり、嫌なら辞めるしかないことが、目からうろこのように納得できました。

悪口を言うのを止めようと考え、実行してみました。1週間経ち2週間経つうちに、悪口を言おうとすると心にブレーキが掛かり、悪口が言えなくなってきました。
1ケ月経った頃には、社内に嫌な人間がいなくなっていたことに気づきました。
すべては自分自身が作り上げていたことでした。

合う合わないは波動共鳴の法則に基づくものですが、好き嫌いを増幅するのが悪口です。
人を判断する基準は自分の価値観に基づくものであり、その勝手な基準で人を裁いていたのです。

人を裁いてはいけなかった。もし人が間違った行いをすれば、その結果は100%自分に返るのが宇宙の法則であり、他人が裁く必要はなかったのです。

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新約聖書の「主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん」の「我」とは、神という法則であり、自分自身のことでした。
「人を裁くな、みずからが裁かれないためである」 このマタイの言葉も同じことです。人の顔の汚れを指摘する前に、自分の顔の汚れを取り去らなければならなかったのです。

正義感が強い人間ほど、人を許せない傾向にありますが、正義の主張が度を越えて調和を乱した時、それは不正義となります。正義感の落とし穴です。

このように書くと、まるで自分がそれらを克服したかのように取られますので、あわてて書き加えますが、心は部屋の汚れと同じで、油断しているとすぐにホコリが溜まってきます。今はまた、人の悪口に相槌を打つようになってしまい、悪口を言うこともあります。
残念ながら、相槌を打たず、静かに微笑む心を忘れてしまっているのが現状です。

人生はひと山越えれば更に高い山がそびえる終わりの無い旅であり、常に新しい宿題が用意されています。
おそらく死ぬまで悪戦苦闘を続けるはずです。求めれば苦しむのが人生だと覚悟を決めるしかないでしょう。






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