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トイレ掃除に参加してみた

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あの世に帰った時に聞かれることは、この世で人のために何をしたかだそうですが、この問いに答えることができない人間として何かしたいと思っていた時、公衆トイレの掃除に誘われました。

朝6時15分に現地集合なので5時過ぎに起床、家内の「うちのトイレ掃除もお願い」という言葉を背中に、あいにくの小雨の中を足取りも重く出発しました。
集合場所は大きな公園のトイレ。
集まったのは11名で、初めての参加は私一人でした。皆さん明るくてすぐに打ち解けます。
若い男女二人は、ある会社の研修で参加していました。

最後に来られた30代の男性は、何と埼玉から名古屋まで高速で6時間も掛けて来たとのことです。5時過ぎに起き、小雨で足取りが重いなどと思ったことを少し反省しました。
この方はみなさんと顔なじみだったので、何回も参加されていたのでしょう。どんな経緯か知りませんが、余程の意志と意識がなければ出来ないことです。

担当したのは男性用便所で、チームを組んだ相方は、会社の研修で参加した現代風の若者です。彼は何度も経験しているらしく、手慣れた作業振りでした。

この会の掃除は徹底しています。
小便器の折り返しの見えない汚れを落とし、便器を固定している足元のボルトカバーまで外して尿石を取ります。
洋式の大便器は蓋のボルトを外し、隠れた汚れを探し出してきれいにします。

力を入れて磨くために、片手でしっかり便器を押え、床を洗う時も片手をしっかり床に手をつき、力を込めてタワシでこすり上げます。
掃除に集中して来ると、顔を便器に近付けて細部の汚れを探しても、汚いという思いはありません。

掃除は原則として素手、裸足(あるいは長靴)で行い、便器の水だまりにも素手を突っ込んで磨きます。
「掃除に学ぶ会」に対して、素手では不衛生で感染の恐れがあるとの批判があり、こうした批判から、手に傷がある人や素手に抵抗がある人は、ゴム手袋をしてくださいと言っていますが、みんなが素手で掃除をしている中で、一人だけゴム手袋をするわけにはいきません。

トイレ掃除の模様は、「日本を美しくする会 掃除に学ぶ会 」の、高浜南中学ミニ勉強会ムービーをご覧下さい。

素手で掃除をする理由については、素手で触る方が汚れが確認できるからと言いますが、目視できない汚れを素手で確認して落とすことが、合理的な理由だとは思えません。
むしろ、素手で掃除を行ってきた人だけが分かる、何かの気づきによるものと思います。

掃除は2時間かけて終了し、手を消毒。みんなで感想を述べ参加費を払い解散しました。
ある方が、「今日は汚れが少なかったので達成感が無かった」と感想を述べていましたが、初心者には言えない言葉です。
参加費は掃除用具や洗剤などの消耗品の補充にあてるようですが、むしろ掃除をさせて頂いたことへの感謝と考えました。
掃除用具の並べ方、汚れに応じた用具の使い方、使った用具の洗い方、仕舞い方など、手順は合理的にシステム化されています。

以前からトイレ掃除で感じていたことは、便器に向かって、いつも汚い思いをさせてごめんなさい、使わせてもらって有難うと思いながら掃除をすると、汚いという感じがしないことです。
いたわりや感謝の気持ちの前では、ネガティブな感情は光の前の闇のように消え去るのでしょう。

トイレ掃除に参加して気づいたことは、「姿勢」です。
中腰の姿勢は不自然で疲れるため、早く終わらせたいと思うのが人間の心理ですが、腰を落とすことによって合理的な力の使い方ができ、おざなりで済まそうとする気持ちが無くなります。
それぞれの作業には、それにふさわしい姿勢がありました。
掃除の専門家である主婦の方から見れば、なんだ、そんな事かと思われるでしょうが、そんなことです。
普段何も考えず、習慣や惰性でやっていると気づかなかったことが、徹底的にやることによって見えてきます。
何に対しても取り組む「姿勢」が大事ですね。意識とは姿勢であることを再認識しました。

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曹洞宗の開祖道元は、行住坐臥(ぎょうじゅうざがー生活のすべて)が修行であると説いており、『典座教訓』(てんぞ教訓)の中では、米や野菜の扱い方、調理の仕方などの心構えを述べています。

道元が食事も大事な修行であることを学んだのは中国でした。
彼が中国で修行をしていた時、椎茸を買いに来ていた寺の食事係(典座)の老僧と港で会います。道元はその老僧に、「食事の用意などは若い僧にさせ、あなたのような立派な方は、坐禅や仏道に専念すれば良いのではないですか」とたずねます。すると老僧は大笑いし、「若い方よ、あなたは修行とは何であるかが分かっていない」と言って去りました。

道元は、修行が朝起きてから寝るまでの、すべての生活の中にあることを悟ります。
学びとは、生活の中の「今、ここ」にあるのでしょう。

これから寒い冬を迎え、真っ暗な中をトイレ掃除に行けるか自信がありません。
その時は家内の言葉に従い、家のトイレ掃除をすることにします。

参考:「トイレにも心がある




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心を震わす音、 シューマンのヴァイオリン・ソナタ

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  ロベルト・シューマン

「人間の心の深奥へ光を送ること、これが芸術家の使命である。」
                          ロベルト・シューマン


このところ、シューマンのヴァイオリン・ソナタのCDを毎日聴いている。
会社の行き帰りの車の中で聴き、家に帰ってからも聴いている。これほど繰り返し聴いた演奏はない。

ヴァイオリンはクリスチャン・フェラス、この美しい音を何と表現したら良いのだろうか。
心を震わす音、というしか思い浮かばない。
フェラスのビブラートの美しさとグリッサンドによる音の揺れが、シューマンのヴァイオリンソナタの魅力を際だたせる。
1960年代半ばの録音だが、フェラスのヴァイオリンの美しさを十分に伝えて何の不足もない。

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http://www.hmv.co.jp/product/detail/3541482

1番のソナタの最初の1音が鳴り始めた時に、心は共鳴を始める。もう演奏から離れることができない。
シューマンは1番の出来に満足できず、40日後に2番の作曲に取り掛かり、僅か1週間で完成させた。
情熱的で激しい2番の方が評価は高い。だが、むせび泣くように弾き始めるフェラスの1番を聴けば、どちらが傑作かなどとは考えない。どちらも心に響く。

現在のヴァイオリニストは2番を激しく弾く。それも感動的だ。しかし過剰な情熱は、繰り返し聴くことを拒否する。
フェラスの弾く2番には抑制した情熱と静かな祈りがある。
2番の第3楽章の初めに、バッハのコラール「主よ、深き淵よりわれ汝を呼ぶ」のテーマがピチカートで演奏され、ヴァイオリンで繰り返される。フェラスの演奏は、優しく静かで祈りに満ちている。

シューマンはこの頃失意の中にあって、主の救いを求めていた。しかし芸術家にとって、失意は創作意欲を失わせるものではない。シューマンの失意は内なる情熱を駆り立て、満たされない現実はヴァイオリン・ソナタの傑作を産んだ。

演奏にもの足りないものは何もない。しかし満されていてさらに愛を求める恋人たちのように、聴き終わってすぐにまた聴きたくなる。それを100回以上繰り返した。

深き淵より
ルオー「深き淵より」

シューマンはライン川に身を投じ、助けられた後サナトリウムに収容され、46歳で狂人のレッテルを貼られて死ぬ。
投身の理由は分からない。愛する妻クララとブラームスの不倫が原因ではないかと言われているが、はっきりしているのはシューマンと言う才能が2度と帰らなかったことだ。

1982年、クリスチャン・フェラスも49歳で自らの命を絶った。
美を求め、美に殉じたシューマンとクリスチャン・フェラスの魂の深奥に、神の光が届くことを祈らずにはいられない。

フェラスの演奏を感傷的に語り過ぎたかも知れない。しかし心を奪われることはなんと甘美なことだろう。
シューマンとショパンの生誕200年の年がもうすぐ終わる。


個人的な思いです。コメント欄を閉じています。

<追記 ショパン・ノクターン>

ショパンのノクターンについて触れておきたいと思います。
おびただし数の録音があり、それぞれの良さがありますが、一番気に入っているのはクラウディオ・アラウの演奏です。
初めて聴いた時、あまりに感銘を受けたので、ワルツ、マズルカ、エチュード、ポロネーズ他、アラウの演奏するすべてのショパンのCDを買ってきましたが、結局、一番良かったのはノクターンでした。
ショパンの甘美さ、憂い、哀しさをしっとりとしたテンポで弾きながら、しかしそれに耽溺しない知的な眼差しを感じます。
あるピアニストにこのCDを紹介した時、「何で知らなかったのだろう」と言っていました。

今年のラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日と題する音楽イベント)はショパン特集でしたが、どの会場も満員でした。
ショパンは社交界の寵児となり経済的にも恵まれた人生でしたが、生誕200年の年に於いてもやはり幸せな音楽家でした。

ショパン:ノクターン集ショパン:ノクターン集
(1996/06/05)
アラウ(クラウディオ)

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