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恥の文化の終焉

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National Geographic

電車の中で化粧をする女性や、物を食べる若者の姿には、残念ながらもう驚きません。
しかし、スーツ姿で電車のホームに座り込む若者の姿を見た時には驚きました。
おそらく新入社員で、就職する前の癖が出たのでしょうが、土足で家に上がり込むような違和感を覚えました。
(今の日本で、こんなことに驚いてはいけないのかも知れません)

躾ができない親が増え、道徳教育が失われた結果、恥やルールを知らずに育った子供が増えてきましたが、彼らに社会のルールやしきたりを教える、最後の砦が会社でした。

会社は甘えの許されない世界で、ルールを守れない人間、だらしがない人間、上司の命令に従わない人間を許しません。
甘やかされて育った人間に厳しさを教え、社会のしきたりを教える最後の教育機関が会社であり、日本の社会を規律正しく、健全に保つための安全弁でした。

ところがバブル崩壊後、終身雇用制度が揺らぎ、会社は派遣社員やアルバイトを増やすことで経費を削減するようになりました。
フリーターと言う名前が生まれ、ルールに縛られない生き方を選択する若者が大量に生まれました。
その結果、最後の教育機関が揺らいできたのです。

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ルース・ベネディクト

日本の文化は美意識の文化です。恥をさらすことが何より辛いのは、それが美意識に反するからでしょう。

切腹は単に死を以って責任を取ることではなく、美しく散るための儀式であり、儀式であるためには、茶の湯や生け花のような美しい所作、手順が必要でした。
茶道、華道、剣道、合気道他、日本の文化が道となるのは、様式美と精神性が一致した結果です。

社会学者のルース・ベネディクトは、「菊と刀」で、キリスト教の罪の意識の代わりとなるものが、日本人の恥であると分析しましたが、恥には善悪と美意識が含まれており、罪の意識よりも、さらに美的な心の働きと言えます。

しかし、恥が日本人の行動規範であると言えなくなって来ました。

一国の総理や国会議員が平気で嘘をつき、恥じることが無い現在の日本の深刻な心の崩壊を見る時、冒頭の若者を非難することは出来ないでしょう。

そして、そんな国会議員を選んだのは国民であり、つまりは我々一人一人の心の現われが、国会議員や政党に投影されていることになります。

7月の参院選挙が近づいてきましたが、今回の選挙は日本の命運を決める重要な選挙となります。
恥を知らない人間が国の未来に関わらないよう、国民の正しい選択を祈るばかりです。





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和をもって貴しと為す

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人は育った環境や教育で、異なった価値観やものの見方ができあがります。
身体の特性も考え方に影響し、人にはそれぞれの考え方があって、何が正しいかを一概に決めることはできません。
自分の意見が絶対だと言い張ることは、その意見が正しいかどうかに関わらず、他の考えを認めず、和を乱すことにおいて間違っています。

ものの見方や感じ方は相対的で、大切なことは調和であると説かれたのが、聖徳太子でした。

平城遷都から今年で1300年、その更に100年前の聖徳太子の教えは、近年まで日本人の心性に素直に響きました。
聖徳太子は仏教を篤く信仰しましたが、太子はもともと和が第一だと考えており、仏教の調和に自らの信念との一致を見たのではないでしょうか。

「和をもって貴しと為す」、この言葉は日本人なら誰でも知っているはずです。(もしかしたら、最近の小学校では教えていないかも知れませんが)
17条憲法は、心の法則を基に官吏の心得を述べています。
全部をご紹介出来ませんので、「十七条憲法」をご覧ください。下記現代語訳は、このサイトを参考にしています。


(第一条)
「和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。
ここをもって、あるいは君父に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。
しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」


(意味)
和を何よりも大事にして、争いを起こさないことを根本としなければならない。人は徒党を組みたがり、本当に道理が分かった人は少ない。君主や親のいうことに従わなかったり、近隣の人たちとうまくいかないのはこのためだ。
上の者も下の者も協調して議論をするなら、自然と道理にかない、すべて成就して行くものだ。

*人の世で、まず第一に大切な事は和であり、和がなければどんな仕事も為すことはできません。例え正義によるものであっても、組織の調和を乱せば、仕事を達成することが困難です。


(第七条)
「~ 事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。
これに因って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危うきことなし。故に古の聖王は、官のために人を求め、人のために官を求めず。」


(意味)
事柄の大小にかかわらず、任に適した人を得られれば必ずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、危うくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

*今の日本の混乱は、国を治める総理大臣以下の職責が、それに適した人ではなく、欲得や党の利害によって決められることにあるでしょう。

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 夢殿

(第十条)
「忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違(たが)うを怒らざれ。
人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。
われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。

相共に賢愚なること鐶(みみがね=耳環)の端なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。


(意味)
心の中の憤りをなくし、それを表情に出さぬようにし、他の人が自分と異なったことをしても怒ってはならない。
人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分は良くないと思うし、自分がこれこそと思っても相手は良くないとする。

自分は聖人で、相手が必ず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。
そもそもこれが良いとか良くないとか、だれが定めうるのだろう。お互いだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

*解説の必要はありません。考えや価値観は相対的であり、独善にならず、人が怒る時は自分に否が無いか振り返って反省しなければならない。その通りです。


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(第十四条)
「群臣百寮(官吏)、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智おのれに勝るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。


(意味)
官吏は嫉妬の気持ちを持ってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬は果てしない。自分より英知が優れている人がいると喜ばず、才能が勝っていると思えば嫉妬する。
それでは500年たっても賢者に会うことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することも困難である。
聖人・賢者といわれる優れた人材がなくては国を治めることはできない。

*こちらが好意を持てば相手も好意を持ち、嫌だと思えば相手もそう思う。嫉妬も怒りも恨みも妬みも、ネガティヴな感情は意識すればするほど増幅し、自らを苦しめると共に、その相手となる人間から応分の感情が帰ってきます。
最近の精神世界で語られる鏡の法則を、太子は1400年前に書いています。

日本の歴史において、重要な節目節目で人物が現れ、国を救い、立て直してきました。今、日本建国以来の国難の時に、そのような人物が見当たらないのは、やはり今の日本人が、それにふさわしい徳を失ってしまった結果ではないでしょうか。


(第十五条)
「私(私心)に背きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。


(意味)
私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、必ず不和が生じる。不和になれば私心で公務を執ることとなり、結果として公務を妨げる。恨みの心がおこってくれば、制度や法律を破る人も出てくる。上の者も下の者も協調の気持ちをもって論議しなさい。

*私心を去ることは、人の上に立つ者、公に奉仕する者が、まず第一に心掛けなくてはならないことであり、それはその立場に立つ日本人が、当然の義務として心得ていたことでした。
現在の政治家、天下り役人の姿を見ると、太子のこの言葉が空しく響きます。


(第十七条)
「それ事は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。


(意味)
ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

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五箇条の御誓文

*明治天皇の「五箇条の御誓文」にある「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」の一文は、十七条憲法の、この一条の心を述べたものでしょう。

良くご紹介する雑誌「致知」4月号で、拓殖大学日本文化研究所客員教授 山内健生先生が聖徳太子「十七条憲法」に学ぶと題して寄稿されていて、その中で興味深い意見を述べられています。

「昭和59年、聖徳太子がお札から消えました。そして、ちょうどその頃から日本はおかしな方向に進み始めました。
私はこれも単なる偶然ではないような気がします。

自分たちが日本という国の過去と未来を繋ぐ一点に今いること。そして、この国の精神的支柱に「十七条憲法」があることを、私は最後に改めて強調しておきたいと思います。」

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*お金はエネルギーであり、善でも悪でもありません。しかし、欲望の対象となるため、悪いエネルギーが付きやすく、お札に聖徳太子を印刷することは、無意識の中に聖徳太子の聖徳を刻印していたのかも知れません。

大和の国は、まさに大いなる和の国でした。その和の礎を築いたのが聖徳太子でした。
聖徳太子が亡くなって100年後に編纂された「日本書紀」に、太子が亡くなった時、世の中は光を失い、人々は泣き続けたとの記述があります。

聖徳太子の徳の高さを物語り、同時に、当時の日本人の徳への尊敬の強さを物語るものです。
聖徳太子を生んだ国、その教えを大切にした民族、何と素晴らしい国、素晴らしい民族であったかと、今更のように思います。





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アセンションー次元上昇の意味

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 フォトン・ベルト


2012年のフォトンベルトによって、地球は5次元に次元上昇(アセンション)すると言われています。

フォトンベルトによって、本当に次元上昇が起きるのかどうかわかりません。又、次元上昇が起きたとしても、どのような世界になるのかもわかりません。
しかし、なぜ4次元ではなく5次元なのか、その理由について考えてみます。

フォトンベルトに興味のない方には、荒唐無稽な記事になるでしょうし、事実、証明できる根拠もありません。
極めて宗教的な内容であり、異論、誤解を承知して書くことにします。


音の世界からあの世を考える」で書きましたように、宇宙はすべてエネルギーで出来ており、エネルギーの究極は光です。
物質とは光が最も振動数を落とした状態で、言わば凍結した光です。

次元とは何かと言えば、エネルギーの振動数の諸相です。
水の相で例えれば、氷は3次元、水は4次元、さらに振動数を高めた水蒸気は5次元と言えます。

4次元、5次元、6次元・・・がどこに存在するかと言えば、当然ながら3次元の物質の世界には存在しません。
高次元が存在するのは人間の意識の中です。

魂とは何か」で書きましたように、意識は4次元、5次元、6次元・・・と多層構造になっており、中心には自分に嘘のつけない神の心が存在します。

さて、フォトンベルトによる次元上昇がなぜ5次元なのか、そのことを考えたいと思います。

魂はエネルギーとして不滅です。肉体が死を迎えたとき、魂は肉体を離れ、元の光の世界に帰ります。
しかし、生前に人を犠牲にして、自己中心的な人生を送った魂は、振動数(波動)が低いため光の世界に戻れず、暗い世界に留まることになります。
光を失ったこの暗い世界が4次元で、幽界とも言われます。

物質は光が凍結した状態と言われるように、極めて振動数が低く、4次元(あの世の一番低い世界)と言えども、物質より遥かに高い振動数の世界です。
4次元以上の世界は、少なくとも現在の素粒子実験で観測可能な、10-18m以下の世界と考えられます。

ところで、5次元、6次元・・の光の意識体は、人間の自力修行のために、基本的には見守ることしかできません。
しかし、4次元の意識体は、未成仏霊、地獄霊、キリスト教では悪霊、サタンと呼ばれ、人類の長い歴史の中で、人間を苦しめてきました。

フォトンベルトによって、5次元に次元上昇する意味はここにあります。
5次元に移行すれば、4次元の意識体、自己中心の魂は、次元上昇によって消滅するか、少なくともその影響は無くなります。。

黙示録の予言とフォトンベルト
新約聖書の最後に、ヨハネの黙示録がありますが、これまで何を意味するのか良く理解できませんでした。
しかし、フォトンベルトと併せて考えると、不明であったその意味が理解できます。

最後の審判とは、フォトンベルトの次元上昇のことで、「死者を墓場から引きずりだして裁く」とは、4次元(幽界・地獄界)が抹消されることだと理解できます。

ヨハネの黙示録に次のような文章があります。

「もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。
死者たちはこれらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行為に応じて裁かれた。
海はその中にいた死者を外に出した。
死と陰府(よみ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」

火の池とは、フォトンベルトのことではないでしょうか。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人とともに住み、人は神の民となる。
神は自ら人とともにいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」

「すると玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、
『書き記せ、この言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。

フォトンベルトによって本当に次元上昇が起きるのか、起きたとしてどのような世界になるのか、本当のことは分かりません。

しかし、もしかしたら聖書の予言にある、至福千年と言われる人類が待ち望んだ世界の実現かも知れません。
3次元での様々な苦しみや悲しみから解放され、輪廻転生から解放され、人と人は信頼し合い、愛し合い、助け合う理想の世界が実現する、是非そうであってほしいと心から願います。

2012年まで、あと2年余、夜明け前が一番暗いと言われるように、これからのしばらくは、戦争や食糧危機、転変地異や様々な災厄が避けられない時期になるでしょうが、夜明けを信じたいと思います。


ここまで書いてきて、小惑星探査機「はやぶさ」が帰還しました。
最近に無い、感動的なニュースです。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)の技術と努力と情熱が成し遂げた、奇跡的な快挙でした。
JAXAのスタッフは、7年振りに帰還した「はやぶさ」が燃え尽きる前に、最後に地球の姿をを見せてやろうとして、2時間かけて地球の方を向かせました。
はやぶさはそれに応えるように、大気圏突入のぎりぎりの時に、1枚の地球の姿を送ってきました。
(ボイジャーが太陽系から去る時に、振り返って太陽系の写真を送ってきたエピソードを思い出します。)

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満身創痍のはやぶさ君、お帰り、最後まで良く頑張ってくれました。お疲れ様、ありがとう、!!
JAXAの皆さん、おめでとう。!! 
JAXAのF君、おめでとう!! 君から航空宇宙センターに移ろうと思うと相談された時、賛成して良かった。

民主党、こんな素晴らしい仕事を事業仕訳するな!!

すこっちさんが描いた素敵なはやぶさのマンガです。





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正義感の落とし穴

《追記》
過去の記事「神は悪を許しているか」に、今回の記事に関連する内容を書いています。ご覧いただければ幸いです


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正義の女神 Wikipedia


正義感の強い人ほど人を許すことができずません。
人を裁く判断基準が、自分の中の正義感ですから、身勝手な人間、傲慢な人間を許せないのは当然のことであり、それが自分の生き方だと信じています。

正義感が強い人は、会社や組織に不満を抱きやすく、身勝手な上司、傲慢な上司に強く反発し、いつでも辞めてやると口にします。しかし残念ながら「いつでも辞めてやる」と言う人間ほど辞めることはありません。こうした不満はどの組織にもあり、上司に反抗する人間を受け入れてくれる組織を探すのは困難であり、出世から取り残され、しかし辞めるに辞められず、会社生活を終えるケースが大半です。

課や部であれば、課長や部長、会社であれば社長の命令は絶対です。組織は組織の長の命令に従うことが前提で成り立っています。良い悪いではなく、それが組織の宿命です。
春に咲く花の中で、自分は秋に咲きたいと言っても通る話ではありません。その時は、秋に咲く花を探すしかないのです。

イエスは、「人を裁いてはいけない。自分が裁かれないためである」と言っています。上司の傲慢さや身勝手さを裁くその刀が、作用反作用の法則によって自分を裁きます。

昔、「復讐するは我にあり」という映画がありました。新約聖書の、「『主言い給う。復讐するは我にあり、我これを報いん」から取られています。
悪に対して悪で報いてはならない、悪を裁くのは神であると言うことですが、クリスチャンならともかく、神を信じない人間に信じろと言っても無理でしょう。第一、神が一々の悪人を裁くことをイメージできません。

この意味は、神が定めた宇宙の法則である「原因結果の法則」によって、悪をなした人間には、それに等しい結果が返ってくるということだと思います。
「原因結果の法則」によって、自らが自らを裁きます。「復讐するは我(自分)にあり」です。

この世で多くの悪を重ね、人を不幸にしながら安楽に生涯を終える人間がいます。その時、神も仏も無いのかと思われますが、もし、この世で「原因結果の法則」が現われなければ、あの世、あるいは来世で、その結果が100%自分に返って来るはずです。
「原因結果の法則」が存在するためには、命・魂はこの世限りではなく、永遠に輪廻転生を繰り返すことが前提となります。

正義感によって、人を裁くことのできる人間がいないことを表す、イエスの有名なエピソードがあります。
姦淫の罪を犯した女を取り囲んだ人たちが、ユダヤの律法により石を投げつけて殺せと口々に叫ぶ中、イエスは「汝らの中で罪なき者のみ彼女に石を投げよ」と言いました。
その言葉に一人去り二人去り、すべての人が去って行きました。

人を裁くとは、自分の顔についた汚れに気づかず、相手の顔の汚れを取れと言うことであり、正義感とは、人の顔の汚れが気になる性格だと言えます。

相手の性格が変えられないように、相手の顔の汚れを取ることはできません。
自分が裁かなくても、相手が自分自身を裁くのだと考えれば、正義感の呪縛から開放されます。

但し、社会悪については十分に真実を見る目を持ち、みんなでしっかり汚れを取り除く努力をしなければなりません。






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