「米百俵の精神」

奈良 246
  曙光


現在の日本の状況は、元寇の役、太平洋戦争と並び、第三の国難と言われています。
元寇の役や太平洋戦争の時には、日本を守るために自己犠牲の心で立ち向かった日本人がいました。しかし今、日本人は刹那的な欲望の充足に満足し、日本が国難にあることさえ気づかない状況に立ち至っています。

経済危機や様々な社会問題の根源は、日本人が心を失った結果であり、その結果をもたらした原因は、人間とは何か、人間らしさとは何かを教えてこなかった戦後教育にあります。

肉体を維持する為にはパンが必要ですが、人間の偉大性は心にあり、心を養うのは教育です。
心の偉大性は、正直、正義、思いやり、自己犠牲、勇気、向上心、克己心、美しいものへの憧れ、真理の探究などであり、それらは利益の追求とは直接結びつかないことばかりです。
日本人はさらに、清貧、清潔、謙遜、謙譲、恥じらい、人の和、国や社会への献身などを大切にしてきました。

己を慎み、自己の利益のみを追求することを恥としてきた日本人が、それらの徳性を失うことは、日本人の心の死を意味します。
今迎えている日本の衰亡の始まりが、その結果として起きてきたことに気づかなければ、この素晴らしい国、誇るべき国は、二度と甦ることはないでしょう。
日本人を甦らすためには心の教育が必要であり、教育以外に日本を救う道はありません。

教育が未来を作る」でもご紹介しています「国際派日本人養成講座」は、誇るべき日本の文化と、我々の先人の偉大性を教えてくれる必見の記事です。
「米百俵の精神」と題する、教育についての重要な提言がありますので、全文をご紹介します。
長い記事ですが、是非お読みください。



国際派日本人養成講座

人物探訪: 小林虎三郎 ~ 人作りは国作り

 賊軍として破れ、どん底に陥った長岡藩で「食えないから学校を立てる」と説いた男がいた。

■1.「米百俵の精神」

「米百俵の精神」とは、平成13(2001)年5月7日、小泉首相の所信表明演説で有名になった言葉である。
それは次のような一節だった。

明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。

その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。

小泉首相の実際の業績は別にして、この「米百俵の精神」は多くの国民の心に響いた。

 それから10年後、子ども手当などのバラマキ政策を、国家予算の半分近くを国債、すなわち子孫への借金のつけ回しで賄おうとする現在の我が国は、「痛みを明日に回して今日を良くしよう」という姿勢に陥っている。「米百俵の精神」をもう一度、思い起こすべき時ではないか。

■2.小林虎三郎

「米百俵」の事績を残したのは、明治初年、戊申(ぼしん)戦争で旧幕府側として新政府軍と戦って敗れた長岡藩(現在の新潟県長岡市一帯)で、大参事として敗戦後の再建を任された小林虎三郎である。

 長岡藩は禄高を7万4千石(実録は10万石)から2万4千石へと大幅に減らされ、士族の中には食事も粥(かゆ)ばかりで、それにも事欠く家もあった。

 明治3(1870)年春、長岡藩の支藩である三根山藩から、本藩の窮状をみかねて百俵あまりの米を送ってきた。小林虎三郎は、計画していた国漢学校の創設にこの米を充てたのだった。困窮していた藩士たちはこの米が分配されるものと期待していたはずで、それを押し切っての決断だった。

 この事績は、戦時中に山本有三が戯曲『米百俵』を発表して、世に広く知られることになった。

■3.「食えないから、学校を立てる」

 山本有三は、その時のやりとりをこう描いている。

三左衞門 聞くところによれば、このたびご分家、三根山藩のご家中から、当藩の藩一同に見まいとして送ってきた米を、おまえ様はわれわれに配分せぬ意向とあるが、それは果たして、まことのことでござるか。

専八郎  しかも、その米の売り払い代金をもって、学校を立てるご所存とうけたまわった。たしかにさような事、従五位様(藩主、牧野忠毅のこと)に申し上げるつもりか。しかとした返答をお聞きしたい。

 これに対して、虎三郎は意外な返答をする。
貴公たちは、食えないといって騒いでおるではないか。みんなが食えないというから、おれは学校を立てようと思うのだ。

「食えないから学校を立てる、とは理が通らない」と三左衞門が反論すると、虎三郎は百俵の米なぞ藩の8500人に配ってしまえば、1日か2日で食いつぶしてしまう、として、こう諭した。

 なあに、はじめからこなかったものと思えば、なんでもないではないか。----もとより、食うことは大事なことだ。食わなければ、人間、生きてはいけない。けれども、自分の食う事ばかり考えていたのでは、長岡はいつになっても立ちなおらない。貴公らが本当に食えるようにはならないのだ。

 だからおれば、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ。学校を立てて、子どもをしたてあげてゆきたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかり知れないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日暮らしでは、長岡は立ち上がれない。あたらしい日本は生まれないぞ。

■4.国漢学校の創設

 虎三郎の考え通り、明治3(1870)年6月、国漢学校が新築された。明治新政府により東京で小学校が開設されたのが、同年同月であり、虎三郎の先見の明が窺われる。学校長には虎三郎自身が就任した。

 新築された学校は、平屋建てで教室が6つ、さらに武道のための演武場も備えるという、かなりの規模であった。建設費や武具、書籍を含めて4百両かかったとされているが、米百俵の代金は250両ほどであり、不足分は藩から拠出されたものと思われる。藩の財政も破綻状態にあったはずで、それでも学校に資金を投入したのは、虎三郎の決断であろう。

 この国漢学校には、二つの特徴があった。第一は、士族ばかりでなく、町人や農民の子弟も入学が許された点である。そのため、最初からかなり多くの志願者が出たようだ。これは平民教育にも力を入れていくべきだ、という虎三郎の考え方に依っている。

 第二に従来の藩校では漢学のみを教えていたのに、ここでは国学・国史も教えられた。これが国漢学校の名前の由来である。国史と言っても、それまでは漢文による大日本史や日本外史しかなかったので、虎三郎は自ら『小学国史』全12巻を編集した。さらに世界地理や国際事情、哲学、物理学、博物学なども教育科目に取り入れた。今後の日本が必要とする教養と知識を持った国民を育てようという考えである。

■5.国家の強弱は、人民の教育・啓蒙で決まる

 虎三郎は、ドイツの学校制度を論じた『徳国学校論略』の序文で、自らの教育思想を明らかにしている。

 ここでは、まずドイツ(プロシヤ)の学制に注目した理由として、ドイツが東にオーストリア、南にフランスを破り、強国のイギリスやロシアもドイツを恐れているとし、その力の根源は、ドイツがさかんに学校をおこし、教育を重視したからだとしている。
ドイツと対照的に弱いのが、アジアの老大国たる中国で、人口では4億と世界の三分の一を占めるのに、アヘン戦争に敗れて、欧米列強に領土を侵蝕されている。

 中国も欧米も、民族こそ違え、人間としては同じである。それが、国家の強弱において天と地ほどの差ができてしまったのは人民に対する教育・啓蒙の差である、と虎三郎は説く。

虎三郎の教育とは、科学技術だけではない。学校創設の10年ほど前に著した『興学私議』(学問を興すことに関す
る私の議論)では、「学問には『道』と『芸』が必要である」と述べている。人としての生き方を考える『道』と、科学技術や実務を学ぶ『芸』とが両輪となって、国民一人ひとりが、強く正しい生を送り、そのような国民が、強く正しい国家を作るのである。

 虎三郎は若かりし頃、江戸で佐久間象山の門下に入り、吉田寅次郎(松陰)とともに「両虎」と並び称せられた。その象山が「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」と唱えた思想を、虎三郎は継承しているのである。

 このように、国を興すのは人民に対する教育であり、それには「道」と「芸」が必要だとする考えによって、虎三郎は農民や町人の子弟も入学させ、また漢学だけでなく、広く国学や洋学も取り入れたのだった。

■6.近代日本の発展に貢献した人材を輩出

 この国漢学校は、やがて官立の坂之上小学校となった。また後に併設された洋学校、医学局が、それぞれ長岡中学、長岡病院に発展した。

 この国漢学校、坂之上小学校、長岡中学から、人材が輩出していく。国漢学校創設時の生徒だった渡辺廉吉はオーストリアに渡って法律、政治学を学び、伊藤博文のもとで帝国憲法の制定に参画した。

 日本で最初の医学博士・小金井良精(よしきよ、虎三郎の甥にあたる)はドイツで解剖学と組織学を学び、帰国後は東京帝国大学医学部教授として、日本人として初めて解剖学の講義を行った。

 そのほか、改進党で活躍し、福井県知事となった波多野伝三郎、検察官として活躍し、後に法務大臣となった小原直
(なおし)、東京帝国大学総長となった小野塚喜平次、洋画家の小山正太郎、明治期の日本最大の出版社である博文館を創業した大橋佐平、連合艦隊司令長官・山本五十六など、各分野で実に多くの人物が育っている。

 明治新政府軍との戦いに敗れ、3度の粥にもことかく状態に追い込まれた長岡藩から、かくも多くの人材が育って、近代日本の発展に貢献したことは、虎三郎の「食えないから、学校を立てる」という考えが正しかったことを証明している。

■7.戦時中の「人をつくれ」

 長岡の生んだ人材の一人である山本五十六は、航空戦力の発展に中心的な役割を果たし、日米戦争を防ぐことに身を賭して奮闘したが、やむなく開戦にいたると、真珠湾攻撃で世界航空戦史に特筆される大戦果を上げた。

 山本五十六は、昭和18(1943)年4月18日、搭乗機がソロモン上空で米機に撃墜され、戦死した。その2カ月ほど後に、山本有三が『米百俵』を発表したのである。

 その「はしがき」に山本有三はこう書いている。

「米をつくれ。」「船をつくれ。」「飛行機をつくれ。」と、人々はおお声で叫んでおります。もちろん、今日の日本においては、これらのものに最も力をつくさなければならないことは、いうまでもない話しであります。しかし、それにも劣らず大事なことは「人物をつくれ。」という声ではありますまいか。長い戦いを戦い抜くためには、日本が本当に大東亜の指導者になるためには、これをゆるがせにしたら、ゆゆしき事と信じます。

 ここに山本有三が、大東亜戦争という非常時に『米百俵』を発表した動機が端的に現されている。実は、山本有三は
昭和15(1940)年7月以来、内務省の検閲干渉に抗議して、断筆中であった。実に3年近い沈黙を破って、『米百俵』を発表したわけである。山本五十六の戦死がその危機意識に火をつけたのだろう。

 言論を統制し、国民総動員で「米をつくれ」「船をつくれ」「飛行機をつくれ」と号令をかけるだけでは、長い戦いを信念と創意工夫を持って主体的に戦い抜く人物、ましてやアジアの指導者たるべき人物は作れない、と言うのである。

■8.「人を作らないから、食えなくなった」

 幕末に欧米列強が押し寄せてくる危機の中で、わが国は急速な近代化を成し遂げて独立を守ることができた。それは江戸時代に寺子屋や藩校を通じて、世界でも群を抜く教育水準を達成していたからである。

 さらに近代化政策の筆頭として明治5(1872)年8月に「学制」を公布し、施行わずか2年間で、全国津々浦々に2万4千校以上の小学校を作り上げた。虎三郎の「米百俵の精神」は、当時の日本全体が共有していたものであった。

 大東亜戦争敗戦後も、わが国は奇跡的な復興と高度成長を実現したが、これもわが国のすぐれた教育制度に原動力があったとは、つとに指摘されてきた所である。

 現在の日本は、経済の停滞、高齢化と人口減少、政治の漂流など、第3の国難とも言うべき時期にあるが、これらの危機は外から来たものではなく、政治にしろ経済にしろ、十分な人材が育っていない事からきた内発的なものである。日教組の左翼偏向教育と文科省のゆとり教育によって、学校はあれども「人づくり」はおろそかにされてきた、というのが、危機の真因であろう。

「食えないから学校をつくれ」という虎三郎の言を裏返せば、現在の日本の状況は「人を作らないから、食えなくなった」と言える。今こそ「米百俵の精神」を思い起こすべき時である。

 民主党は、公立高校無料化を推し進めようとしているが、高校進学率が96%を超える現在においては、教育拡充策にもならず、単なるバラマキ政策でしかない。肝心の「人作り」「教育再建」をどうするのか、というビジョンがない。日本の教育を破壊してきた日教組が民主党のバックについているのだから、当然の事ではあるが。

 もとより「人作り」は学校だけの課題ではない。家庭、職場、地域社会と、我々の生活のすべての局面で「米百俵の精神」を行動に移していく責任が現在の国民にはある。それが先人の恩に報い、子孫の幸福を図る道である。

(文責:伊勢雅臣)
■転送歓迎 H22.01.24_38,697 Copies_3,244,031 Views ■
無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/

■リンク■

a. JOG(475) 零戦 ~ 世界の航空常識を覆した3日間
 1941年12月8日からの3日間に、世界の航空史は新しい時代を迎えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog475.html
b. JOG(423) 失意の報国、山本五十六
 華々しい経歴の陰に、山本五十六にはじっとこらえてきた事があった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog423.html
c. JOG(030) 江戸日本はボランティア教育大国
 ボランティアのお師匠さんたちの貢献で、世界でも群を抜く教育水準を実現した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog030.html
d. Wing(1391) タイ紙が「日本の教育に学べ」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h20/wing1391.html



国際有機認証「しらい田七人参」
スポンサーサイト

TOSHIさんのこと

msc0903061629001-n1.jpg

芸能ネタを書くのは初めてですが、XJAPANのTOSHIさんの、離婚と自己破産のニュースが伝えられ驚きました。

TOSHIさんとはそんなに親しい訳ではありませんが、何回かお会いし、奥さんからはコンサートの度に、「TOSHIの家内でございます」と、古風なもの言いの電話をいただいており、献身的な良い奥さんだと感心していました。別居状態にあったことを初めて知りました。
XJAPANの全盛時代にはまったく興味がなくて、誰がメンバーなのかも知らず、初めてお会いした時、静かで謙虚な人間性に、この人がXJAPANのメンバーだったのかと驚きました。

彼のコンサートに行かれた方はご存じでしょうが、自分のつらい生い立ちやコンプレックスのことを赤裸々に告白していますが
お兄さんからずっと虐げられ、XJAPANのギャラはお兄さんに取り上げられていたこと、アゴがしゃくれていることが、ずっとコンプレックスだったことなど、スーパースターだった人間が、ここまで裸になり、自己と向き合っていることに感心していました。

この12年間の収入はすべて、夫婦で参加していた自己啓発セミナー団体「ホームオブハート」に流れていたと言われます。
XJAPANの解散後、失意の中で自己啓発セミナーのMASAYA氏と出会い、生きることの意味を教えられ、MASAYA氏の作った歌こそ、自分が歌う歌だと信じていました。MASAYA氏にマインドコントロールを受け、だまされていたと語っており、さぞかしショックを受けたことでしょう。

TOSHIさんは、恵まれない子供たちなどの施設で、これまで800回程のの無料コンサートを行ってきました。
何故、彼のような人間が、このような試練に合わなければならないのかと気の毒に思いますが、今後は音楽活動に専念すると言われており、きっと今回の試練を経て、より大きく成長することでしょう。
それを信じ、祈りたいと思います。

マインドコントロールを受けないために、正しい宗教や心の学びについて、「何を信じるべきか」に書きましたのでご覧ください。




シプリアン・カツァリスとのコラボコンサート トーク1


参考:TOSHIオフィシャルサイト


パックの死

20070101_00000020070101_58_01.jpg
  7歳の頃


過去の記事、「ウサギと猫」をご覧下さい。

今日、ウサギが死んだ。夜、仕事から帰った時、手足を投げ出してぐったりしていた。尋常でない様子に、すぐに死を覚悟した。
家族が撫でたりさすったりし続け、その後小松菜やキャベツに少し口を付けたので、持ち直すかと期待したが、夜中の2時半過ぎに、激しく痙攣して息を止めた。

いつもウサギに近づかないように言われて、遠まわしに見ていたネコが寄ってきて、ウサギの顔を何回も舐めていた。
可愛がられていたウサギの死が分かったのだろう。

9歳近い年齢だった。ウサギとしては高齢だった。名前はパック。(私のハンドルネームはこのウサギの名前だった)
日本のバイオリン界を代表する方が名前を付けてくれた。
シェイクスピアの「真夏の夜の夢」に出て来るいたずら好きの妖精の名前の通り、小さい時は柱や壁や、家中を齧り、いたずらばかりしていた。
1年半前に斜頸になってからは、そのいたずらもできなくなっていたが、その代わり撫でられることが大好きになった。
いつも撫でてくれと、手の下に頭を差し入れてきた。

ウサギの死に大袈裟だと笑われるかも知れない。しかし、9年近い年月を共にした命は、家族の一員だった。
こんなに大事にされたウサギはいなかったと、家族みんなが思っている。





故郷を思う

sakura4.jpg
 春の錦帯橋

日本の唱歌は明治時代末期から、子供たちの情操教育として作られ始めました。子供たちの心を豊かにすることに力を注いだ明治の先人の高い理想と、西洋音楽を取り入れて間もなく、詩情あふれる優れた楽曲を作り出した人たちに敬服します。

唱歌の中でも「ふるさと」は、聴くたびに感銘を受けます。郷愁というだけでなく、人生の原点を思い出させる歌です。
私の故郷は、山口県の岩国市です。錦帯橋のある城下町で自然が豊富でした。(昔の地方は、どこでも自然だけは豊富でした)
子供の頃は、トンボ取りや魚釣りの毎日で、ウサギは追いかけなかったものの、「ふるさと」に歌われている通りの生活でした。

「ふるさと」を聴いて、心に何も響かない日本人はいないでしょう。懐かしさ、切なさが胸に迫り、涙がにじむこともあります。
日本の自然が失われ、日本人の情緒や価値観が変質していく中で、いまだに多くの人がこの曲に感銘を受けるのは、単にふるさとの風景を思い出すだけではなく、優しさや思いやり、素朴さなど、日本人の心の原点がこの曲にあるからではないでしょうか。

「ふるさと」は、子供の頃の記憶を呼び覚まします。人生の辛さや苦労を知らず、親の庇護の下で、ただ楽しく遊べば良かった頃の記憶と連動しているため、余計に懐かしいのかも知れません。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」が現実であっても、それでは詩情が無さ過ぎます。

f831565b9472af4b4e19bedcee735d69.jpg

「ふるさと」を一番意識するのは、故郷を失った人でしょう。
思いだされるのは「じゃがたらお春」です。イタリア人との混血であるお春は、1639年、14歳の時に、鎖国令によりジャカルタに追放されました。祖国日本への抑えがたい望郷の思いを書いた、「じゃがたら文」が有名です。

 『・・・いこくにながされ候とも、何しに、あらえびすとは、なれ申すべしや、
     あら日本恋しや、ゆかしや、見たや見たや見たや』

昔、「じゃがたら文」を読んだ時、見たや、見たやという、お春さんの日本への切ない望郷の思いに、深い同情を禁じ得ませんでした。14歳にしては美文すぎて偽作だとの説もありますが、それは昔の日本人の教養の深さを知らない人間の勘ぐりです。二度と帰れぬふるさと、日本への望郷の思いに胸を打たれます。

 思いひやる やまとの道の遥けきも 夢にま近く越えぬ夜ぞなき ーお春

家族を愛さない人、生まれ育ったふるさとを愛さない人はいません。祖国を愛さない人もいないはずです。しかし戦後の日本は、国を愛すこと、愛国心を持つことがいけないことであるかの如く言われてきました。
歴史上、そのような国があったでしょうか。国を愛すことは、自分と家族と大切な人を愛すことです。国を失い、流浪の民となったジプシーやユダヤ、パレスチナの民にとって、祖国とは何より大切なものでした。

豊かな自然と文化の日本、本当に素晴らしい国、愛すべき国が失ったものを教えてくれる曲です。
この曲は大正時代に作られました。作詞の高野辰之は長野県の出身、作曲の岡野貞一は鳥取県の出身です。
二人とも抑えがたい郷愁を抱きながら、この曲を作ったはずです。この二人による曲は他に、春が来た、春の小川、おぼろ月夜、もみじ、日の丸の旗、桃太郎、夕やけ、茶摘み、村の鍛冶屋などがあります。
   
「ふるさと」 you tube(合唱、画像とも感動的です)


  うさぎ追いしかの山
  小鮒釣りしかの川
     夢は今もめぐりて
     忘れがたき故郷

  如何に在ます 父母
  つつがなしや 友がき
     雨に風につけても
     思い出ずる故郷

  志をはたして
  いつの日にか帰らん
     山は青き故郷
     水は清き故郷

  作詞 高野辰之、作曲 岡野貞一  大正5年(1914年)『尋常小学唱歌』掲載



胎児の意識

奈良 208
  遷都1300年の奈良


 青柳の 緑の糸を 繰り返し
       いくらばかりの 春をへぬらむ ー藤原実頼

初春のお慶びを申し上げます。
新しい年が皆様に取りまして、安らかで、幸せな年になりますようお祈りいたします。

  新しき 年の始めの初春の 
      今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと) ー大伴家持

初春の今日降る雪のように、良い事が重なっていけという願いを詠んだ新春の歌ですが、全国的に雪の元旦を迎えた今年が、良いことの積み重なる年になってほしいと願います。

古来日本人は、豊かで美しい自然を、美しい言葉で詠ってきました。言霊の国にふさわしい、言葉の遺産です。
このような比類の無い文化の国に生まれたことを、有難く誇りに思います。


奈良 154
 奈良公園

年末に、お母さんのおなかにいる赤ちゃんがほほ笑んでいる様子を、聖心女子大学の研究チームが、世界で初めて撮影に成功したとの記事がありました。赤ちゃんが微笑する画像は以前からあったと思いますが、1秒以上口角が上がった状態を微笑とする国際基準を満たしたようです。3分間の撮影で計6回、1回あたり平均4・7秒の微笑を見せたと言います。

f9684f12.gif9295a8f7.gif
  超音波診断装置画像


胎内教育の重要性は今や常識になっています。知人の話です。
知人の奥さんは公文式幼児教育の仕事をされていますが、2歳半位までの子供に母親の胎内のことを聞くと、みんな覚えていると言います。

・上から見ていてお母さんを選んで生まれてくる。お母さんには胸のあたりから入った。
・子供はお母さんのおなかの中で聞いている。みんな同じだよ。
・妹も一緒についてくるといったので双子になった。
・お母さんには内緒だよと言って、お腹にいた時に聞いたお父さんの声と、今のお父さんの声が違うと言う。離婚して いた。
・お父さんとお母さんがケンカしていたのでお腹を蹴ってやった。(ほほ笑む映像の赤ちゃんは、きっと幸せなので
 しょうね。)

子供は胎内にいる時や、生まれてから言葉をしゃべるまでも、あらゆることを吸収するようです。「三つ子の魂、100までも」ということわざがありますが、昔の人は良く知っていました。

知人が幼児教育で心がけていたことは、
・幼児言葉は使わない。
・良くほめてやる。ブロックでゾウを作ったと子供が言ったら、大げさにほめてやる。
・良く本を読んでやる。奥さんが幼児教育の先生をしているが、本を読んでもらって育った子は、一目瞭然、集中力が 違う。

DSC_0446.jpg
 スズキメソッドの子供たちの演奏

知人は子供が生まれてすぐに、幼児教育としてクラシック音楽を繰り返し聞かせ(胎教が間にあわなかったようです)、2歳半の時、才能教育研究会(スズキメソッド)に入れました。幼稚園に入った頃、学習図鑑セットを与えたところ、付属のカセットを聞きながらずっと見ていましたが、小学校に入った時に先生から、この子は何でも知っている、どういう教育をしたのですかと聞かれたと言います。能力に生まれつきはないようです。

気になるのは、知人の幼児教育の結果ですが、あまり勉強しないのに、成績はいつもトップクラスだったと言います。
私が胎内にいる時に、親に聞かせたかった話です。





国際有機認証「しらい田七人参」

短歌

ブログ内検索

QRコードメーカー



フリーエリア