教育が未来を作る

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ヨゼフ・ピタウ大司教

バチカンの教育省次官を務めた、ヨゼフ・ピタウ大司教の記事が読売新聞の「時代の証言者」に連載されています。宣教師として来日した日本で、30年近く教育に携わってきた方です。第1回目の記事から抜粋します。

「2003年、バチカンの教育省次官であった私は、定年の目安である75歳を迎えたことから、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世に退官を申し出て認められました。日本に戻りたいとの願いは、翌年かないました。

生まれ育ったイタリアではなく、日本をついの住み家とした選択を不思議に思う人もいますが、私にとっては自然なことでした。イエズス会の修道士として宣教のため、一生を日本に捧げる覚悟で渡ったのですから。
まさか途中で呼び戻され、24年近くローマとバチカンで過ごすことになるとは思っていませんでした。

日本は、私が司祭に叙階された特別の思い入れのある国です。司祭としての礎を築いてくれた国でもあります。
私が日本へ始めてやってきたのは24歳の時、1952年のことです。当時の日本は、まだ敗戦の痛手が残り、困窮した状態でした。
最初のクリスマスにイエズス会の教会がある山口県内を回り、目にした光景は忘れません。爆撃で崩壊した建物が残存する中、どこの町でも一番立派で新しい建物は学校でした。運動場やプールもありました。

親たちは食べるものが十分でなくとも、子供により良い教育環境を与えたいと頑張っていました。
国を立て直すのに、まず教育に力を入れる日本に驚くと同時に、深い関心、尊敬、そして愛を感じました。
日本はすごい国になるのでは、と肌で察しました。 ・・・・」



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  山辺学校歴史民族資料館(松本)

日本の戦後の発展を支えたのは、間違いなく教育でした。しかし、日本人が昔から教育に力を入れてきたのは、立派な人間を作るためであり、経済的発展はその結果でした。

国際派日本人養成講座」から、江戸時代の教育水準の高さを示す記事をご紹介します。
このブログは必見です。日本人にまつわる多くの感動的エピソードが紹介されており、同時に現代日本の病理を鋭くえぐっています。

(群を抜く教育水準)
「・・・・専門家の推定では、幕末の嘉永年間(1850年頃)での江戸での就学率は70~86%。これを以下のデータと比較してみよう。

・イギリス 20~25% (1837年での大工業都市)
・フランス  1.4%   (1793年、フランス革命で初等教育を義務化・ 無料化したが) 
・ソ連    20%    (1920年、モスクワ)

 江戸日本の教育水準がいかに群を抜いていたかが分かる。なぜこれだけの差がついたのか、単に物質的豊かさだけなら、産業革命に成功し、7つの海にまたがる広大な植民地を収奪したイギリスの方が、はるかに有利だったはずである。その秘密を探ってみよう。

 当時の江戸には、1500余りの寺子屋や塾があった。幕末の全国では、1万5千にものぼる。僧侶や神官、武家、農民などが運営していたもので、幕府は直接的には一切、関与していなかった。
これらの人々が自宅などに、10人から、大きいところでは100人程度の生徒を集め、読み書き、算術、地理、さらには、農業用語や漢文まで教えていたという。現在で言えば、正規の小中学校がなく、すべて町中の書道教室や学習塾のようなものだけだったと想像すれば良い。

 江戸時代に作られた教科書は、実物が残っているものだけで、7千種類以上もある。大まかに250年で平均してみれば、年間30種類も出ていたことになる。・・・・」


日本はまさに圧倒的な教育国家でした。識字率の低い国は今でも世界に数多くあります。
文字を読めないことを知られたために殺人を犯す小説があり、今年公開された映画、「愛を読む人」も、文字が読めないために人生が暗転する映画でした。このテーマが欧米で理解されるのは、依然として識字率が低いためです。

これほどの教育国家であった日本の子供たちの数学嫌いが、今世界でトップクラスになってしまいました。「ゆとり教育」の結果です。「国際派日本人養成講座」の、「ゆとり教育の現場から」引用します。

・・・・「ゆとり教育」が実施されたのは昭和55年であるから、その5年後くらいから、影響が出始めて、犯罪件数が増えだしたと考えられる。文部科学省での「ゆとり教育」のスポークスマン、寺脇研・大臣官房審議官の目指す所が実現できたのかどうかという点で、検証してみよう。寺脇氏自身の実績も、この指摘の正しさを実証している。

氏は平成5年から8年の間、広島県の教育長を務めており、高校進学希望者は入試で0点でも全員入学できるという「高校全入」政策を押し進めた。その間、広島県の学力は急降下し、国公立大学入試センターで平成2年には全国都道府県中21位だったのが、8年には45位と全国最下位レベルとなった。
犯罪を犯す少年の比率は、千人当たり23.9人と全国一位(平成9年)である。こういう失敗をした人間が、その責任も追求されずに中央官僚として「ゆとり教育」をさらに押し進めているのである。・・・・」



今、民主党によって高校無料化政策が検討されており、何か「高校全入」に似た危うさを感じます。
ヨゼフ・ピタウ大司教の記事にあるように、戦後の日本は、食うや食わずの中で、何をおいても子供の教育のために努力してきました。そして子供も親の苦労を見ながら育ち、親の恩に報いるよう努力してきたのです。

高校無料化には、一説によれば5兆円以上の予算が必要だと言われます。無論、それが本当に必要であれば惜しむべきではありませんが、しかし、自分が学ぶために親に負担を掛けているという思いも子供の教育の一面であり、そうでなければ教育はさらにお手軽なものとなってしまいます。

最近の調査で、日本の貧困率が15%を超えたというニュースがありました。高校の授業料が払えない家庭があることも事実でしょう。しかしその場合は育英資金を充実させるべきであり、ましてや、金の掛かる私学が補助の対象にならないのであれば、人気取り政策と言わざるを得ません。

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  フィヒテ

18世紀末、ナポレオンのフランス軍がドイツに迫る中、哲学者でありイェナ大学教授であったフィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」という有名な講演で教育の重要性を訴えました。

「我々は、未来の生を現在の生に結びつけなければならない。それにはドイツはドイツの教育を抜本的に変革する必要がある。その教育とは国民の教育であり、ドイツ人のための教育であり、ドイツのための教育である。
この講演の目的は、打ちひしがれた人々に勇気と希望を与え、深い悲しみのなかに喜びを予告し、最大の窮迫の時を乗り越えるようにすることである。ここにいる聴衆は少ないかもしれないが、私はこれを全ドイツの国民に告げている。」

第二次大戦後、ドイツは教育権を放棄しない条件で降伏しました。教育が国の未来であることを、深く認識していたためです。
しかし敗戦によって日本は、何より大事な教育権に他国の介入を許し、過去から連綿と受け継いできた日本的精神性を失ってしまったのです。
そして残念ながら、戦後教育で日本精神を失ってしまった政治家や役人、指導者が、人気取りや深い人間理解も無しに、場当たり的に「教育改革」を行っています。

「日本国民に告ぐ」という警鐘を発する真の指導者がこの国に必要であり、私たちも雑音の多い情報の中で、何が真実かを見極めたいものです。



参考:「松岡正剛の千夜千冊




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真理は言葉

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バートランド・ラッセル

数学者・哲学者でノーベル賞(文学賞!)を受賞したバートランド・ラッセルは、「真理とは、主語と述語が一致することだ」、と述べています。

どういう事かと言えば、例えばコップを、「これは本です」と言えば誤り(誤謬)であり、真理ではありません。
「これは」と言う主語(実体)と、「本です」と言う述語が一致しないからです。
この簡潔な定義から、真理の本質が見えてきます。

物や自然の存在は事実の世界であり、物質や植物や動物の世界に真理はありません。人間の思考が正しい場合に、真理が生まれます。そして、思考は言葉によって行われ、その言葉は心から生まれます。
真理とは言葉であり、心であると言えます。

心で見るもの」で書きましたように、真善美ーすべての価値は人間の心によって生まれてきます。
神が人間を創った理由はここにあると考えます。

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神は宇宙を一糸乱れぬ完璧な世界として創りました。しかし、そこに人間がいなければ、永遠の時が流れても、何の価値も生まれません。
それは、ミシュランの三つ星レストランの料理より、もっと完璧な料理を作っても、それを味わう客がいなければ何の意味もないことと同じです。

今、宇宙はどのようにして出来たかを研究する宇宙論の中で、宇宙は人間(知的生命体)を創るために出来たと考える、「宇宙の人間原理」が、有力な説となってきました。そう考えなければ、ビッグバンから生命が誕生する可能性は無限にゼロに近いからです。(確率は10のマイナス1230乗)

人間を創るために宇宙が作られたとしたら、人間とは宇宙の歴史の集大成であり、すべての価値の根源であり、偉大な宇宙そのものであるはずです。その人間が欲望のままに、争い奪い破壊し殺し、最も価値の無い存在に成り下がってしまいました。

宇宙を創り、人間を創った偉大な叡智(神)は、人間にもう一度価値の創造者として目覚めてほしいと願っているはずです。そのために、この三次元の世界をリセットしなければならないのかも知れません。
それがフォトン・ベルトの意味だと思います。フォトン・ベルトについては、いずれ書きたいと思いながら、まだ勉強不足です。

硬い記事の口直しに、立原道造の詩をご紹介します。
それにしても、立原道造が24歳で亡くなったのは残念です。

いつの間 もう秋! 昨日は 
夏だつた…おだやかな陽気な 
陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる 
ひとところ 草の葉のゆれるあたりに
 
おまへが私のところからかへつて行つたときに 
あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた 
そしていま おまへは 告げてよこす 
私らは別離に耐へることが出来る と
 
澄んだ空に 大きなひびきが 
鳴りわたる 出発のやうに
私は雲を見る 私はとほい山脈(やまなみ)を見る
 
おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る                             
しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼(まな)ざし… 
かへつて来て みたす日は いつかへり来る?

          立原道造 ーまた落葉林でー 「優しき歌 II」




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幸せは平凡な日常にある

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幸福とは何かを考える時、忘れられない光景があります。

以前、ヒマラヤの仏教国ブータンを取材した番組で、痩せた段々畑を耕して暮らす一人の女性に、あなたは幸せですかと尋ねた時、「私は幸せです。いつものように今日が過ぎ、いつものように明日が来ます。何の不安もありません」、そんな風に答えていました。

ブータンは世界で最も貧しい国の一つです。もし、幸せが物質的な豊かさを条件とするものであれば、最も幸せから遠い国です。このような国で暮らしたいと考える日本人は余りいないでしょう。
しかし、「私は幸せです。何の不安もありません」と答えられる日本人が、一体どれほどいるのでしょうか。
私達は不況のこと、学校でのいじめのこと、病気のこと、犯罪のこと、将来のことなど、多くの不安にさらされて生きています。

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ジグメ・シンゲ・ウォンチュク国王

日本で暮らすには、最低限度の衣食住が必要であり、ブータンのような自給自足に近い生活と同列に考えることはできないかも知れません。しかし、貧しい生活の中で、幸せを実感して生きている国民がいます。
そこに国民総生産ではなく、国民総幸福を標榜し、豊かさが国民の幸せではなく、人を思いやり、助け合う心こそ国民の幸福だと考える、若き国王の理想の実現を見ることができます。

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私達は幸福を求める時、まず豊かさを求めます。もっと豊かであれば、もっと幸せな人生を送れるだろうし、もし使い切れない程のお金があれば、幸福は保証されたようなものだと考えます。
残念ながら、使い切れない程のお金を持った人がどの程度幸せなのか、経験が無いので分かりません。
しかし、世界一の金持ちと言われたマイクロソフトのビル・ゲイツを知る人が、彼は決して幸せではないと言っていました。先ごろ亡くなったマイケル・ジャクソンも、幸せな人生だったとは思えません。

豪邸で贅沢三昧に暮らしていながら不幸な家庭があり、貧しいながら笑顔の絶えない家庭があります。
豊かさは幸福の決定的条件ではないのでしょう。

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「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は様々に不幸だ」、というトルストイ(アンナ・カレーニナ)の言葉があります。幸福と不幸を入れ替えても同じです。
不幸な家庭では、怒りや不平不満・愚痴・悪口が支配し、幸福な家庭は、感謝、優しさ、思いやりに溢れ、笑顔が絶えないはずです。

人はどんな時に幸福を感じるでしょうか。例えば、好きだと思っていた人の愛が確認できた時、病気から回復した時、ごちそうを食べた時、欲しかったものを手に入れた時、旅行に行った時、つまり、何か良い事があった時に幸せを感じます。

しかし、失って初めて分かる幸せがあります。突然病気になった時は、健全であった昨日までの体の有難さが分かります。家族に不幸があった時は、何も無かった昨日までの幸せを思います。不満を言っていた会社がつぶれた時は、仕事の有難さが分かります。
その時初めて、うれしいことや楽しいことがあった時が幸せなのではなく、平凡な毎日こそが幸せであったことに気づきます。
普通に食事出来ることの幸せ、普通に働けることの幸せ、普通に寝ることのできる幸せ、普通の生活のすべてが幸福の連続であり、朝から寝るまで、すべてが有難いことに気づきます。

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「私は幸せです。いつものように今日が過ぎ、いつものように明日が来ます。何の不安もありません」と語るブータンの女性のように、平凡な日常の中に幸せを見つけだすことができれば、人の一生は幸福なものとなることでしょう。





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聖人と言われた人物ー中江藤樹

ブログを書き始めてから1年が経ちます。自分の意見や情報を発信する多数のブログの存在を知り、日本人の文章力の高さを知りましたが、中でも多くの女性が自分の意見や価値観を自由に発信しているのに驚きました。もしかしたら紫式部や清少納言の伝統が生きているのではないと思わせられるほどです。
現在、世界のブログの37%が日本語で書かれており、世界一だと言われます。控えめな日本人にとって、匿名性の高いブログは優れた自己表現の場となっているのでしょう。

これまで政治的な記事を控えてきましたが、記事のあり方を模索しながら2年目に入ります。

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近江聖人 中江藤樹


日本の歴史上、数多くの偉人がいます。しかし、聖人と称された人は多くありません。その第一が「近江聖人」と言われた中江藤樹です。内村鑑三の著書「代表的日本人」では、「ここに理想の教育者がいる」として紹介されています。

中江藤樹は1604年生まれですから、江戸初期の人です。日本の陽明学の始祖と言われます。
自宅にフジの老木があったことから、藤樹先生と呼ばれました。

藤樹は九歳の時に読み書きを習い始め、十歳の時には庭訓住来貞永式目を学び、それらを忘れることがなかったといいます。十七歳の時には、四書大全を学び終えており、極めて優秀な頭脳であったことがうかがえます。

吉田松陰、佐久間象山、橋本佐内などの幼少期の天才的なエピソードを思い出しますが、それは日本のかつての幼少期の教育が、如何に優れていたかを物語るものであり、同時に、最も頭脳の働きが活発な幼少期に、「ゆとり教育」を行うことの愚かさを証明しています。


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藤樹記念館

中江藤樹の藤樹書院は日本で始めての私塾と言われます。私塾や寺子屋の果たした意義については過去の記事「吉田松陰から思うこと」をご覧ください。

中江藤樹の考えを簡単に言えば、何が正しいかを本当に知っていれば、人は正しく行うことができる、知っているつもりでも実践できなければ、本当に知っているとは言えないというものです。

「人間千々よろづのまよひ、みな私よりおこれり。わたくしは我身を、わが物と思ふよりおこれり」

この言葉は、人間の迷いや悩みが、小さな自分の肉体を自分と思うことから生じるものであり、真の自分は心・魂(真我)にあることを教えるものです。
「胎内にある間も母徳の教化あり」との言葉は、現在の胎内教育を思わせますが、魂の仕組みが分かっていなければ言えない言葉であり、陽明学というだけでは藤樹の全体像を見ることができないのではないでしょうか。

藤樹の生涯を見る時、大洲藩を脱藩してまで母の面倒を見るために帰郷したことが、人生の岐路であったことが分かります。士農工商が支配する当時に、それを行うことがどれほどの決断であったか、想像に余りあります。
今、多くのサラリーマンが親の面倒と仕事の板ばさみにあります。
藤樹先生なら、迷わず「孝」を優先しなさいと言われることでしょう。

㈱タニサケ発行の上田三三生著「歴史と人物に学ぶ」より引用します。


「琵琶湖西岸の小川村(現在滋賀県安曇川町)が、中江藤樹生誕の地であり、逝去の地であります。
少年期から青年期にかけ、武士だった祖父の転勤にともない、山陰の米子、それから四国の大洲に移り住みます。
大洲藩郡奉行だった祖父、さらに祖母があいついて亡くなり、加えて故郷で農業を営む父も病没。母ひとりが小川村で暮らしているので、「いま孝行をつくさなければ、後悔しても間にあわない」と武士をやめ故郷に帰ります。

刀を売った資金で、米や酒を仕入れ安く売り、貧しいながらひたすら老母に仕え、村人たちに学問を教え、うわさを聞いて遠近から藤樹の人柄を慕ってくる者に講義をしたり、本を書いたりする日々でした。

酒を買いに来た村人には、今日はどんな仕事をしたかたずね、その労働の程度によって、売る酒の量を加減します。酔って喧嘩をする者や、酒で身代を持ちくずすようなことがなくなりました。学問を教えている時に客がくると、自由に量って持っていかせ、代金は竹筒に勝手に入れさせます。少しの間違いもありませんでした。現在、藤樹署員で行われている本の販売方法もそうです。

知行合一(ほんとうに知ることは行うことである)-つねにみずから先頭に立って実践し、人々を導くので、賢愚、老若男女にかかわらず、大きく広く深く、その感化を及ぼしました。

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藤樹書院

講義を受けていたなかのひとりの馬方が、客が馬の鞍に結びつけたまま忘れた二百両入りの財布を、八里(32キロ)も離れた宿場まで届に戻り、礼金を受けようとしなかった話は有名です。

たまたまこの話を聞いたのが、学問の師を求めていた熊沢蕃山という武士でした。
あなたのような立派なお武家にお教えするような学も徳もございません」と固く断る藤樹の家の前に二日も座り込んで、蕃山の入門がかないました。
のち岡山藩に仕えた蕃山は、学問を実際の政治の上に大きく生かします。

藤樹は日本最初の陽明学者といわれる人です。徳川幕府は儒教の朱子学を盛んにしました。朱子が形式や礼儀を重く見たのに対し、王陽明はこころの持ち方を大切にしたのです。

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「良知に到る」-人はだれでも、生まれながらにして美しい心、すなわち良知を持っています。その心をよごさず、いつも鏡のように磨きあげておく、これが身を修める根本だという意味であります。具体的には、「孝は徳の本なり」で、藤樹は孝を実践して、後世にまで手本を示したのです。

小川村の玉林寺に藤樹のお墓があり、付近には藤樹書院があります。村の有志の方が、今も交代で説明に当たっておられます。藤樹神社も、藤樹記念館もあって、藤樹の教えが現代にも脈々と伝わっていることがわかります。

至徳堂 大洲市
大洲市 至徳堂

愛媛県の大洲の場合もそうです。大洲の人たちは、藤樹先生、藤樹先生と敬称して、今もその学徳を慕っています。県立大洲高校の敷地内に藤樹邸が大切に保存され、生徒の茶道・華道の稽古など、現在も活用されているのには驚きです。

藤樹は若くして亡くなりますが、多くの門人を教えるのに、熱心・まじめ・丁寧だったため、「近江聖人」と讃えられ、長く尊敬され続けているわけです。」  寛永五年(1648年)四十一歳没



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藤樹記念館 馬方又左右衛門

逸話「正直馬子」高島市ホームページ

ある日、河原市(現在の滋賀県新旭町安井川)に住む馬子の又左衞門は、京都へのぼる加賀の飛脚を馬に乗せました。そして、仕事を終えて河原市にもどり、馬を洗おうと鞍を取り外すと、さいふのような袋が出てきました。その中味を改めると、なんと金子200両もの大金が入っているのでした。

 驚いた馬子は、「これはもしかしたら、さっきの飛脚のものかも知れない。今ごろは、あの飛脚きっと困り果てているに違いない」と思うと、ふたたび馬子は日暮れの道をとって返し、飛脚の泊まっている榎の宿(現在の滋賀県志賀町和邇)まで、30キロの道のりを走っていったのです。

 いっぽう、飛脚はというと、旅篭で旅の疲れをいやそうとしたところ、大金の入った袋が手元にないことにようやく気づき、必死であたりを捜したものの、どこにも見つかりませんでした。
 そうした折、馬子が旅篭に現われたのです。飛脚に会って、いろいろ仔細をたずねると、確かに飛脚の置き忘れ物であることがわかり、馬子は200両の入った袋をそっくりそのまま返してあげたのです。
「この金子は藩の公金で、京の屋敷へ送り届けるためのものです。もしも、この金子200両が見つからなかったときは、自分の命は申すまでもなく、親兄弟までもその累がおよんで、重い罪になるところでした」と、飛脚は涙ながしながら話すのでした。

 そこで飛脚は、行李より別の金子を取り出し、当座のお礼として馬子に15両を差し上げるのですが、馬子は一向それを受け取ろうとはしませんでした。馬子は、「そなたの金を、そなたに返したただけなのに、なんでお礼などいりましょうや」と言うばかり。そこで、飛脚は10両と減らし、5両、3両と減らして馬子に受け取ってもらおうとするのですが、それも受け取ろうとはしません。困りはてた飛脚の顔を見かねて、ようやく馬子は「それじゃ、ここまで歩いてきた駄賃として鳥目200文だけは頂戴いたしましょう」と。

 200文を受け取った馬子は、その金で酒を買ってきて、旅篭の人たちと一緒に酒を飲み交わしました。酒もなくなり、ほろ酔い機嫌で馬子が帰ろうとすると、飛脚は感激のあまり「あなたはどのような方か」と問うのです。

 馬子は、「自分はこのように名もない馬子に過ぎません。ただ、自分の在所の近所に小川村(現在の滋賀県安曇川町上小川)というところがあって、この村に住んでおられる中江与右衞門(藤樹)という先生が、毎晩のように講釈をしておられ、自分も時々は聞きにいくのです。先生は、親には孝を尽くすこと、人の物を盗んではならないこと、人を傷つけたり、人に迷惑をかけてはならないことなど、いつも話されておられます。今日の金子も、自分の物ではないので、取るべき理由がないと思ったまでのことです」と言って、夜遅くふけて河原市へもどりました。

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藤樹記念館 藤樹の母

逸話「藤樹の母」(心の洗濯室

藤樹のいる伊予とは違い、母の住む近江は冬はことのほか寒い。井戸端での水仕事で老母の手にひびやあかぎれができていはしないかと心配した藤樹は、冬のある日とうとう、思い余って母を訪ねるのである。母のためにあかぎれの薬を買って急ぎ故郷へ帰った藤樹は、雪の降りしきる戸外でつるべ仕事をしていた母にその薬を差しだしていたわり、肩を抱いて家の中へ入ろうとする。

ところが母は、
「あなたは学問をするために生まれてきた人だ。母を訪ねる暇などないはずだ。すぐに帰りなさい」
と、薬も受け取らず、家にも入れてくれずに藤樹を追い返してしまうのだ。母に諭(さと)され、雪深い道をとぼとぼと帰っていく藤樹の後ろ姿を、老母は涙しながら見送るのである。辛い別れでありながら、母親の子を思う気持ちを理解した藤樹は、その後勉学に励み、当代一流の儒学者となる。そしてその評判は、日本全国津々浦々に鳴り響いていくのであった。」(「自分の品格」渡部昇一著 三笠書房より)


逸話「そば屋の看板」中江藤樹記念館
小川村からほど近い鴨村の街道ぞいに、一軒のそば屋がありました。その主人は、藤樹先生が大変りっぱな学者だと聞きおよんで、先生に店の看板を書いてもらったら、きっと商売繁盛になると思い立ち、まっさらの板をかかえてお願いに上がりました。先生は、ふたつ返事で承諾しました。

一週間が過ぎて、主人が先生の屋敷をたずねると、「まだできておりません。もう少し待ってください」との返事でした。それからまた10日ばかりが過ぎた頃にうかがうと、そこにはみごとな字で書かれた看板ができ上がっていました。主人はとても喜び、さっそく店の軒先に吊るしました。

ある時、大名行列があって、そば屋の近くで休息をとりました。家来がお殿様にお茶を差し上げるためそば屋に行くと、軒先の看板に目が止まりました。「これを殿様に献上したら、きっとお喜びなされるに違いない」家来は、大金を主人にわたして、看板をもらいうけました。

思わぬ大金を手にして喜んだ主人は、もう一度、先生に頼んでおなじ看板を書いてもらおうと、屋敷に行きました。先生は、主人を座敷に上がらせ、家の奥から半櫃を運び出してふたを開けました。すると、その中にはなんと「そば屋」の下書きのほごが、びっしりと入っていたのです。それを見た主人は、驚くとともに、自分のなした言行の軽率に、ふかく恥じ入るのでした。

逸話「愚鈍な子を医者に育てる」中江藤樹からの伝言
中江藤樹は、「医者になりたい」という願望をもった大野了佐という愚鈍な少年を 医者に育てあげました。了佐は一つのことを何百回も繰り返してようやく覚えますが、晩飯を食べるとすっかり忘れてしまったといいますから、かなり鈍かったようです。
 
それを藤樹は根気よく教え導き、育てます。これは並々ならぬことです。そして本当に医者に育て上げたというのですから、これぞ真の教育者と呼べるのではないでしょうか。藤樹は「了佐を医者にするのに、精根尽き果てた」ともらしています。
中江藤樹の、「各自の得意とするところをよく知り、それぞれの能力、分際にふさわしくそれを使えば、用に立たない人間はいない」 という言葉は実際の経験からにじみ出た金言です。

逸話「醜女との結婚」pケペル先生のブログより

藤樹は結婚も30歳のときであるから、当時としてはずいぶんと晩婚だった。律義にも「三十にして室(妻)有り」という礼記にならったものであろう。しかも、この妻にした女性は高橋某の娘だが、これがもう二目とは見られぬほどのひどい醜女だった。

母親のほうでも「おまえ、弟子の出入りも多いことだし、なにも好き好んで、あのようなひどい面相の女をそばに置くこともないではないか。いまからでも遅くはない。離縁しなさい」と申し出たほどだったが、日ごろ母親のいうことはなんでも聞く親孝行息子の藤樹であるが、このときばかりは頑として母親の言を容れなかった。

「あんな醜女のどこがいいんだ」母親があきれるように言うと、「女は顔ではありませぬ」藤樹はきっぱりと答えた。「たしかに、あの女は見てくれは悪い。しかし、性格がとてもいいんです。非常に利口で、気くばりもきき、考え方にまちがいがありません」息子にこういわれては、それ以上母親も口出しはできない。ついに、嫁を追い出すことをあきらめた。

この藤樹と13歳年下の妻は、はじめの4年間に3人の子を生んだ。いずれも育たず、5年目に産んだ男の子がようやく無事に成長した。これが嗣子の直伯。ついで9年目に次男の仲樹を産んだが、産後の肥立ちが悪かったのだろう、26歳の若さで他界した。藤樹もそれから2年後の慶安元年8月に死んでいる。享年41歳だった。(参考:歴史読本29-1)

参考:中江藤樹記念館  
   :中江藤樹
   :林田明大の「夢酔独言
   :中江藤樹





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