皇后美智子様の御歌

美智子様

皇后美智子様の詠まれる、高貴で慈愛に満ちた美しい和歌にいつも感動します。
たおやかで優しい大和言葉でつづられた御歌(みうた)を拝見するたびに、このような方を皇后陛下として戴く日本の幸せを思うと共に、和歌という短詩に四季と人生を詠みこんできた日本人の美意識に感嘆します。

美智子様の、すべての人々のしあわせを願う美しく祈りに満ちた御歌が、筑波大学名誉教授で長年フランス文学を研究されてきた竹本忠雄先生と、作家で日本文化に造詣の深いオリヴィエ・ジェルマントマさんなど、フランス文化人たちの協力でフランス語に翻訳され、「セオトーせせらぎの歌」として出版されています。

竹本忠雄先生が「知致」に寄稿された記事をご紹介します。



皇后宮美智子さま 祈りの御歌

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                          竹本忠雄氏


 語らざる 悲しみもてる 人あらん
 母国は青き 梅実る頃


これは皇后美智子様が≪旅の日に≫と題して平成十年にお読みになった御歌(みうた)で、宮内庁によって次のような註が付けられています。

「英国で元捕囚の激しい抗議を受けた折、『虜囚』となったわが国の人々の上を思われて読まれた御歌」と。

平成十年5月26日、両陛下のお乗りになった馬車がバッキンガム宮殿に向かう途中、イギリス人の下捕虜たちが「背向け」行為という非礼をあえてしました。このことから皇后様は、「敗れたるゆえに、去る対戦時、虜囚となったわが国人は、悲しみも語りもしえず、いかに耐えていることであろう」とご心情をお寄せになりました。

この御歌を初めて新聞紙上で拝見したとき、私はひじょうに大きな感動に打たれました。皇后様のようなお立場の方が、これほどの透明な抒情と憂国の至情を併せてお示しになるとは思いもよらなかったからです。
しかも、ご自身の内面の世界を詠われた「上の句」と、自然を捉えた「下の句」が見事に調和し、その明転とでも申しましょうか、闇から光に視線を転じるかのような、えも言われぬ美しさに心底魅了されたのです。

長年フランス文学を研究する一方で、深層から日本の文化・伝統を世界に伝えて日本への理解を深めたいと念願して、非力を振るってきましたが、皇后陛下の限りない霊性世界の深さを、御歌の翻訳をとおして少しでも伝えられるならばと考えて、ついにはパリに五年あまり移り住んで、フランス語訳に取り組むこととなりました。

皇后様となられてからのもう一つの大きな変化は、世界で起こる大きな出来事、歴史、抑圧された人々の心情などに一層の注意を払われ、思いを分かち合う御歌を多く読まれるようになっていったことです。

 湾岸の 原油流るる 渚にて
 鵜は羽博(はばた)けど 飛べざるあはれ

 窓開けつつ 聞きゐるニュース 南アなる
 アパルトヘイト法 廃されしとぞ

 被爆五十年 広島の地に 静かにも
 雨降り注ぐ 雨の香のして


私がとりわけ感動させられたのは、平成十三年に詠まれた次の御歌でした。

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 知らずして われも撃ちしや 春闌(た)くる
 バーミヤンの野に み仏在(ま)さず


それより二十年前に皇后様は、アフガニスタン御訪問中に、広大な仏跡、バーミヤンをお訪ねになって、二体の巨大な磨崖仏が、「異教徒」によって顔面を削り取られて立つ様に衝撃を受けて作歌されていました。ここではさらにタリバンによって破壊された光景をテレビでご覧になってショックを新たにされています。しかし、世界中でいったい他の誰が「われも撃ちしや」と声をあげたことでしょうか。
出来事への世界の無関心が、結局はこの惨状を招いたのではなかろうか、自らもその責任を免れない・・・・との深い内省のお言葉なのです。

・・・・多くの深刻な出来事をご自身の問題として受け止める。これ以上高い道徳の姿勢というものは考えられますまい。美智子様はそれが自然におできになるお方であり、御歌の内面の美の輝きとして出ていると言えるのではないでしょうか。

皇后美智子様の御歌を西洋に伝えることは、私にとって単なる「翻訳」ではありませんでした。こよなき日本語をこよなき外国語に移すことはすなわち、言霊の橋を架けることであり、その背後には、「日本的霊性」が如何にして異文明に伝わりうるやとの難問が控えているからです。

翻訳に着手したのは平成十三年からのことで、古巣のパリにおいてでした。フランス語の言霊はフランスでなければ働かないと考えたためです。
そして、皇后さまの許しと宮内庁のご協力を得て、「瀬音」から四十七首、それ以降の作歌から六首、あわせて五十三首を、皇后様のお目通しを経て、日仏翻訳陣を立てて訳させていただくことになりました。


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最大の難所は、最後の五十三首目、平成十六年の歌会始で発表された「幸」と題するお作品でした。

  幸(さき)くませ 真幸(まさき)くませと 人びとの
  声渡りゆく 御幸(みゆき)の町に


紛れもない名歌であるゆえに、みだりな訳は一語もゆるされず、しかも、「さき」「まさき」「みゆき」と、
さながら鶯の谷渡りのように転じる音色を、どういう訳にしたらいいのか。第一、「幸」という御題をどう訳すか。
議論百出となりましたが、これはただの個人的「幸福ーハッピネス」ではないという点では、皆同意見でした。

幸い私は、平成十四年の歌会始の儀にお招きを受け、このお作品が天皇陛下の御製に先立って朗読されるのをその場で拝聴しその感動を抱き続けておりましたので、その時の御製、

 人々の 幸ねがいつつ 国の内
 めぐりきたりて 十五年経(へ)つ


を翻訳グループに紹介し、「この御製は皇后様の御歌とアンサンブルをなすものです。陛下が表明されているのは、ひとえに道徳的高みからの国民の幸福ということであり、ご自信については無私の御心が表現されているのです」と説明しました。

するとメンバーの一人が感動してこう言ったのです。
「分かった。その幸は《 フェリシテ=至福 》だよ! 《 幸くませ 真幸くませ 》は 《 至福を 高き至福を 》と訳したらどうだろう」と。

まさに、言霊の橋が架かった瞬間でした。こうして3年の月日をかけてすべての翻訳を訳し終わりました。

翻訳者として私は、「セオトーせせらぎの歌」の調べが、文化的背景のまったく異なるヨーロッパでどのような音色を響かせるであろうかと楽しみにしていましたが、本が出るや、反響は予想を超える深いものがありました。またそれはフランスだけに留まらず、遠くアフリカのアンゴラにまで広がっていきました。

フランスのシラク大統領からは次のような賛辞を頂戴しました。
「この御本には、和歌の持つ息吹の力と、魂の昂揚力とが、絶妙に表されております。おかげをもちまして、
かかる世界に目を見開かされました」

ここに簡潔に言われた「和歌の持つ息吹の力と、魂の昂揚力」-、これこそは私が最も伝えたかった、皇后様の御歌の言魂をつうじての大和心にほかなりません。
人々の心に「橋を架ける」、皇后様の悲願のほんのわずかでも、もしこれで果たせたならばと、喜びを噛みしめた次第でした。

知致」2008年12月号


こうして完成した仏訳御歌撰集『セオト-せせらぎ の歌』が、2006(平成18)年5月にパリで出版された。それはたちまちフランス語圏の人々の心に届いた。

パリ大学文学部(ソルボンヌ)の準教授で気鋭の文学者フラ ンソワ・ド・サンシュロン氏は、こう評した。
これらすべてのお作品から立ち昇る馥郁(ふくいく)たる香気、みずみずしい繊細さ・・・しかり、抑制、慈悲、祈り・・・今上陛下の皇后美智子様の御歌を拝して思 い浮かぶ言葉はこれなのである。

ジュネーブの銀行家で、仏・独・日の文学に造詣の深いピエール・ジェグリー氏は、竹本氏あてに感想を送ってきた。

・・・月光、陰影、露、霧・・・。ポエジーは、これらの希有なる詞章より静かに浸みとおってきます。永遠の日本が、皇后様の御姿をかりて送りよこした贈り物でなくして何でしょうか。すなわち、神々より下された・・・。

・・・私はまた、こうも考えざるをえません。 一人のお方のトータルな存在に、どれほどの神秘と試練
が、かつ、たとえようもない心情の高貴が秘められているか、『セオト』一巻は、まさにこのことを証していると。
まことに、慈悲と、パルタージュ(痛みを分かつこと) 以上の、心情の高貴がありえましょうか。

皇后様のお歌からフランスの人々が感じ取ったものは、異国情緒ではなく、彼ら自身が近代化の過程で忘れ去っていた精神の高貴さだった。

フランスの文化界で、哲学者として一家をなしているフィリップ・バトレ氏は、季刊誌『反文学』2006年秋季号に『ル・ボー・タン----晴』を発表して、こう述べた。

・・・一人の皇后のお出しになったこの詩集に、エキゾチックなものは皆無である。 それどころか、これらの詩は、きわめて親しみやすいも のばかりなのだ。 ただし、四季の秩序と、心のたゆたいを歌うことに秀でた、この上なき高貴なるお方によって親しみふかくされた、ということが大事なのだが。

西洋においても、その昔、スペインのカスティリア王国の賢人王アルフォンソのごとく、・・・そのような世界を啓示してくれた王侯も無きにしもあらずだったが、いまは遠い物語となってしまった。
ところが、ここに素晴らしいことに、このような詩の妙音が、日本では今日まで存続していたのである。

2007(平成19)年7月1日、パリのキオスクにいっせいに並んだ隔月誌『新歴史評論』は、「サムライの日本」特集と銘打って、表紙には甲冑姿の武士を掲げた。同誌主幹ドミニック・ヴェネール氏が『セオト』に感動して、この特集を企画したのだった。氏は巻頭論文「日本-華と鋼鉄(はがね)」でこう述べた。

本誌日本特集号を編むにあたり、編集子は、今上陛下の皇后美智子様の『セオト』を再読三読させていただいた。 背の君、今上陛下に至るまで、日本の歴代天皇は、神話の伝える太陽女神アマテラス以来、なんと125代にもわたって万世一系を貫いてきたのだから、驚きである。自らの過去を忘却否定するのに躍起の国、フランスの子らたるわれら、こう聞いて、ただ、茫然自失のほかはない。

そしてまさに、この黙示録的爆撃(原爆投下)から50年目、1995年に、皇后は限りなき抑制をこめて次のように歌っておられるのだ。

 被曝五十年 広島の地に 静かにも 
 雨降り注ぐ 雨の香のして


その前年のことであった、皇后が、それより半世紀前、硫黄島の死闘で日本軍将兵が玉砕をとげたことを偲び、こう手向けられたのは。

 慰霊地は 今安らかに 水をたたふ 
 如何ばかり君ら 水を欲(ほ)りけむ


もう一首、終戦(1945年)記念日に詠まれた御作品を掲げよう。

 海陸(うみくが)の いづへを知らず 姿なき 
 あまたの御霊(みたま) 国護(まも)るらむ


ヴェネール氏は、論文をこう結んでいる。
嘆きなく、憾(うら)みなく、涙なし。 いや、涙は、われら読者の眼に溢れざるをえないのだ。
一語一語の重み、わけても「あまたの御霊 国護るらむ」 の喚起する感動に・・・。
これらの調べこそ、つつましき情感をもって歌われた永遠の大和魂への讃歌なのだ。どうしてわれら、これに感奮なきを得よう。懶惰(らんだ)に眠るヨーロッパ諸国の民族魂を目覚ませるべく、あらゆる逆風に抗して挺身しつつあるわれらとして・・・。

天皇皇后両陛下のお歌
国際派日本人養成講座

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日本のすべてを否定する戦後教育を受け、私は20代まで「君が代」が歌えず、いつも歌うふりをしてごまかしていました。皇室番組は大嫌いで、天皇制は税金の無駄遣いとさえ思っていたのです。

ある時、皇居を歩いていて、突然天皇は日本の救いであるとの思いが湧き、何が救いなのか見当がつかないまま、天皇陛下に対する思いが一変しました。
今にして思えば、日本の文化、言霊、祭祀、つまり日本的価値観の中心に天皇陛下がおられたのです。
天皇制について多様な意見がある日本ですが、このことは否定できないはずです。


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柔道家 山下泰裕さんの心

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今年の5月末、NHKラジオの「社会福祉セミナー」で、柔道家の山下泰裕さんが話をされていました。
山下さんと言えば、最強の柔道家として有名ですが、おだやかに話される深い内容に、この人は柔道家であると共に立派な思想家であることに気づかされました。
最近、もっとも感銘を受けた人物です。

インタビュアーの、山下さんはどうして福祉に係わるようになったのですかとの質問に、2番目の息子が自閉症です。それで福祉と係わるようになりましたと答えられていました。
あの最強の柔道家の子供が自閉症だと聞き、自閉症はどんな家庭でも起こりうることだと知りました。

山下さんは、「自閉症の息子に感謝しています。人はどんな人間からも学ぶことができます。もしこの息子がいなかったら、私はずっと人を上から見下ろす人間になっていたと思います。私は息子からたくさんのことを学びました」と話されていました。
山下さんの到達した心の高さを物語る言葉です。

山下さんは柔道を通して人間を育てたい、人を思いやり、助け合う日本人の心や伝統を復活させたいと、
「柔道ルネッサンス」運動の委員長をされています。

平成18年3月17日に、講道館で講演された内容を一部ご紹介します。

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講道館段位推薦委託団体会長会議での講演

『・・・・熊本市立藤園中学校、ここで柔道の素晴らしい恩師、白石先生と出会います。白石先生が我々に教えられたのは試合で勝つ為の技術、体力、戦術だけではありませんでした。人間としての在り方、心構え、柔道の道、これを我々に繰り返し繰り返しお話してくださいました。

白石先生が私たちにどんなことを言われたか。まず最初に繰り返し言われたのが、「柔道を一生懸命にやることで、強くなるだけではなく、相手を思いやる心、助け合う気持ち、我慢すること、ルールを守ること、力を合わせること、こんなことを皆は学ぶはず、これは学校の勉強では学べないけれど、みんなの人生にとって非常に大事なこと。

しかし、みんなが柔道だけ一生懸命に頑張って、勉強を頑張らなかったら、柔道は完璧になれるかもしれないが、柔道を通して得たものを人生で生かして、人生の勝利者になることは難しいだろう。
柔道にとって一番大事なことは、単に柔道のチャンピオンになることではない、柔道で学んだことを生かして人生の勝利者になることだ。

社会に出て可愛がられる人間に、役に立つ人間に、活躍出来る人間になること、これが大事なんだよ、このこととみんなの練習は繋がっているんだよ、だから柔道だけではない、勉強もしっかり頑張らなければいけない、そして人生の勝利者を目指していきなさい」。

これだけの話を、私たちにわかりやすくお話してくださいました。文武両道、そして柔道を通して人生の勝利者を目指せ。今でも強く心に残っています。

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それから先生はこんなことを言われました。「柔道が強くなるために一番大事なことは、人の話を素直に聞ける人間になることだ。この気持ちを強くなるためには持ちなさい。持ち続けなさい。

中学の試合にいってみろ、見かけるだろう。高校生、大学生、社会人、警察官、ちょっと勘違いしていて"俺は強いんだ"と言わんばかりに偉そうに歩いているグループが。いいか、勘違いするな。彼らは一流でもなければ一流半でもない、二流、三流だ。そして、俺は強いんだと思い込んでいる人間にそれ以上の成長はないんだ。

そんな人間だけにはなってほしくない。強くなればなるほど、自分の強さを示さない。そんな人間になってほしい。そして本当の強さを求めれば求めるほど、優しさが滲み溢れてくるものだ」。

私は「強くなればなるほど優しくなれる」この言葉が大好きです。これから、出来れば私の体の中から優しさが滲み溢れる、そういうふうに見られるような人間になりたい、なれたらいいな、こう思っています。

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いくつか選手に関しての思い出を話させて頂きます。

2000年5月には大阪でオリンピック代表を決めるアジア選手権大会が開かれました。大会が終わった後、いつも柔道の会場は当時汚かったんです。ですから選手を集めて当時の最年長が中村兼三だったんですが、「兼三、今からみんなでゴミ拾って会場を綺麗にしようか」と話しましたら、「いえ、みんなでやりました」
そう言ってくれました。

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瀧本選手                            中村兼三選手

瀧本が、シドニーオリンピックでは素晴らしい試合で優勝をするのですが、この時には一番最後にギリギリで代表を取りました。アジア大会後に合宿を行ったのですが、オリンピック代表になったにもかかわらず、瀧本からは全く意気込みを感じられませんでした。ある日の朝5時ごろ目が覚めてトイレへ行きました。

そしたら誰かが一生懸命スリッパを並べているんです。嬉しかったですね、安心しました。振り返ったのは瀧本でした。そして恥ずかしそうに駆け足で自分の部屋へ戻っていきました。
オリンピックでは初日に野村が素晴らしい試合で二連覇しました。私はまさかアテネで三連覇するとは思いませんでしたが、是非とも四連覇して欲しいなと願っております。

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野村選手

野村が初日に優勝して、宿舎に帰ったのは夜中の三時頃でした。そして次の日の中村行成の試合のときには、約束の時間までにしっかり準備して、彼は疲れた身体を押して稽古場に来ました。
中村行成は残念ながらメダルに手が届かず負けてしまうのですが、負けた中村行成が控え室に入ってくると、その後ろから野村がペットボトル、ジャージやバスタオルを持ってついて来るんです。
中村ががっかりしながら柔道衣を脱いだのですが、その後ろで中村が脱いだ柔道衣を野村がもの凄く丁寧にたたんでいました。今まであんな丁寧に柔道衣をたたんだ姿を見たことがないです。宝物を扱うように、いとおしく、大事にたたんでいる。

その姿を私と、細川、西田の三人で目にしました。我々もがっかりしたのですが、その姿を見て三人で話しました。「アトランタオリンピックで優勝した後、怪我があったり、辞めたいと思ったり、いろんなことを乗り越えてきた野村、強さだけではなく人間的にも一回りも二回りも素晴らしくなった。柔道衣を丁寧にたたむあの姿を野村の試合以上に日本の柔道家に見せたいな」そんな話をしたことを、つい先日のように思い出します。

篠原選手
青の柔道着が篠原選手

篠原は一生懸命頑張ったのですが、誤審で残念ながら銀メダルに終りました。終った後の記者会見、篠原はこう言いました。「自分が弱いから負けたんです。審判に不満もありません。」
言いたいことはいっぱいあると思います。それと同時に彼の心の中には、「一本」ではなく例え相手のポイントになったとしても、残り時間が三分半あった。俺に本当の力があったら、三分半で逆転できた。負けたのは俺に本当の力がなかったからだ。そういう思いもあったのではないかと思います。

あれが日本人でなければ、他の国の選手なら多くのマスコミを前にして、ビデオを見せながら涙を流しながら全身の手振り身振りで世紀の大誤審を世界にアピールしたのではないかと思います。なんでそういうふうにしなかったのか、篠原はしゃべれないのか、そういう声もありました。

実際は違います、我々が失いかけていた美しい心を篠原は持っていた。人を責める前に、もっと自分に出来ることがあったんじゃないか、そんな思いを持っていたからあのような言葉になったのではないかと思います。
我々は柔道を通して、本来あるべき日本の心をもっともっと大事にしていかなければならないと思います。

余談ですが、その後、私はずっと「俺に何かできたのではないか、俺が抗議すれば銀ではなく金になれたのではないか」そんな思いを持ちながら日々を送っておりました。
ある日、夜中眠っているときにへんな声が聞こえました。「山下、いいんだよあれで。あれはあれでいいんだ、もう気にするな。篠原がとったメダルは銀じゃないよ、あれはプラチナだよ。そのことだけは忘れるな」
そうだ、あの戦いにはプラチナが一番相応しいのかな、そう思います。もう一人私の教え子の井上康生の話もさせていただきたいと思います。

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井上選手と山下八段

2004年、アテネオリンピックの前の日に筑波大学へ稽古に行きました。パラリンピック代表のグループが集まって稽古をしていたらしいのですが、柔道衣が非常に粗末だったそうです。聞きますと自分たちで柔道衣を買わなければいけない、何の支援もない。

そして井上が「パラリンピックの代表選手の方々に柔道衣をプレゼントしたい。同じオリンピック、パラリンピックを目指しているのにあまりにも我々と状況が違いすぎる。可哀想な気がしました。」
私は心を打たれ教え子がやるなら私もしなければと、この話を全柔連にしたところ、それはいい話だけど井上とか山下がやる話ではない。あとは全柔連が引き受けるから何も心配しないでくれ。

アテネオリンピックでは井上は私たちの期待を大きく裏切りました。力を出し切れず終りました。そして2005年1月の嘉納治五郎杯で優勝したものの大胸筋を痛めまして、元気に回復はしていますが試合には復帰しておりません。

普段は優勝しても私に一切電話してこない井上から、嘉納杯で優勝した次の朝、かなり胸は痛むと思いますけど私に電話がかかってきました。めずらしいことがあるもんだと思って電話を取りましたが、「先生、たしか嘉納治五郎杯ではオリンピックのメダリストが全員協力して、新潟県中越地震被災者の方々への募金運動をしてましたよね。私は昨日の試合で優勝してトヨタのマジェスタという車をいただきました。
オリンピックで惨敗してからいろんな人に支えられてここまでこられました、私は優勝したことだけで満足です。この車をなんとか被災者の方々に役立てる方法を考えてはいただけませんでしょうか。」
話を聞きながら私は涙を流しました。自分が思ってた以上に遥かに人間的にも素晴らしくなっていました。

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私は柔道というものは、強さを目指していく中にそういう人間を作り上げていくという、素晴らしきものがある、
力がある、そう確信しております。しかし、現役を終えて指導者になって、ひとつ気になっていることがあります。
柔道人のマナーがだんだん悪くなっているのではないか。学生柔道の大会では大会会長の挨拶の時に、自分達で出したゴミは自分達で持ち帰るようにと、何度も言わなければならない、そういうレベルまで我々のマナーは落ちてしまった気がします。・・・・大事なものを置き忘れているのではないか。そう思っていたときに大変衝撃的なことが熊本で起こりました。

平成13年度のインターハイです。このときの実行委員長をした人が大学の先輩でした。二日目が終った後、先輩は私のところへ来ました。目に涙をためながら言ったことが、「山下、柔道は本当に教育か、人づくりか。それを胸張って言えるか。」先輩どうしたんですかと聞くと、「熊本ではもう二度と柔道の大会は開催したくない。柔道人のマナーは最低だ。ここだけではない、前年の岐阜で行われた大会でも、もう二度と柔道はごめんと言っている」。

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2001年の1月、講道館鏡開きのときに嘉納館長がこう言われました。
「21世紀、これから我々柔道人が目指していくのは柔道を通した人づくりだ。人間教育だ。」
そして嘉納館長の一言から、日本の柔道界、講道館と全柔連が協力して、もう一度、原点に戻ろう、柔道を通した人づくり、人間教育を大事にしていこうと、この柔道ルネッサンスが立ち上がったと私は理解しております。
私の大好きな言葉に「伝統」とはその魂、その精神を継承することをいう、そんな言葉があります。
ある時、もしかしたら我々柔道人は、試合での勝ち負けだけを求め、素晴らしい「一本」の切れ味だけを求めている。形だけを求めて、一番大事な魂の心を忘れかけたのかもしれません。私はどちらも大事です。
今、教育が荒廃している日本の中で、柔道が中心になって青少年の育成、人づくり、これを行っていくべきではないかと考えております。・・・・』

山下さんは、「私は “ 強くなればなるほど優しくなれる ” この言葉が大好きです。これから、出来れば私の体の中から優しさが滲み溢れる、そういうふうに見られるような人間になりたい、なれたらいいな、こう思っています。」と言われています。

山下泰裕さんこそ、まさにそのような方です。

講道館での山下泰裕八段による「柔道ルネッサンスについて」の講演内容
山下泰裕公式ホームページ
武道画録

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子供を花のように愛する日本(2)

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大阪の宿舎前の孤児たち

過去の日本人の感動的なエピソードを知ることはうれしいことです。日本人の心が変質してしまったのではないかと思う昨今ですが、このようなエピソードに感動できる日本人がいることは、優しさ、思いやり、親切心という、日本人の美質がまだ失われていない証だと思います。

ポーランド孤児孤救出と支援に係わった人たちは、心からの慈愛に突き動かされて奉仕をしたに過ぎず、それこそが日本人の本質と言えるものです。

1961年、チェロの巨匠、パブロ・カザルスがスズキメソード(才能教育)の子供たちの演奏を聴き、感激に声を震わせてスピーチしました。それは、日本人が失ってはならない心のあり方を示すものです。

<承前>

「我々はいつまでも恩を忘れない」

大正11年(1921年)、孤児たちの帰国を受け、ヤクブケヴィッチ副会長が感謝の手紙を送ってきました。

「わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。
・・・ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを
日本人に告げたい。・・・
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感恩、最も暖かき友情、愛情をもっていることをお伝えしたい。」

一方、無事帰国した孤児たちはたくましく成長しました。彼らの中には、医者、教師、福祉事業家、法律家、技術職人など、公の為に尽くす職業を志したものが多かったと伝えられています。

その一人、イエジ・ストシャウコフスキは、後に孤児院の院長に就任して社会福祉の改善に尽くすとともに、日本との友好を深める「極東青年会」を結成し、会長として活躍しています。

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日本を訪れた元孤児のストシャウコフスキ氏(左)と
林啓三日赤社長(当時)

ヤクブケヴィッチらがシベリア奥地で粗末な小屋に身を隠していたポーランド人母子を見つけ出した時、母親は我が子だけでも救ってほしいと訴えたそうです。
彼はその母子の別れのシーンをこのように記録しています。

「息子を我々に託す母親は、粗末なテーブルに洗いざらしのクロスをしき、マリア像をそっと置いて祈りを捧げた。祖国を知らず、また満足な母国語もしゃべれない息子を前において、『お前は祖国独立のために闘った祖父や父の息子なのだ』と噛んでふくめるようにさとしていた。それはあたかも息子に蜂起者の魂を植え付けているように私には聞こえた・・・」

昭和14年(1935年)にナチスドイツ軍によるポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発した際、イエジを中心に少年兵「イエジ部隊」を編成、祖国守護の先頭に立ちました。

昭和19年(1944年)8月1日には、再びナチスに対してワルシャワ市民が決起します。有名な「ワルシャワ蜂起」です。イエジキ部隊は、この時も懸命に奮闘しました。
第二次世界大戦下を辛うじて生き残ったイエジは、76歳を迎えた昭和58年(1983年)、積年の感謝を述べるため来日しています。
彼は日本を「第二の祖国」と呼んでいるほどです。

「日本の被災児に恩を返す」

ところで、ポーランドとわが国との関係はこれで終わったわけではありません。実は平成7年(1995年)1月阪神淡路大震災が発生した時、ポーランドはいち早く救援活動に入りました。
しかし、同年8月には、痛手を負った日本の被災児たちを一ヶ月近く招待し、ワルシャワやその他各地に歓迎し、心からの激励をしてくれたのです。

被災児の中には肉親を亡くした児童たちもいましたが、慈愛に満ちた接待を受けています。そして、被災児とのお別れパーティーが開かれた時、かってのポーランド孤児の方々が地方から駆けつけてこられたのです。

すでに80歳を越えるこの方々は、日本の被災児にバラの花を一輪ずつ手渡し、心から激励してくれたそうです。
その様子については、当時ポーランド大使を務め、この場面に立ち会われた兵頭長雄氏の著書「善意の架け橋」に詳しく紹介されています。

*日本人の優しい心と高い道徳性を知る貴重な資料、「善意の架け橋―ポーランド魂とやまと心 」は絶版となっています。この本の感動的なエピソードは、「Their Voiceless Devotions 」に紹介されています。

かってヤクブケヴィッチが手紙の中に「いつまでも恩を忘れない」と記した通り、765名の孤児の命を助けた大正日本人の尊い行為に対して、平成日本の被災児にその恩を返すことで、ポーランドは約束を果たしたのです。

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平成14年(2002年)7月、天皇・皇后両陛下がポーランドをご訪問になりました。ポーランド国民の歓迎の中、両陛下にどうしてもお会いしたいと三人のお年寄りが申し出ました。大正時代に日本が
救った孤児の方々でした。

両陛下はワルシャワでこの3人と対面されています。この時、アントニーナ・リロさんという86歳のお年寄りは、皇后陛下の手を握ったまま離そうとしませんでした。なぜでしょうか。実は80年前、日本で治療を受けていた自分を訪ねてきて、元気になるよう抱いて励ました方がいたのです。その方こそ大正天皇の皇后であられた貞明皇后でした。

人生の晩年に至って、ようやく得られた喜びを満面に浮かべたリロさんの表情は、テレビにも映し出されていました。
ヤクブケヴィッチが手紙に綴ったように、現下日本の私たちもポーランドや先輩である大正日本人の偉業にならって、「高尚な国民」たらんと努めたいものです。」

月刊誌、「致知」の今年3月号、福岡県立太宰府高等学校教諭、占部賢志さんの記事、「子供を花のように愛する日本」より。
写真は「人道の港 敦賀ムゼウム」からお借りしました。

<関連サイト>
大和心とポーランド魂
世界に知られた才能教育 スズキ・メソード 鈴木鎮一
「日本人が失ったもの」
エルトゥールル号の遭難


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子供を花のように愛する日本

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ウラジオストクに集合した出港前の孤児たち


以前、日経新聞に載った遠野のカッパをご紹介しましたが、同じ6月18日の日経新聞に、駐ポーランド大使、田辺隆一さんの書かれた記事が載っていました。
概略をご紹介します。

「18世紀から123年間、周辺国に国土を分割されたポーランドは、何度も蜂起するが失敗し、多くがシベリアに追放された。1917年、ロシア革命の混乱で、シベリアにおけるポーランド人孤児・児童の生活は、飢餓と寒さの中で悲惨な状況に追い込まれていた。

当時、独立を回復したばかりのポーランドからの支援要請に応じたのは、唯一日本政府だった。
1920年から22年にかけて、1歳から16歳の765人の子供たちを救った。存命者はいないと思ったが、昨年マリア・オルトフェノバさん(96歳)との出会いが実現した。

シベリアから大阪に逃れ、看護を受けた後、離れ離れだった両親とワルシャワで再会した。
日本の人が、優しく膝の上に乗せてくれたことや、看護婦さんに良くしてもらったことを覚えていると言う。
日本人は彼女にとって幸運のシンボルである。
覚えている歌があると言って「もしもし亀よ」を懐かしそうに口ずさんだ。

現在ポーランドには1300人の日本人がいる。オルトフェノバさんは「そんなにたくさん」と驚いた表情を浮かべると、大きな声で「バンザイ」と叫んだ。
いつまでもお元気で国交90周年の両国の関係が、さらに深まるのを見守ってほしい。」


月刊誌、「致知」の今年3月号に、福岡県立太宰府高等学校教諭、占部賢志さんが、「子供を花のように愛する日本」と題して、ポーランド孤児救出の偉業を述べられています。

歴史の「いのち」―時空を超えて甦る日本人の物語歴史の「いのち」―時空を超えて甦る日本人の物語
(2002/06/10)
占部 賢志

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「・・・ロシア革命の嵐に巻き込まれたシベリア在住のポーランド人は、赤軍に追われ難民と化してしまいます。シベリア鉄道の乗車を拒否された上に、飢餓や伝染病が蔓延。さらには極寒の中、各地に親を亡くした孤児たちが出現したのです。
この事態に直面したウラジオストック在住のポーランド人はせめて孤児だけでも救おうと「救済委員会」を結成します。
会長にアンナ・ビュルキェヴィッチ女史、副会長にはアンナ・ヤクブケヴィッチ医師が就任して救出活動にとりかかりました。

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ポーランド児童救済会幹部(中央:会長アンナ・ビルケウィッチ女史))

・・・・各国にも救済を懇願したものの、はかばかしい回答は返ってきません。万策尽きたアンナは、海を隔てた日本に一縷の望みを託してやって来ます。
大正9年(1920年)6月18日のことです。(上記の日経記事は6月18日付)

東京の外務省に出向いたアンナは嘆願書を差し出し、
『我々は祖国から離れ離れになり、いまだに何の助けも得られません。このまま冬が来ると、子供たちの命が奪われることは明らかです。
子供を花のように愛する日本が、彼らの命を戦争の不幸から救って下さるよう、私は切に願っています。』

彼女の訴えを聞いて胸を打たれた外務省は、わずか17日で受諾し、ただちに日本赤十字社が中心となって救援活動に入ったのです。
当時シベリア出兵中だった帝国陸軍の兵士たちも孤児救出に協力しています。

7月22日には救出した孤児56名の第一陣をウラジオストックから福井県の敦賀に運び、そこから東京に保護しました。
最終的には756名を救出、東京、大阪に収容して治療に当たっています。

この孤児たちの中には腸チフスを発症している幼子も交じっていました。容態は重く手遅れに近い病状でしたが、弱冠21歳の担当看護婦が付きっきりで看病しています。
しばらくたって、奇跡的に回復の兆しが現れたのを見届けて彼女は倒れました。

この子が死ぬのなら、せめて自分の胸の中で死なせてやろうと夜も抱いて寝ていたため、みずからが腸チフスに感染していたのです。
この女性は日本赤十字社神奈川県支部の看護婦で、救援チームに進んで参加した新潟出身の松沢フミという方です。
彼女はみずからの命を捧げて幼子の孤児を救ったのです。
このように大正時代の日本人は孤児のために献身し、756名を一人として死なせはしませんでした。

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孤児たちと日赤の看護婦

やがて健康を取り戻した孤児たちは、祖国ポーランドに送り届けられることになりました。
第一陣の50名ほどの孤児が横浜港から発つ時のことです。孤児たちは見送りの人々にしがみついて離れたくないと泣き叫んだと言います。
世話をしてくれた日本人は幼子たちにとって父や母のような存在になっていたからです。

見送る多くの日本人は子供たちに向かって、『君たちは元気で勉強に励み、大きくなったら偉大な祖国再建のために役立つような人になるんだよ』と、切々と励ましています。
これに対して、埠頭に並んだ孤児たちは感謝を込めて、国歌『君が代』を歌いだしたそうです。滞在中に習い覚えたのでしょう。
幼い彼らが涙を流して歌う『君が代』の調べが埠頭に流れました。・・・」

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神戸港から帰国のため乗船する孤児たち

写真はすべて「人道の港 敦賀ムゼウム」からお借りしました。

続く

ポーランドはショパンを生んだだけで人類に貢献していると思っています。
コペルニクスやキュリー夫人もポーランド出身ですが、科学的発見は、遅かれ早かれ誰かがします。
ショパンの曲はショパンにしか書けません。

ノクターン 遺作 嬰ハ短調
誰の演奏か分かりませんが、ポーランドの農村風景が入っています。

CDを聴かれるのであれば、クラウディオ・アラウの演奏がお薦めです。
ショパン:ノクターン集ショパン:ノクターン集
(1996/06/05)
アラウ(クラウディオ)

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季節のうつろい

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先日、近くの小高い山を散歩していて、栗(!)が落ちているのを見つけました。
7月に入ったばかりで、まだ大きくはありませんが、もう自分の出番を準備しているのに驚きました。
ドングリはどうかとクヌギの枝を見てみると、やはり小さな実をつけています。

季節のうつろいの早さに、徒然草の一節を思い出しました。
徒然草第155段 「世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし」より

「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋

は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先づ

落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、

待ちとる序甚だ速し」


訳注を付記します。

「春が終わって夏になり、夏が終わって秋が来るのではない。春はすでに夏の気を宿し、夏にはす

でに秋の気が宿っている。秋はすぐに寒くなるが、十月には小春日和の日があり、草も青くなり、

梅もつぼみをつけている。木の葉が落ちるのも、まず葉が落ちて芽が出てくるのではない。

下に用意された芽の勢いに耐えられなくて落ちるのだ。次の命が準備されているので、うつろいが

とても速い。」


すばらしい観察眼です。このように自然の本質を洞察した人間はあまりいないでしょう。
小林秀雄が吉田兼好を称して、同時代(13世紀)、世界で最も優れた思想家である、と言っていましたが、歴史上もっとも優れた観察者の一人と言えるでしょう。

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この文章は次に続きます。

「生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待

たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざる

に、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」


<訳注>
「人の生・老・病・死は、四季の移り変わり以上に速い。四季には決まった順序があるが、人の死に

は順序がない。死は未来にあるとは限らず、気づかない内に後に迫っている。人は皆、やがて死ぬこ

とを知っているが、今日明日、急に来るとは思っていない。しかし、死は思いがけずにやってくる。

それはあたかも、はるか遠い沖には干潟があるのに、背後の磯から急に潮が満ちて来るようなも

のだ。」


四季と人生を対比し、死を潮に見立てる、簡潔で見事な文章です。
吉田兼好の鋭い観察眼は、自然と人生の本質が同じであることを見抜いています。
兼好は書いていませんが、だから人生の秋や冬に備えて次の準備を整え、いつ死が来ても後悔しないように生きなければならないと言いたかったのでしょう。


『追記』

徒然草第155段 「世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし」の前段をご紹介します。
人の心、世の習い、自然の流れを見据えた、示唆に富む言葉です。

「世に従はむ人は、まづ機嫌を知るべし。ついで悪しきことは、人の耳にもさかひ、心にも違ひて、その

こと成らず。さやうの折節を心得べきなり。ただし、病をうけ、子産み、死ぬることのみ、機嫌をはから

ず。ついで悪しとて止むことなし。生・住・異・滅の移り変はるまことの大事は、たけき川のみなぎり流

るるがごとし。しばしも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。 されば、 真俗につけて、 必ず果たし遂げむ

と思はむことは、機嫌をいふべからず。とかくのもよひなく、足を踏みとどむまじきなり」


<訳注>

「世の中の流れに適応していくためには、まず時機を知らなければならない。

時機が悪ければ、人が聞いて不愉快に思うし、納得してもらえないので思う事が成就しない。

時と場合を考えなければならない。

ただし、病気にかかることや子供を産むこと、死ぬことだけは、時機を選ぶ事ができない。

時機が悪いといって取りやめになることもない。

万物の生成・変転・消滅の有様は、流れの激しい川が満ちあふれて流れるように、滞ることがない。

瞬時に起こってくる。

だから、真理の追究や俗世間で生きる上で、必ず成し遂げようと思うことは、時機のよしあしを言うべ

きではない。あれこれ準備ができていないと躊躇せず、すぐに実行しなければならない」




兼好は、世事には行うべき適当な時節があるが、必ず成し遂げたいと思うことは、すぐに実行しなければならないと説きます。

私達は何かをしようとする時、あれがダメ、これができない、あるいはもう少し待とうと、何か理由を探して先延ばしをします。

我々の優柔不断や、困難を避けたいという思いを絶つ、一刀両断のアドバイスです。


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気づきの旅

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先日、ある大手新聞社の社会部長をされていた知人が、しばらくぶりに遊びに来られました。
退職後の現在は、週に3日大学に通い、仏教の勉強をされています。
今年の1月から3月にかけて、四国八十八箇所、1300km以上を遍路された話をお聞きしました。

冬はお遍路の季節ではないそうですが、敢えて困難な時期を選んで巡礼されたのは、この方らしい選択でした。
普段歩かない生活をしているために、出発が近付いてからは、自宅から3時間かけて大学まで歩いたとのことです。

冬の遍路道は厳しく、四国とはいえ山の上は零下になり、誰一人歩いていません。やっと辿り着いた宿泊施設も休業している所が多く、寺の宿坊さえ閉まっています。
ある時、次の宿泊地まで、まだ15kmの寒い山道を歩いていた時、何でこんな旅をしているのだろうか、もう止めて帰ろうかと思い始めました。

山道を抜けた所に廃校があり、そこに悄然と腰をおろしていると、校門の前に車が止まり動こうとしません。
余り長く座っているのは不審がられると思い、立ち上がって歩き始めると車のウインドウが開き、これを食べてくださいとお菓子を差し出されました。有難く受け取ると、後部座席にいたお母さんも、何か買って元気を出して下さいと600円を差し出しました。

その人たちが去った後、有難くて、うれしくて、涙がとめどもなく流れ、いつまでも嗚咽が止まらなかったと言います。

この話を聞いて驚いたのは、丁度その前々日、作家の神渡良平さんの講演で同じ話を聞いていたからです。
神渡良平(かみわたり・りょうへい)さんは、38歳のとき脳梗塞で倒れ半身不随となりましたが、必死のリハビリで再起されました。闘病生活中に安岡正篤師の本に触れ、どんな人にもなすべき使命があってこの地上に送られていることを知ります。
闘病後に書いた、『安岡正篤の世界』他、多くのベストセラーを出されています。

神渡良平さんも四国八十八箇所を遍路されました。もともと脳梗塞のリハビリで健康を回復された方であり、健脚というわけではありません。
ある時、足が痛くて歩けず、道端に座ってもう止めようと思った時バイクが止まり、降りてきたおじいさんが200円を差し出し、これでジュースでも飲んで頑張って下さいと励してくれました。

神渡良平さんは有難く有難くて、涙が止まらず、鼻水を垂らしながら嗚咽したと言います。

まったく同じ体験を立て続けに聞いて感じたことは、普段なら有難みのない小銭に込められた優しさが、極限の心にとっては何にも増して励みになること、そして、精一杯頑張ってこれ以上は頑張れないという状況になった時には、不思議な手が差し伸べられ、勇気と励ましを与えてくれるのだと言うことでした。

このお二人の話にはまだ共通点がありました。
神渡さんは遍路道を歩くことは「瞑想」であると言い、知人は「立禅」であると言いました。
ひたすら無心に歩くことが、自分を見つめる時間となり、自分と人生について、多くの気づきを得たと言います。

神渡良平さんは、スペインの巡礼路である、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」も歩かれました。

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この巡礼路は、9世紀にイエス・キリストの12使徒、ヤコブの墓がスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見され、ヨーロッパ各地からこの地を目指す巡礼が始ってできたものです。
ヤコブの墓は、天使のお告げと導きによりに発見されたと言われており、墓の上に大聖堂が建てられ、世界遺産となっています。

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サンティアゴ・デ・コンポステーラの関係者が、四国八十八箇所の遍路道と姉妹関係を結ぶために調査に来ていましたが、冬の遍路道は誰一人歩いておらず、困惑していたところにお遍路さんの格好をした知人が差し掛かりました。

早速インタビューと撮影を受け、是非サンティアゴ・デ・コンポステーラに来てほしいと招待を受けたと言います。
スペインの調査スタッフも、英語で質問に答えるお遍路さんに、驚き、喜んだことでしょうが、これも天の配剤と言うべきかも知れません。

知人は途中で心がくじけそうになった時、何回も亡くなった父親が出てきたと言います。
お父さんは、自分は肺結核で肺を半分切り、100m歩くと息が切れて歩けなかった、おまえは立派な体を持っているじゃないかと励ましてくれたそうです。

四国八十八箇所のお遍路の意味について知人は、多くの寺が納経のお布施で豊かな経営をしており、僧侶も自分を高めるための修行をしているように見えない、お遍路とは納経したり願を掛けることに意味があるのでは無く、自分を見つめ、精一杯の努力をすることによって与えられる気づきに意味があるのでしょうと話していました。




先日の講演会で神渡良平さんが、ニック・ブイジッチさん紹介されていました。この方は生まれつき手足がありません。8歳の時に、自殺を考えたと言います。
しかし、人と自分を比べない、あきらめたら人生は終わりだと考え、すべてを受け入れ、喜んで人生を送るようになりました。

you tubeには、ニックさんがある学校で話をしていて、突然壇上で転んで見せる映像が出てきます。
手足が無くてどうして起き上がるのでしょうか。ニックさんは1冊の本があれば、手足が無くても立ち上がれることを見せてくれます。
笑っていた生徒たちは、感動に涙を流します。

この映像を見て、以前「ヘレン・ケラーの恩人 、 塙 保己一」でご紹介した中村久子さんの言葉を思い出しました。

「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」


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