はい、喜んで

不満はまわりにあるのではなく、心の中にある。

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強制収用所 早田貫一画伯のシベリア抑留鎮魂歌


以前、シベリアで抑留された日本軍兵士の記事を読みました。

敗戦後、65万人以上の日本兵がシベリアやモンゴルに抑留され、強制労働に従事させられました。
彼らは、極寒の中、わずかな食料で過酷な労働に従事させられ、ひたすら日本に帰れる日を待ち望みながら死んで行きました。
(アメリカの研究者によれば、100万人以上が抑留され、死者は25万4千人以上だと言われます)

直木賞を受賞した胡桃沢耕史の「黒パン俘虜記」は、強制収容所の地獄の日々を綴ったものです。僅かな黒パンとスープしか与えられず、栄養失調と病気の体で厳しい労働にかり出され、多くの仲間が泡のように命を落としてゆきます。
これほど読んだ後に心が重くなった作品はありませんでした。

そうした強制収容所の生活の中で、「自分たちは捕虜ではなく、日本兵だ」と誇りをもって強制労働に従事した日本兵たちがいたそうです。
彼らが与えられた作業現場で、女性将校の命令に対して、「はい、喜んで」と返事をし始めたら、女性将校は顔を赤らめて感激し、労働条件が良くなっていったと言います。
不安や絶望しかない中で、積極的につらい労働を受け入れる人間がいるなど、女性将校には想像もできなかったことでしょう。

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病人・負傷者たち 

不平不満を言っていたことも、「はい、喜んで」と積極的に受け入れることができれば、それはいやなことではなく有難いことに変わるのかも知れません。

罰としてランニングをさせられたら不満しかありませんが、自分の能力を高めるためだと思えば、成し遂げた後の達成感があります。気持ちのあり方で、まるで結果が違ってきます。

私たちが生きていること自体が、この世と言う厳しい収容所で、つらい体験を重ねていると思えることがあります。
もし、シベリアの兵士のように、「はい、喜んで」と積極的に与えられた環境を受け取めることができれば、きっと人生は好転するのでしょう。

追記:ある方からシベリア抑留裁判が京都で始まったとの情報を頂きました。日本国政府がソ連に対し、日本兵を自由にお使いくださいと申し入れた文書が、旧ソ連崩壊によって出てきたとのことです。それが本当だとしたら、シベリアに抑留された人たちは日本国によって売られたことになります。


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猫とウサギ

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去年の夏、生後3~4ヶ月の3匹の猫が、家の近所で暮らしていた。よく娘と一緒に餌をやりに行っていたが、その内の一匹は人なつこくて、すぐに体をすり寄せるようになった。
もう一匹は少し臆病で、近くまで寄ってくるのに、撫でさせてはくれない。いつもシッポを立てていたので、シッポと呼んでいた。そしてもう一匹は警戒心が強く、いつまで経っても遠巻きに我々と2匹の様子を見ていた。

同じ頃、若い女性が毎晩餌をやりに来ていたが、夏の終わりに人なつこい猫を引き取って飼うことになった。そしてしばらくして、残った2匹がの姿が見えなくなった。娘に聞くと、どこかに行ってしまったと言う。

その猫たちのことをすっかり忘れていた去年の暮れ、次女から電話があり、冬休みで帰省するが、猫を連れて帰る、実は夏休みが終わって帰るときネコを連れて来た。お姉ちゃんと相談して引き取ったと共同正犯を告白した。唖然とする話だったが、連れて帰ってきた猫は、すっかり大きくなった“シッポ”だった。

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  元気な頃

わが家には今年9歳になるネザーランド種のウサギがいる。昨年の5月に斜頚になり、ウサギ小屋で飼う事ができなくなったため、敷物を敷いてリビングで飼っている。
このウサギにちょっかいを出さないか心配だったので、ネコがウサギに近寄った時に、このウサギはわが家に何年もいる大事な家族だから、絶対いたずらしたらだめだと言い聞かせた。
ネコに人間に通じる感情があることは「志村動物園」で分かっていた。(あまり学術的ではない)

その後、このネコは決してウサギにちょっかいを出そうとせず、むしろ、自分には悪さをするつもりが無いことを示すように、ウサギを避けて歩いていた。

3匹目のネコの消息は分からない。娘たちが“シッポ”を連れて帰ろうとした時、いつも警戒心の強いそのネコが近寄り、いつまでも鳴いていた。かわいそうだったと話していた。一匹になったネコは、本当にどこかに行ってしまった。

ウサギについて少し不思議な話がある。
斜頚になるまでは、ウサギ小屋から出して自由にさせていた。ウサギはいつも居間にいる我々のそばで遊んでいた。斜頚になった後も、みんなのそばが良いだろうと考え、抱き上げて居間に運んでいた。
それがある時から抱き上げると激しく身をよじらせて暴れだした。何故だろうと思ったが理由が分からず、その後も抱いて運んでいた。

ある朝突然、“ウサギは抱かれた時、背中が痛いのだ”、との思いがひらめき目が覚めた。
それがウサギからのメッセージだったのかどうかは分からない。しかしそのことで、ウサギが激しく身をよじらせて嫌がった理由が納得できた。

ウサギのところに行き、良かれと思ってやっていたことが痛かったんだねと詫びると、ウサギは目を潤ませていた。
ウサギは感情で涙を流すことはないのだから、その涙は生理現象だったかも知れない。
しかしそれから後、ウサギは手を出すといつまでも小さな舌で舐め続けるようになった。

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  斜頚になった後

3匹のネコの内、一番なつかなかったネコのことを書きながら、ホームレスの若い女性のことを思った。
人を避けるには、想像に余りあるつらい経験があったとしても、人なつこい犬やネコのようだったら、もっと早く生きていける場所が見つかったことだろう。
人通りの多い駅の近くにたたずむのは人恋しくて、心の底では救いを求めているのに。

黒柳徹子が南米ハイチのカトリック病院を訪れた時のこと、エイズ患者の少女に、「売春なんかするからエイズになるのよ。もう売春なんかやめるのね」と言ったところ、少女は、「エイズになっても10年生きられる。売春しなかったら一週間で死んでしまう」と答えた。

一人のホームレスの女性のことを心配できる日本は、つくづく恵まれた国だと思うとともに、小遣いのために平気で身を売る多くの少女がいるこの国の、心の貧困を思わずにはいられない。


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若い女性のホームレス

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〈若い女性のホームレスのその後〉

日本人は死んだか」でご紹介した、若い女性のホームレスを、娘が又見かけました。
相変わらず悄然と立ち尽くし、上目づかいで、おどおどと周りを見ていたと言います。
あまりにも気の毒で、何とかできないだろうかと思い、市の保護課援助事業の担当者に相談しました。

担当の方の話では、「その女性についてはたくさんの方からお電話を頂いており、何度も足を運んでいます。しかし、その都度走って逃げ、車と接触しそうになったこともあって保護できずにいます。
会話ができれば相談に乗ったり入院させたりできますが、自傷行為をしたり法律を犯しているわけではないので、強制的に保護できずにいます。駅の職員の方も何とかしたいと接触されていますが逃げられてしまい、残念ながら保護できません。これからも努力します。幼く見えますが未成年者ではありません」との話でした。

意外な話でしたが、やはり多くの人が心配していたことがわかり、日本人の優しさを知りました。
その女性に何があったかわかりませんが、心に大きな傷を持っていることでしょう。
その傷を癒せるのは愛だけです。何とかして愛を伝えられればと思います。

パウロの有名な愛の言葉をご紹介します。
クリスチャンなら知らない人はいないでしょうし、愛を語ってこれ以上の言葉はありません。

コリントの信徒への手紙 1-13章
「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 」


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魂とは何か

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フランス アミアンにて

ある方から下記のコメントを頂きました。


「・・・ところで、ずっと前から気になっているのですが、ヒトの精神()は死後どうなるのでしょう。 脳の物理的消滅と同時に無に帰すのでしょうか。
それとも、脳とは別のどこかに精神のいる場所があって、脳は精神と身体をつなぐ通信装置だと考えることも可能ではあります。

そのように考えてみると、例えば認知症や精神病になったヒトは通信装置が故障したのであって、精神は無疵のまま温存されているはずです。死後は身体(故障した脳)から脱するので、そのとき身体の制約から離れた精神()として、病を得る前のままのヒトのとなっているでしょう。

いつか私たちがこの世を去るとき、先に旅立った身近な人々との懐かしい再会があると考えてみたいのです。どうなんでしょう・・・。」



これらの問題について考えて見たいと思います。


1.意識、、心とは何か。
ドイツのマックスプランク脳研究所を経て、ある国立大学医学部で大脳生理学の教授をしている知人がいます。大変優秀な学者ですが、私の愚見に対しても耳を傾ける柔軟さと大きさを持った人です。
この方に大脳生理学から見て、何が一番の謎かを聞いたとき、言下に「意識です」と言われました。

意識(心・)は現在の科学では手がつけられない領域であり、聖書や仏典、あるいは偉大な思想家、宗教家の言葉に学ぶしかありません。

意識とは10%の表面意識と90%の潜在意識を合わせたものです。この意識をと呼びます。
心と魂(霊)は本来同じものですが、迷える魂、あるいは成仏できない魂などと言われるように、無明の中にある魂もあり、心と区別しておきます。

では、心とは何でしょうか。
人間は自分を客観的に見つめる心があるため、自分に嘘をつけません。心は意識・魂の中心に位置し、我々の思いと行いを見ています。 人間が反省できるのは心があるためです。

2.意識と脳の関係
脳をいくら研究しても、意識がどうして生じるのか分かりません。それは脳の中に意識が存在しないからです。 意識はどこにあるかを述べる前に、意識の構造について説明します。

意識は多重な円を想像して頂くと分かりやすいと思います。
振動数(波動)が粗い表面意識が一番外側にあり、その下に潜在意識、更にその内側に高次の心があります。
内側に行くほど高い振動数となり、高い次元となります。

では、意識はどこに存在するのでしょうか。
意識はエネルギーです。以前の記事、「音の世界からあの世を考える」に書きましたように、宇宙にあるものはすべてエネルギーで出来ており、振動数により相が異なっています。エネルギーの振動数が一番低くて粗いのが物質であり、高いものが意識・魂です。

意識は4次元、5次元、6次元・・・と多層構造になっており、中心には自分に嘘のつけない神の心が存在します。「神は心の中に宿る」と言われるのはこの部分です。
守護・指導霊にもレベルがあり、5次元レベルの守護・指導霊は私達の意識の5次元に存在し、私達を助け人生を見守ってくれています。

ちなみに、スピリチュアル番組で言われるように、あなたのおじいさんが守護霊をしているとか、子供が守護霊をしているなどと言うことは魂の仕組みからありえません。守護霊は、その人が生まれてから死ぬまで変わらずに見守っており、家族、親類縁者、知人の霊が、途中から守護霊になることなどと言うことはありえません。
守護霊は魂の兄弟であり、自分自身の一部です。(このことは、改めて記事にしたいと思います)

指導霊はその人のレベルや努力に応じて、ふさわしい指導霊に交代します。
意識・魂は、本来5次元以上のエネルギーとして、次元の異なる世界に存在し、光のコードと言うべきもので人体に繋がっているようです。

脳と意識の関係は、指揮者とオーケストラの関係にあたります。
指揮者がコントロールしようとしても、オーケストラが機能しなければ音楽にならないのと同様、脳に損傷があれば、意識が伝達できず障害となって現れます。

アルツハイマーも脳内の情報伝達ができない為に起こり、意識という指揮者に問題があるわけではありません。
精神疾患の場合は原因が違います。精神疾患の多くは霊的な問題によって起こっています。つまり、自分の意識ではなく、他の意識体(霊・魂)によって操られていると言えます。

・死後の世界はあるか。
意識・魂はエネルギーとして不滅です。肉体が死を迎えたとき、意識と肉体を結ぶ光のコードが切れ、魂は元いた世界に帰ります。元の場所とは、死後の世界と言うような暗い世界ではなく、光の世界です。光の世界には次元があり、魂のレベル(光の量)によってふさわしい次元に帰ります。
しかし、生前に自己中心的な人生を送った魂は、波動が低いため光の世界に戻れず、暗い世界に留まることになります。

我々の魂は三次元で輪廻転生を繰り返し、心の学びをしています。
この世は仮の世です。魂のふるさとは光の世界で、我々が肉体を去ってあの世に帰れば、先に帰っていた魂たちと再会します。
その魂たちは現在も次元の異なる世界から私たちを見守っています。


参考:高橋信次著「心の指針」 


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信ずべきこと、疑うべきこと

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スピリチュアリズムや精神世界に興味を持つ人が増えています。
既存宗教に救いや満足を見出せない人たちの多くが、精神世界の教えを信じています。
しかし、その中には危険な考え方や誘惑があり、正しい基準を持たないまま係わってしまうと、人生を棒に振る恐れがあります。そのような人をたくさん見てきました。

本物の教えを判断する基準を考えてみたいと思います。

神は金を要求しない
神は決して金を要求することはありません。お布施が少ないから守ってくれないとか、金を多く出したからご利益があるなどということはありえません。そんなセコイことを言う神なら信じるべきではないでしょう。
第一、神はいったいどこでその金を使うのでしょうか。

神は脅さない
信じなければバチが当たるとか、不幸になるなどの脅しをかける神は、信じるべきではありません。
神が創造主であれば、人間はその子供です。わが子の幸せを願わない親はいないでしょう。 ましてやバチを当てたり不幸にすることなどありえません。

神は威張らない
威張るのは自信の無さか優越感からです。ずいぶん小さな神様です。
「我はイエスである」、「我は何々菩薩である」、あるいは「何々の天使である」とか名乗って出るのは、100%偽者と言って良いでしょう。本物は決して肩書きを利用しません。

先祖の祟りは無い
自分のお祖父さん、お祖母さん、あるいはもっと昔の先祖でも、自分の子孫を何故不幸にしようと考えるでしょうか。
守ってやりたいとは思っても、祟って不幸にするはずがありません。

神は神殿に宿らない
宇宙を神が創ったのなら、宇宙全体が神の体です。いくら荘厳で立派な神殿を作ろうが、宇宙から見ればチリのようなものです。そのようなものに神が宿るとは考えられません。(それぞれの宗教を信じる人たちが集まる場所としての施設は必要でしょう。)

神は非常識なことを言わない

私達は良いことをすれば気持ちがよく、悪いことをすれば心がとがめます。自分の行いを見ているもう一人の自分がいます。このもう一人の自分は、何が正しいかを知っています。
その基準は常識です。非常識なことを信じろと教える神は疑うべきです。

過去世にとらわれない
あなたの過去世は何々だった、その過去世が影響して現在こうなっているなどと、最近過去世がはやっています。興味あることですが、証明できる何ものもありません。
重要なのは現在の生きかたです。

心の法則を説く

正しい生き方、考え方の法則を説かず、信じれば幸せになれる、金が儲かるなどと、利益ばかり強調する宗教は疑って見るべきです。

さわらぬ神に祟りなし
「心だに まことの道にかないなば 祈らずとても 神や守らん」という歌があります。
宗教を信じなくても、正しい生き方をしていれば、神は守ってくれるはずです。
平凡な生活の中に学ぶべきことは沢山あります。
うかつに霊的な世界に係わることは非常に危険です。「さわらぬ神に祟りなし」です。

不思議現象は疑う
私達は超能力や霊能力を見ると、それだけですごいと思ってしまいます。しかし、たとえ不思議な能力があっても、その人間性に問題があれば、信じるべきではありません。
ある日霊的体験をして、突然霊能力がついたという霊能者は、99%憑依されていると考えるべきです。
判断すべき基準は、その人の心と行いです。

「<肉体行では悟れない
お釈迦様は、激しい肉体行をしても悟れるわけではないと言われました。お釈迦様自身が、かつて誰も経験したことが無いほどの苦行を経験して悟れなかったのです。悟りとは、過去現在未来がわかるようになることを言い、第一段階の悟りの状態をアラハン(羅漢)と言います。お釈迦さまが悟られたのは、生まれてからの人生をすべて反省し、心を調和されたからです。
肉体行は憑依を受けやすく危険です。

死んで墓に入らない
人間は死んだら光の国に帰らなければならないのですが、自己中心の人生を送った魂は幽界に留まることになります。
未成仏霊で、死んだら墓に入るものだと思いこんだ霊は、本当に墓に入ることになります。
「私の墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」と歌う「千の風になって」は本当のことです。墓に大金をつぎ込むのは馬鹿げたことです。

物理法則と心の法則は一致している
作用反作用の法則、原因結果の法則、波動共鳴の法則、エネルギー保存の法則などの物理法則と、心の法則は同じです。現れ方が違うだけです。
悪いことを行えば悪いことが、良いことを行えば良い結果が出ます。10の行いには10の結果がでます。
その教えに科学的合理性があることが重要です。

有名な哲学者で天文学者であったカントが、「実践理性批判」の中で述べた言葉が、墓碑銘に刻まれています。
  「いや増す畏敬と驚嘆をもって、わが胸を満たすもの二つあり、
   天に星散りばめたる夜空と、わが胸の内なる道徳律」

カントが長年の探求で至った結論は、物理法則と心の法則が同じだと言う事です。
天の星が一糸乱れぬ調和の法則で運行しているように、心の法則も調和であったとその感動を述べています。

おかしいと思ったら勇気を出してすぐに離れ、疑問の無いものだけを信じるべきです。


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「ありがとう」の反対語

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ありがとう」の反対語は、「あたりまえ」だそうです。
言われてみればその通りです。

花が咲いて、新緑が萌えること、雨が降り、日が射すこと、新聞や郵便が配達されること、電気があること、車が動くこと、着る服があり、住む家があること、仕事があり、給料がもらえること、当たり前のことです。

料理を作ってくれること、洗濯してくれること、掃除をしてくれること、親に育てられること、
家族がいること、友達がいること、目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、健康であること、
生きていること、当たり前のことです。
私たちは、与えられているものが失われるまで、有難いことだと思いません。

今日の延長で明日が来て、あさってが来て、あたりまえのように一日が過ぎてゆきます。
明日になれば朝が来て、朝になれば目が覚めて、そこに家族がいるはずです。当たり前のことです。

今日一日、健康でいられたことを、「自分自身」に感謝しようとして気づいたことがあります。
「自分自身」に感謝することは出来なかったのです。
私たちは意識して呼吸をしていません、意識して消化吸収をしません、意識して体温を36度に保っていません。
心臓も肺も肝臓も腎臓も胃も腸も、それぞれが勝手に自分の役割を果たしてくれています。
協力し合って体を維持してくれています。
何一つ自分でコントロールしていません。体が勝手に生きてくれています。

「自分自身」に、有難うと言うことは、自分自身の内側にあり、自分を生かしてくれている力、体全体を調和させ、命を維持してくれている力に対しての感謝でした。
その力は、人間を、動物を、植物を生かしている命です。すべてに共通する唯一つの命です。

人間が死に、動物が死に、植物が枯れた時、その有様はすべて一様です。
生けるものに宿る命、その命が失われた生と死の様は、すべて一様です。
その命を神と呼ぶとすれば、私たちの中に神が宿り、自分も他人も、犬も猫も、木や花も、すべてが神の命を生きています。

太陽の光や空気や水は、命を維持するために欠かせないものですが、あまりに当たり前に与えられているため、それに感謝することはありません。
私たちは無数の「有難い」ことを与えられて生きています。

昔の日本人が、今在ることはあたりまえではない、こうして生きていられることは得がたいことであると考え、「有難い」と言い慣わした言葉には、深い叡智がありました。

私たちの心から感謝や愛の心を奪う危険な無意識、「あたりまえ」を無くすために、いつも「有難う」を意識したいものです。