日本人は死んだか

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角館伝承館のつつじ 角館観光協会


娘が地下鉄の駅で若い女性のホームレスと会いました。最初、後ろから見た時は、50歳位だろうと思われたのが、切符を買って振り返ったところ、そのホームレスは二十歳過ぎの女性でした。足は裸足で真っ黒で、その姿に思わず涙が出たと言います。


その話を聞き、二十歳過ぎの若い女性が乞食に身を落とすまで、どれだけつらい経験をしたのだろうか、あるいは、路頭に迷い救いを求めた時、誰も救けてくれなかったのだろうかと、暗澹たる思いになりました。


中年以上の人が人生に敗れ、希望を失い、ホームレスに身を落とす光景はめずらしくありません。それは悲惨なこととは言え、その人たちにはそれに至る人生の戦いがあったはずです。しかし、二十歳過ぎの、人生を始めたばかりの女性が希望を失い、生きることを放棄するなど、かってこの国にはなかったでしょう。


生まれ育った厳しい環境の中で、たとえ犯罪に手を染めることがあっても、希望と尊厳を失わない限り、道は開けるでしょう。しかし乞食になることは、希望を失い、価値観を失い、人間としての尊厳を捨てたことであり、生きる意味を失ったことになります。
いや、そうではなく、すべてを捨てたと見えるこの女性も、心の中には捨てきれない大事なものがあるはずです。それは愛だと思います。もし無償の愛がこの女性の心に届けば、希望が生まれ、人生は生きるに値することに気づくはずです。日本人はきっと彼女を見捨てないと思います。


今から30年位前にユダヤ教のラビ(長老)である、マーヴィン・トケイヤー氏が書いた、「日本人は死んだ」という本があります。衝撃的な題名ですが、トケイヤー氏はこの本の前書きに、「最近数年、ますます募る私の日本に対する友情と敬意、日本そのものの中で失われようとしている日本的な認識や評価を惜しむ気持ちを著書として世に出した。それは日本人に対する私の心を込めた忠告であり、祈りでもあった」と書いています。


トケイヤー氏は、勤勉で和を尊び、親に対する愛、師に対する尊敬、友に対する信義、己に対する慎みなど、謙虚で心豊かな日本人の生き方に、人間の理想を発見しました。そしてそれを日に日に失う日本人への限りない愛惜を込めてこの本を書いています。
それから30年、日本人は死んだのでしょうか。


フランスに在住されているparismidoriさんから、「敵国に尊敬される武士道」の記事にコメントを頂きました。日本を客観的に見たご意見ですので、勝手ながらご紹介させて頂きます。

「こんにちは。おくればせながら、前回、今回の記事をじっくりと読ませていただき、まず感動いたしました。そして、嬉しく思いました。 フランスの人も日本人とみると、時折、サムライ、ブシ、ゼン(禅)などの言葉を投げかけてきますが、恥ずかしながら私にはその心がはっきりとはつかめずにおりました。
また、以前にこちらで扱われた桜の花を愛でる歌の特集にも同じように感動しましたが、一方、その眼差しの深さ、情緒なども現代日本からはどんどん薄れているような気がしてなりませんでした。
どうやら今の日本では、美しいもの、善なるもの、美徳なるものを茶化したり、真面目であることが馬鹿にされがちとも聞きますが、それはとても残念なことだと思います。
海外にいれば、そんな日本でも、その仕事ぶりは依然として正確で丁寧、責任感や勤勉さの優位は明らかです。 まだ遅すぎないと思います。深遠な精神性とともに、日本人の誇りを次の世代にも伝えられたらと心から願います。略」


parismidoriさんのおっしゃるように、 日本人の心を次の世代に伝えなくてはなりません。まだ間に合います。
10年近く前、名古屋で起きた水害のボランティアに参加したことがあります。そこには驚くほどの数の金髪や茶髪の若者たちがいて、一所懸命に働いていました。
日本人の中に眠る美しい心、優しい心が、人々の困難の中で目覚めることを知りました。
希望は残されているはずです。


(追記)
今回の記事は内容を大幅に削除してアップしました。削除した部分は、日本人がなぜ心を失ったのか、あるいは日本の家族制度や社会がなぜ崩壊したのか、その原因はどこにあるかというもので、戦後の日本占領政策に係わる部分です。この部分を書き始めるとブログの方向性が変わって行くと考え、削除しました。
戦後占領政策で行われた「日本弱体化計画」は、それを立案した一人で、ルーズベルトのブレーンでユダヤ教のラビである、モルデカイ・モーゼ氏が書いた、「日本人に謝りたい」という本に詳しく書かれています。

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敵国から尊敬される武士道ー工藤中佐(2)

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週刊新潮12月18日号誌面

戦後教育を受けた多くの人がそうであるように、私も「君が代」が歌えず、戦前の日本のすべてが悪かったと考えていました。しかし、あるきっかけで過去の日本を否定する戦後教育の過ちを知り、日本人が失った精神の偉大さを痛感するようになりました。
無論、すべてを美化すべきではなく、多くの過ちがありました。しかし良いものは良いと認め、それを継承する冷静な判断力を失ったことが、現在の日本の価値観の喪失と混乱に繋がっているのだと思います。

工藤中佐のエピソードが最近まで知られていなかったように、精神性の高い多くの無名な日本人が、この国を築いてきました。過去形で言わざるを得ないのが残念ですが、誇るに足る民族であったと思います。

承前
ーフォール卿の人生を変えた工藤中佐とは、どういう人物だったのですか。
恵 「工藤中佐は明治34年、山形県の農家に生まれました。軍人になろうと決意したのは、小学校3年生の時に、広島湾(注:岩国港沖)で起きた第六潜水艇の沈没事故が大きなきっかけでした

この時、艦長の佐久間勉大尉は、酸素が消耗していく艦内で、天皇陛下に対して事故の責任を詫び、「部下の遺族をして窮する者なからしめ給わんことを」という遺書をしたためたのです。
(佐久間艇長については過去の記事「忘れられた日本人ーこんな日本人がいた」をご覧下さい)


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第六潜水艇の沈没現場を望む

佐久間大尉の遺書は、工藤中佐が通っていた小学校でも校長の訓示と共に伝えられました。これにいたく感動した工藤中佐は、担任の教師に、「農民でも海軍士官になれますか」と聞きます。
「もちろんなれる」という返事に勇気を得た工藤中佐は、地元の米沢興譲館中学に入学するために猛勉強を始め、その目標の第一歩を歩むのです。

米沢興譲館は藩政改革で有名な上杉鷹山が創設した藩校で、そこは伝統的な武士道教育が行われていました。工藤中佐は海軍士官なるべく志を固め、大正八年、当時超難関とされた海軍兵学校に入学しました。

ー青雲の志に燃えていた。
身長180センチを超える巨漢で柔道は相当の腕前でしたが、ただ人間的には無口なおっとりとした文学青年だったようですね。温厚で強さを表に出すことをしない。細かいことには一切口を出さないが、締めるところは締めるというように、硬軟を使い分ける明治の海軍軍人を彷彿とさせる人間ではなかったかと私は思っています。
海軍兵学校時代、工藤中佐の人格形成に大きな影響を与えたのが、入校時の校長、鈴木貫太郎中将(当時)ですね。

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 鈴木貫太郎

ー終戦時の総理ですね。
そうです。鈴木校長の教育方針は武士道でした。工藤中佐が薫陶を受けたのは半年間でしたが、この間、鈴木校長は武士道に基づき、従来の教育方針を大転換するのです。その一つが鉄拳制裁禁止、つまり下級生を暴力で屈服させてはならないという教えでした。

実際、工藤中佐ら兵学校51期生は、この教えを忠実に守って鉄拳制裁を行わなかったばかりか、下級生を怒鳴りつけることもなく、自分の行動で無言のうちに指導したといいます。私はここに武士道の原点を見る思いがします。

ー駆逐艦「雷」でどのような艦長として見られていたのですか。
周囲から大仏と呼ばれるくらい、やはり普段はおっとりとして身辺を飾ろうとしなかったようです。
その指揮の仕方は駆逐艦長としてはかなり型破りで、着任の訓示も、「本日より本艦は私的制裁を禁止する」というものでした。
それに日頃から仕官、下士官に対し、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱ってはならない」と、口癖のように言っていたといいますね。
見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違って報告した時も、「その注意力は立派だ」と、逆にほめたといいますから。

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駆逐艦「雷」(Wikipediaより

ー艦を率いるには」、やさしさだけでなく厳しさも必要ではないのですか。
工藤中佐について調べるにあたって、私が疑問だったのは、「もしかしたら戦闘意欲が乏しかったのでは」ということでした。
しかし工藤中佐は戦闘指揮官としてもかなり優秀だったのです。彼は艦長時代、敵潜水艦から合計5回の雷撃を受けていますが、全部回避して生還し、うち3回は相手に反撃して撃沈しています。それだけ卓越した戦闘指揮能力をもったリーダーだったのです。

武士道というと強さばかりが強調されがちですが、工藤中佐は強さだけでなく、それと同じくらいの深い温情を持っていたのではないでしょうか。

こういう逸話がありましてね。
海軍艦船では士官食堂と兵員食堂では食事の内容がかなり違っていました。もともとサンマ、イワシなどの光り物が好きな工藤中佐は、士官食堂で出たエビや肉料理を皿ごと持って、草履をパタパタさせながら兵員食堂にやってきて、「おーい、誰か交換せんか」と言ったというのです。艦長といったら水兵たちにとっては雲の上の存在でありましたから、このような型破りの行為は他の艦船ではありえない話でした。

このほか士官兵の区別なく酒を酌み交わしたり、兵の家庭が困窮している事情を耳にすると、下士官に命じて、その兵が家庭に送る送金袋にそうっと、自分の俸給の一部を差し入れたという話も残っています。
工藤中佐着任後二ヶ月もすると、「雷」の乗組員は中佐に感化され、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになります。

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ー英兵の救助活動で、その総合戦力が見事に発揮されたのですね。
まさにそのとおりです。敵潜水艦が行動する海面で、長時間、艦を止め救助に当たるのは、この上ない危険な行為です。しかも救助する対象は敵兵です。それを決断した工藤中佐も立派ですが、その英断を信じ、危険を承知で救出にあたった「雷」乗員の努力にも心を打たれずにはいられません。

救出時には様々な逸話があります。浮遊木材にしがみついていた重傷者が最後の力を振り絞って艦まで泳ぎ着き、救助用の竹竿に掴まると同時に安心したように水面下に沈んでいくという光景も多く見られました。

甲板上の乗組員たちは涙声になって、「頑張れ、頑張れ」という声援を送る。そのうちに、これを見かねた水兵が独断で海中に飛び込み重傷者の体にロープを巻き付ける。続いて二人の水兵が飛び込んで救助に当たる・・・。そうなるともう敵も味方もありません。国籍を超えた海軍独特の仲間意識がそこに芽生えるのです。

工藤艦長はさらに遥か遠方に漂流するたった一人の敵漂流者を発見しても決して見捨てず、乗組員総出で救出した。そして救助した彼らに自分たちの貴重な飲み水や食料、衣類を与えて手厚くもてなす。これを武士道精神と言わずして何というのでしょうか。

ーその後の工藤中佐についてお話ください。
工藤中佐は「雷」艦長としての任務を終えた後、駆逐艦「響」の艦長などを務めました。戦後は奥様と二人、故郷の山形に帰り、庭師として生活しました。その後、奥様の姪が埼玉県川口市に医院を開業すると、工藤中佐は事務員として、奥様は賄い婦として働き、昭和54年に78歳で亡くなるのです。子宝や地位、金銭に恵まれることもなく、戦後ひっそりと生き、人知れずその生涯を閉じるわけです。

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ー自分の功績は誰にもはなさずに。
日本の職業軍人に対する評価は戦後180度変わりましたしね。それに「雷」はその後、撃沈され乗組員全員が散華(さんげ)されました。工藤中佐はこれに心を痛め、兵学校のクラス会に顔を見せることもなく、毎朝戦死した部下たちの冥福を祈るのが日課だったそうです。
そこには大業を成しながら、己を語らず、黙してこの世を去った男の美学を見ることができます。

しかし、私は工藤中佐の生涯は、今の日本人に大変なものを残したと思うのです。それは、日本人が失ってしまった武士道精神、誇りというものです。さらにこれを今回、旧敵英国海軍士官によって、逆に日本人が教示されたのです。

残念ながら現在、社会の指導的地位にある我々戦後世代には、欧米のエリートが当然堅持している愛国心や使命感が希薄です。このままでは日本は衰退し、さらに国際社会で孤立していくことでしょう。工藤中佐が示されたリーダーシップや勇気、さらには自己犠牲の精神こそ学校教育に早急に取り入れるべきです。」

参考記事:
フォール卿特集
博士の独り言


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敵国から尊敬される武士道ー工藤中佐(1)

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    工藤俊作 中佐

このブログで何回かご紹介しています、「致知」という月刊誌があります。このような雑誌が存在すること自体、日本人の心が死んでいない証とさえ言える雑誌です。

3月号に、「仇敵に師と仰がれる日本人の生き方」と題して、ジャーナリストの恵隆之介さんのインタビュー記事が載っています。

昭和17年、スラバヤ沖海戦でイギリス艦船が撃沈され、多数の将兵が海に投げ出されました。
そこに一隻の日本の駆逐艦が通りかかりました。「雷(いかづち)」です。敵潜水艦が多く潜む中、艦長の工藤俊作は、「敵兵を救助せよ」と命令し、乗組員の約2倍の422人の敵将兵を助けました。
工藤中佐のこの行為は、英国海軍将校の魂を揺さぶり、真の武士道と言われました。

この事実は最近まで知られていませんでしたが、テレビの『アンビリバボー』でも紹介されたようです。
以下、恵隆之介さんのインタビュー記事です。

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  恵 隆之介さん

恵「平成15年6月、NHKラジオの「ワールドリポート」を聴いていて、私は身震いするほどの感動を覚えたのです。それはロンドン発のリポートでした。リポーターは、「このような美談が、なぜ日本で報道されなかったのだろうか」と興奮した口ぶりで語っていました。
番組に情報を提供したのは元海軍大尉で、後に駐スウェーデン大使などを歴任した、サムエル・フォールという元外交官でした。

ー工藤中佐に命を救われた一人だったのですね。
「はい。番組はフォール卿の次のような話を報じていました。
その時、400人以上の将兵たちは24時間近くジャワ海をボートや木板に乗って漂流しながら、皆すでに生存の限界に達していたと言うのです。
中には軍医から配られた自決用の劇薬を服用しようとする者もいました。

そういう時、目の前に突然駆逐艦「雷」が現れる。これを見たフォール卿は、「日本人は野蛮だ」という先入観から、機銃掃射を受けて殺されると覚悟を決めたといいます。ところが、「雷」は直ちに救助活動に入り、終日をかけて全員を救助した。

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    漂流するイギリス兵

フォール卿がさらに感動したのはこの後です。重油と汚物にまみれ、弱りきった将兵を帝国海軍の水平たちが抱えながら服を脱がせ、汚れを丁寧に洗い流し、自分たちの被服や貴重な食料を提供し、友軍以上に厚遇しました。
さらに工藤中佐が英国海軍士官を甲板に集めて敬礼し、「私は英国海軍を尊敬している。本日、貴官たちは帝国海軍の名誉あるゲストである」と英語でスピーチしたというのです。

ー感動的なお話ですね。
フォール卿も、「奇跡が起こった」「夢を見ているのではないか」と思って自分の腕をつねったと語っていました。そして最後に工藤中佐のこの行為を、「日本武士道の実践」と絶賛していたのです。

戦後生まれの私は、大東亜戦争中、日本は悪いことばかりしたという自虐史観の中で育ちました。
それだけにこの証言を聞いて言葉にならないほど感動を覚えました。
「ああ、自分が思っていたとおり、帝国海軍はやはり偉大だったのだ。これぞまさしく真の武士道だ」と。
文筆活動を通して、後世のためにもこの史実と工藤中佐のことを書き残さなければならないという使命感が、この時沸いてきたのです。

ー顕彰の動きはどのように進んだのですか
私はすぐにでもイギリスに飛んで、この老紳士に会いたいという思いに駆られました。フォール卿について調べていたところ、この年の10月に来日するという情報が入りましたので、横須賀で会っていただくことにしたのです。

ー印象はいかがでしたか。
すでに84歳という高齢でしたが、やはり本物だと思いました。心から工藤中佐と帝国海軍に感謝し、その姿勢を高く評価していました。帰国後、自伝を送ってくださったのですが、その本を開いて驚きましたね。巻頭に「この本を工藤中佐に捧げる」と記されているじゃないですか。

フォール卿と工藤中佐が同じ艦に乗っていた時間は、救助されオランダの病院船に引き渡されるまでのわずか二十時間ほどです。しかし当時20歳の彼にとって工藤中佐は、人生を変えるほどの影響力を与える人物となったのです。

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 救助されたイギリス兵                            フォール卿

ー忘れられない出会いとなった
実はフォール卿が来日したのには意味がありましてね。彼は戦後ずうっと工藤中佐の消息を探していました。しかし昭和62年、その8年前に中佐が他界していたという事実を知るのです。高齢でありながら来日を決意したのは、人生の締めくくりとして艦長のご遺族に感謝の意を伝え、中佐の墓前に参じたいという思いがあったからです。
しかし、残念ながら当時ご遺族の消息は分からず、その願いを果たすことができませんでした。そこで彼は「墓参もしたいし、艦長のご家族や「雷」の関係者に会ってお礼がしたい。是非力をかしてほしい」と私に頼んだのです。

ーご家族の消息はつかめましたか。
最初は難航しました。昭和59年に」亡くなったことは分かっていましたが、子孫に恵まれず家系は絶えていたのです。しかし数少ない「雷」の関係者を捜し当て、その一人の協力で、フォール卿と出会って三ヶ月後にようやくご遺族とお墓を突き止めることができました。
それを知らせた時のフォール卿の嬉しそうな声が今も耳に残っています。

ーフォール卿と恵さんとのお付き合いはその後も続くのですね。
翌年、私は返礼の意味を込めてイギリスにフォール卿を訪ね、工藤中佐について取材をしました。
フォール卿は心から喜び、戦友お二人をご夫妻で招いてパーティーを開いてくれました。
私はそこで日本の戦後の自虐史観を批判したところ、彼らは共感し、同時に工藤中佐に関する多くの情報を聞かせてくれました。

ただ帰り際、「貴君は武士道について知っているか」と質問された時、ハットしました。お恥ずかしながら、私は武士道とは単なる腹切だと思っていたからです。そしたらフォール卿は得々と話を始めました。
「武士道は日本人の道徳の規範だった。そして戦いにおいては、勝者は敗者の健闘を称えいたわることが武士道の基本である」と強調されたのです。

その説明を聞きながら私が痛感したのは、「武士道」という言葉を排斥し、日本人から誇りを奪ってきた戦後教育についてでした。
工藤俊作という実例を通して武士道というものを、この日本に甦らせることもまた自分の使命だという思いを私は強くしたのです。

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ーその後、フォール卿の墓参の夢はかなったのですか。
積年の願いがようやく実現したのは、昨年(平成二十年)十二月、ほんの最近のことです。

ーよろこばれたでしょう。
もちろんです。嬉しいことに、この時は政財界の有志を中心とする海軍中佐工藤俊作顕彰会が発足し、フォール卿を歓迎することができました。

ーフォール卿はご自身の思い出をどのように語られましたか。
式典を終えた後、私の手を握りながら、「人生最大の恩師の墓参を果たし、また日本の皆さんに対してスピーチができた。いま自分は人生最高の幸せを味わっている」と、感極まった様子で話してくれました。89歳で積年の願いを果たされた心中を思うと、私も胸がいっぱいでしたね。」

工藤俊作中佐の生い立ちや人となりにつきましては、次回ご案内します。
人は美しい花や風景を見て感動するように、美しい心と行いに感動するように作られています。
自らの魂が本来持っている真なるもの、善なるもの、美なるものが共鳴するからでしょう。
この内在された魂の崇高さは、真善美に触れることにより、本来の輝きを取り戻すことができるのだと思います。


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