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音の力、命の音

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土星の北極の六角形 (惑星探査衛星「カッシーニ」撮影)

上記の写真はNASAとヨーロッパが共同で打ち上げた惑星探査衛星「カッシーニ」が撮影した土星の北極の写真です。奇妙な六角形が北極を覆っていることが分かります。この六角形はどうしてできたのでしょうか。

下記の動画をご覧ください。7角形が変化する様子です。



良く聞くと音が聞こえ、その周波数の微妙な変化に応じて7角形が変化しています。(You Tubeでは音の変化が良く分かりません) つまりこのパターンを形作っているのは音なのです。土星の北極にある六角形も、土星が発している固有の周波数によって大気が六角形に形作られていることが分かります。
音が作り出す形のことを総称して「サイマティクス」と呼びます。

音の力を最初に研究したのは、ドイツの科学者・エルンスト・クラドニでした。1800年代初頭、彼は薄く砂をまいた皿のそばでバイオリンを弾き、砂が幾何学模様を描く事で、音が物体を動かすことを証明しました。 クラドニ図形と言います。

スイスの科学者・ハンス・イェニーは、薄い金属板上にさまざまな周波数の音を発生させ、液体、固体、粉体などに周波数が与える影響を実験し、「トノスコープ」を使って映像化しました

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スイスの科学者  ハンス・イェニー               トノスコープ               

ハンス・イェニーの実験を通して、音には「形を作る力があり」、「形に動きを与え」、「形の変化に周期性を与える」ことが分かりました。この分野の科学研究は、日本では全くと言って良いほど行われていません。上記の土星の六角形の意味も理解されていないと思います。

サイマティクスは医学の分野で大きな進歩を遂げました。
イギリスのサー・ピーター・ガイ・マナー博士は人体の臓器や部位、組織にも固有の振動数・周波数があると考え、30年以上かけて、臓器や骨、神経、症状など、3500以上の周波数を特定しました。

そして病気や不調を起こしている部位は、本来の健康な周波数が乱れており、乱れた部位に本来の周波数を共鳴させて元の周波数に戻せば、健康になることを発見しました。
これが「サイマティクス・セラピー」です。
マナー博士は新生児黄疸の治療に使われている、「青色光線療法」の開発者として知られています。



サイマティクス・セラピーの開発者マナー博士

日本で開催されたサッカーワールドカップの折、骨折で参加できないと言われたベッカムが突然来日して活躍しましたが、この時ベッカムは全治3ヶ月の骨折をサイマティクスで治療し、1ヶ月程度で治したと言われています。

サイマティクス・セラピーは、WHOでも手術や投薬に依らない代替医療として認めています。そして医療分野における研究は日本が最も進んでいるだろうと思います。
現在日本では、内科、外科、産婦人科、心療内科、歯科、動物病院、鍼灸、整骨・整体、エステなど、150ヶ所以上でサイマティクスが使われています。とは言え、サイマティクス・セラピーはまだほとんど知られておらず、採用している医療機関は僅かで、保険の対象になりません。

心療内科、メンタル・セラピーで使われるサイマティクスの音の中に、バッチフラワーの音があります。これはバッチ・フラワー・レメディーで使われる花や樹木の香りを周波数に変換したもので、ストレスやトラウマ解放に効果を発揮しています。

量子力学から見れば、すべての物質、すべてのエネルギーに固有の振動数があり、音の研究は新しい科学の体系を作りだすことができると思われます。

日本サイマティクス・セラピー研究会



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こころの教えー東井義雄

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東井義雄 (とういよしお)氏

先日ご紹介した㈱タニサケから、「ー東井義雄伝ーほんものはつづく つづければほんものになる」(村上信幸著)という小冊子が出ています。

東井義雄先生は、明治45年に兵庫県豊岡市但東町で生まれました。檀家が9軒しかない、日本で一番貧しいと言われるほど極貧の寺の長男として生まれため、大変な苦労を重ねて教員になり、数々の功績を残されました。ペスタロッチ賞、文部省の教育功労賞などを受けられ、逝去後は従五位に叙されています。(東井先生の功績からすれば外面的なことですが)

東井義雄先生のこころの教えと言う本に書かれている話をご紹介します。

「広島県のある高等学校の話です。水泳大会のプログラムの中に、学級対抗のリレーが組まれました。ある学級で、4人の選手の中、3人はすぐ決まりましたが、4人目でもめました。その時、いじめグループの番長が「Aにでてもらおう」と叫びました。「そうだ、そうだ」と取り巻き連中が賛成してしまいました。
Aさんは小児麻痺の女生徒で、とても泳げる体ではなかったのです。でも、彼らの恐ろしさを知っているみんなは、それに抗議することができませんでした。

いよいよ大会の日、Aさんが泳ぐ番になりました。1メートル進むのに2分もかかりました。まわり中からバカにした笑いとののしりの声が浴びせかけられました。
その時、背広のままプールに飛込んだ人がありました。そして「つらいだろうが、がんばっておくれ。つらいだろうが、がんばっておくれ」と、泣きながらいっしょに進み始めました。校長先生でした。

冷たい笑いとののしり声がピタリとやんで、涙の声援に変わりました。
Aさんが長い時間をかけて二十五メートルを泳ぎぬき、プールサイドに立ち上がったとき、先生も生徒も、いじめグループのみんなも、一人残らず立ち上がって、涙の拍手をおくり、Aさんをたたえました。

その学校のいじめは、そのときからピタリと姿を消しました。校長先生が、Aさんの輝きをみんなに気づかせ、目覚めさせてくださったのです。」


以下は、ある教師の東井先生に対する思いを述べた文章です。

「ある日、締め切りの迫った論文の原稿を徹夜で書き上げ、「今日こそは東井先生に見てもらって発送しよう」と、張り切って登校しました。二時間目の休み時間に校長室へ行ってみましたが姿が見えません。教頭先生に尋ねても「さあ、どこへ行きはったんか知らんで」と言われます。

何度も何度も校長室をのぞきに行きました。何度行っても姿が見えません。私はだんだんイライラしてきて、「行き先ぐらい、ちゃんと言ってでればいいのに」と悪口をつぶやいていました。

昼休みも、午後も、放課後もおられません。とうとう帰る時間になっても東井先生の姿は見えませんでした。「今日、この原稿を送らないと、締め切りに間に合わないし、どうしよう」とイライラをつのらせ困り果てました。

ちょうどそのころ、妻が八鹿病院に入院していたので、私は病室から学校へ、学校から病室への生活をしていたのです。その日の夜、病室に入ると妻が「お父ちゃん・・・」と言って泣きながら私を見つめるのです。

「何だ?何があった?」と尋ねても、涙にむせんでなかなか話せないのです。やっと「今日、東井先生がお見舞いに来てくださって、一日中看病してくださったんです・・・・」「みんなの大切な校長先生です。看病していただくのは有りがたいですが、私などが一人占めするわけにはいきません。どうか学校に帰ってください」と、何度もお願いしたのですが、「学校はお父ちゃんたちが、きちんとやってくれているので心配せんでもええで・・・」と言って、午後もずっと看病をしてくださったと言うのです。

妻は大手術をした直後でしたから、背中に手を入れて持ち上げるようにしていないと、絶えず激しい痛みが襲ってくるのです。前の夜は私は論文を書きながら、何度も手を入れて背中を持ち上げ、その為に首も肩もパンパンに張っていました。

妻の背中には空気枕を入れて出勤したのです。東井先生は「お父ちゃんの代わりは出来んけど・・・」と言いながら、一日中妻の背中に手を入れて持ち上げ、痛みをやわらげていてくださったと言うのです。私は体中が硬直して、ガタガタ震えが止まらなくなりました。

一日中、東井先生の悪口を言い、腹立ちを募らせていた情けない自分、そんな私のために、妻のために東井先生は、その大切な時間を使って、骨の折れる看病をしてくださっていたのです。
・・・略・・・

東井先生の、限りない愛のいのちに出合い、いつの間にか、私と妻は手を取り合って泣いていました。それからは、私はもとより家族みんなが、東井先生をかけがいのない「人生の師」として仰ぐようになっていったのです。

東井先生の慈愛の光に突き動かされ、光を持たない私も、少しずつ光り始めました。」
・・・略・・・


学生時代、私も教職課程を取りました。無味乾燥な教育概論を、何の興味も持たず聞いていました。もし当時、東井先生の著書を読んでいたら、教育の可能性と重要性を知り、教員になっていたのではないかと思います。
教育とは理想を語り、情熱を傾けて、子どもたちの命を輝かすことであると、あらためて教えられました。




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ならぬことはならぬ

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会津藩「什の掟」

岐阜に株式会社タニサケという会社があります。すばらしい社風の会社で社員教育も立派です。社内の提案制度での改善は日本一と言ってよいかも知れません。その結果として高収益をあげており、全国から見学者が絶えません。

この会社が定期的に心の教えについて講演会を主催され、その講演録が小冊子になって販売されています。その中からエピソードをご紹介します。

坂西輝雄先生(元群馬県教育長)講演「今、こころの時代に」ー豊かな心への道ーより

・・・新潟県の高田市(今の上越市)でPTA会長をされていた戸羽さんという方の子育ての話です。

「私の長男は敏雄といって、今、高校三年生ですが、小学校三年生か四年生のとき、1月末の粉雪のちらつく寒い夕方でしたが、私が外出先から帰ってくると、妻から、敏雄が仏壇の前にあった金の一部を持ち出して使ってしまったと聞かされたのです。

私はすぐ敏雄を呼んで、「いいか、おまえがしたことがどんなに悪いことか、お父さんが教えてやる。これからおまえに水を5杯かける。しかし、おまえがそういう悪いことをしたのは、おまえが悪いだけではない。そういう悪いことをさせたお父さんにも責任がある。だから、お父さんも水を5杯かぶる」と言いました。

妻が泣いて止めるのも聞かず、パンツ1枚になった敏雄と私は粉雪の舞う庭に出ました。まず私が、身を切るような池の水をバケツで5杯かぶる。その姿を、目に涙を流しながら、そのとばっちりを避けようともせず、ぶるぶる震えて立っている息子を見たとき、この時ほど、この息子は、おれの血を分けた大事な息子なんだと実感をもって胸に迫ったことはありませんでした。

平生、トランプをしたり、キャッチボールをしたりして遊んでいるときも、自分の息子だと感じていたことにかわりはありませんが、私のバケツの水しぶきが自分の体に跳ね返ってくるのに、避けようともせず、たらたら涙を流してじっと見つめている息子の顔を見たとき、この子は自分の血を分けた大事な息子なんだ、と実感として受け止めたことはありませんでした。

それから心を鬼にして、息子に三杯、水をかけたら、息子はすくんでしまいました。あとの二杯は半分ぐらいにして、数だけ約束どおり5杯かぶせると、私は、息子を横抱きにして風呂場に駆け込みました。そして、乾いたタオルでごしごしと息子の体を拭いてやったのですが、そしたら、息子が、わきのタオルで私の腹をなでているのです。私は思わず息子を抱いて、男泣きに泣いてしまいました。
それからというもの、敏雄はまちがっても、自分の金でないものには、投げておいても手を触れない子になりました」

三百年ほど前、会津藩に「什(ジュウ)の掟」という、子どもの掟がありました。
藩全体で子どもにこういう「しつけ」をしたと言います。

一、年長者の言うことにそむくな。
二、年長者には、おじぎをしなさい。
三、うそを言うな。
四、卑怯なことをするな。
五、弱いものをいじめるな。
六、外でものを食べるな。(今の時代、通用しませんが美意識だと思います)
七、外で女の人と話をしてはいけない。(今の時代、通用しません)
八、ならぬことは、ならぬものです。

ーならぬことはならぬと、自信をもって言い切った会津藩の大人の権威が、そのまま生かされているかのような感動を覚えます・・・。



親が身をもって教えること、子供にも身をもって覚えさせることは、教育の重要な方法であるはずです。
スポーツの世界では当たり前のこととして受け止められるのに、教育の世界では体で覚えさせることを否定する甘やかせの風潮が、今の日本を作っているのではないでしょうか。


参考:会津藩校日新館」 「什の掟





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