明日という日

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あっという間に三が日も終わり、新しい年も日常になってきました。

「目出度さもちゅう位なりおらが春」
一茶の自嘲的な句に違和感が無くなったのは、自分が歳をとった証拠でしょう。

日本が高度成長期にあった時、
「明日と言う日は明るい日と書くのよ」という歌がはやりました。

誰もが明日は今日より良くなると信じていました。
辛いことがあっても我慢して努力すれば報われると信じることのできる日々でした。

いつかもう一度そんな日本になってほしいと思います。

思い通りいかないと国のせいにしたり、人のせいにするのがあたりまえになっています。
まず自分に原因があると考えることによって、人も社会も進歩するはずです。

あしたと言う日を明るい日と書いた先人の知恵と感性に敬服します。


不幸は突然やってくるのだろうか

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病気や事故など、人の不幸がいつも突然やってくるのはなぜでしょうか。
二人の知人が癌に冒され、一人がこの世を去ったことでそのことを思いました。

一人は以前の記事「心に従って生きる」で紹介したことのある人物で、健康そのものの人でした。北辰一刀流の免許皆伝で少林寺拳法の有段者、スキーの腕前はプロ級でスイスの山岳救助隊員の資格を持っていました。
タバコも止めて健康には何の不安もないように見えたのでしたが、膵臓ガンが発見された時には手遅れで、ついに回復することはありませんでした。

もう一人の知人も癌が発見されるまでまったくの健康でした。舌に違和感を覚え、検査の結果ステージ2の舌癌でリンパにも転移していました。

舌癌の宣告を受けた本人のショックは想像に余りありますが、この人は舌癌を前向きに受け止めることができました。
自分が舌癌になったのは、不平不満、悪口、人の批判など、マイナスの言葉ばかりを発していたためであって、舌を癌にしてしまい申し訳なかった、そのことに気づかせてくれた舌癌に感謝すると語っていました。

その言葉が嘘ではなかったのは、舌癌患者は手術前、眠れなくて睡眠剤を必要とする人が多いらしく、医者や看護士が睡眠剤を勧めたのですが、この人は一度も睡眠剤に頼ることがく、手術の日まで淡々とした表情を崩すことがありませんでした。
その冷静さに医師たちが感心していました。

舌癌手術で舌を切った後は、多くの人が絶望を感じるようですが、術後もこの人は動揺を示すことはありませんでした。
手術後、麻酔が切れてからも全く痛みを感じず、驚くほど早く回復したことに、数百例を執刀した医師が驚いていましたが、そのことと癌に感謝すると言った言葉と無関係ではなかったはずです。
もし胃癌や大腸癌であったら、自分の生き方の過ちに気づくことはなかったかもしれません。舌癌に感謝するという言葉はそのことを意味していたのでしょう。

幸福は突然やってきません。
勉強しないで難関大学に受かることはないし、なまけものの社員が業績をあげて出世することはありません。スポーツで結果を出すには厳しい練習が必要です。
三次元の成功や幸福はその努力の結果であり、善因には善果が、悪因には悪果がもたらされます。

では不幸は突然やって来るのでしょうか。
病気という結果は、生活習慣や体質の問題点が一定期間を経て表に現れるもので、偶然ではありません。

交通事故は偶然でしょうか。
以前、「人の運命について」でポアソン分布のことを書きました。ある交差点で事故が起きる確立は、確率論のポアソン分布で表すことができます。
統計的に予測された時に予測された場所で事故が起きた時、事故を起こした人間は偶然に決まるのでしょうか。
その場所で事故を起こす可能性は、その場所を通る頻度が高い人間ほど高く、またスピードを出す人間や、注意力の衰えた高齢者の確率が高いでしょう。事故を起こしやすい車種もあります。そのようなことを総合すると、事故は偶然というより高い確率で決まっているように思います。
病気や事故は、様々な要因が積み重なり、それが閾値に達した時に現象化するのではないでしょうか。水が零度になった時、相転移して氷になるのと同様です。

幸福も不幸もすべて必然の結果であり、人が突然不幸になるように見えるのは、不幸の原因が現象化する道筋が見えないからにすぎません。
舌癌によって目覚めることが出来た知人のように、人は幸福からではなく不幸や失敗によってしか学べません。
しかし出来れば何事も無い日常の中で、どう生きるべきかを学び、自分を少しずつ変えていきたいものです。




理解されない男の優しさ

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履いていたサンダルを、裸足のストレートチルドレンの少女にプレゼントするリオデジャネイロの観光客


先だって我が家のネコに似た野良猫を、カサの先でいたずらしている子どもがいたので思わずたしなめたのだったが、少しバツの悪そうな顔をしたあどけない顔に悪気はなかった。

子どもは無邪気でありながら残酷なものだ。
思い出してみれば自分もずいぶん残酷なことをした。トンボのシッポを切って枝を差して飛ばしたり、カエルに2B弾という火薬を咥えさせ火を着けたりもした。今ならとてもそんな残酷なことはできない。

子供が残酷なのは善悪の判断ができないことや、他の命の痛みを感じる想像力が無いこと、また好奇心が旺盛なせいだろう。
人は成長するにつれ子どもの残酷さから脱却する。それは自分を客観視することができるようになるからであり、人の痛みや悲しみを自分の痛み、悲しみとする想像力を得るからだ。
自分がされたくないことは人にしてはいけないということに気づくことが社会生活の第一歩となる。

ところで男と女のどちらが残酷だろうか。一般的には男のほうが平気で残酷なことをするように思えるし、事実残酷な事件は男によって行われることが多い。
しかし夫婦の間においては女の方が残酷なことがよくある。
女房と口げんかして勝てる亭主はいない。なぜなら、男はこれ以上言ってはいけないことは言わないのに、女はそれを平気で言う。
それに対する反論は言ってはいけないことに属するので男は沈黙するしかない。女はその優しさに気づくことなく勝利宣言する。
自分がされたくないことは人にしてはいけないという黄金律を、女は亭主に対して適用しない。

藤原正彦さんの著書「この国のけじめ」で、内館牧子さんの「女は三角、男は四角」が紹介されていた。


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・・・・【たとえば結婚以来二十数年、私に会った女房の友達のほとんどが、「優しそうな人ね」と後日女房に伝えた。私は「そうか、やっぱり隠しきれなかったんだ、ボク」などと喜んでいた。ところが、内館さんの「女は三角、男は四角」という数学的な題の本にはこう書いてある。「女たちには取っておきの言葉がある。この言葉は脚が短かろうが、頭が悪そうであろうが、ファッションセンスがハチャメチャであろうが、まったく問題ない。どんな男にもピタリとハマるほめ言葉があるのだ。『「優しそうな人ね』これである。」

さらに追い打ちをかけてこう書く。「もしも、これを読んでいる男性読者が、妻か恋人から、『友達があなたのこと、優しそうな人ねって言ってたわ』と伝えられたら、それは『ほめようのない男』ということに等しい。」 ウルサーイッ。】

そうだ! ウルサーイッ。




天才の栄光と挫折

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  さくら花 おそしと待ちし世の人を 驚かすまで咲きし今日かな  樋口一葉


渋谷区が同性カップルをパートナーとして公的に認めることになった。世田谷区も検討しており、この流れは加速するだろう。
その事が良いことなのかどうかわからないが、天才数学者アラン・チューリングが今の時代に生きていれば、不幸な人生の終末を迎えることはなかった。

「イミテーションゲーム」という映画が上映されている。
第二次世界大戦中、ドイツ軍が作った世界最強の暗号「エニグマ」を、天才数学者アラン・チューリングが解読する話だ。


天才の栄光と挫折―数学者列伝 (文春文庫)天才の栄光と挫折―数学者列伝 (文春文庫)
(2008/09/03)
藤原 正彦

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「イミテーションゲーム」を観たのは、アラン・チューリングに対する興味からだった。
天才数学者アラン・チューリングのことを初めて知ったのは、藤原正彦さんの「天才の栄光と挫折」という本によってであった。
暗号解読と言うトップシークレットについて、明らかな史実はほとんどわからないはずだから、映画の内容は想像によって作られたものだろう。しかしシナリオは良くできており、映画としても十分楽しめた。

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第2次大戦中、イギリスは食料や軍需物資の半分をアメリカから輸入していたが、ドイツ軍の潜水艦Uボートによって、毎月30万トン以上の船が撃沈されていた。
しかし暗号が解読された7月は12万トン、11月には6万トンに減少し、ドイツはUボート作戦を1年9カ月間中止している。

その後暗号をさらに複雑化したドイツ海軍は、1942年8月にふたたび大西洋でのUボート作戦を再開し、9月には48万トン、10月には62万トンの輸送船が撃沈され、イギリス所有の商船が無くなるほどだった。一方、撃沈されるUボートは月に数隻にとどまっていた。

この新暗号は解読に困難を極めたが、1942年の暮れに解読され、被害が急減するとともに、1943年1月から5月までに100隻近くのUボートが撃沈され、5月下旬にはUボート作戦は中止された。


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 エニグマ

もし「エニグマ」が解読されていなければ、イギリスはドイツに降伏し、第二次大戦の終結は2年遅れただろうと言われている。
そうなれば、アメリカと日本の戦いも大きく変わっていたはずだ。「エニグマ」の解読はそれほど大きな出来事であったのに、1970年頃までその事は秘せられていた。
イギリスはドイツから没収した数千台のエニグマ機を、信頼できるものとして旧植民地に使わせ、それを盗聴していたので解読の事実を伏せていたためだ。

イギリスを救い、世界の歴史に少なからぬ影響を与えた天才数学者アラン・チューリングは、戦後数学の研究に戻ることはできず、最後は不幸な結末を迎えることとなった。


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 アラン・チューリング

1952年、彼は街かどで知り合った若い男性と一夜を過ごした。その後、自宅に空き巣が入り、アラン・チューリングは容疑者として若い男の名を告げたが、一夜を過ごしたことまで話してしまった。

当時ホモセクシュアルは違法であり、彼は逮捕され有罪の判決を受けた。留置場に入るか女性ホルモン注射で性的機能を失うかの選択に対し、彼はホルモン注射を選んだ。
1954年6月、彼は青酸カリで自殺した。

2013年、アラン・チューリングに対しエリザベス女王による死後恩赦が公式に認められた。

The Independentの記事

キャメロン首相は次のような声明を出している。
「アラン・チューリングは傑出した人物であり、ドイツのエニグマ暗号を解読したことで、第二次世界大戦においてこの国を救うため重要な役目を果たしました。
チューリングの貢献は無数の人々の命を救いました。かれはまた、現代的コンピューティングの父とも称される多大な科学的業績を通じて、この国に大きな遺産を残しました。」

英国を救うとともに、機械による計算を可能にする人工知能理論を提示し、コンピューターの先駆けとなるチューリングマシンを開発した天才数学者アラン・チューリングの人生は、同性愛によって悲劇的な幕を閉じた。

生命保存という最も重要な自然法則に反していながら、キリスト教の倫理が入るまで同性愛は大した問題ではなかった。
古代ギリシャでは同性愛は普通のことだったし、日本でも戦国時代は男色が普通で、織田信長の近習森蘭丸はホタル侍と言われていた。
もしかしたら、渋谷区の決定も大した問題ではないのかも知れない。

人間は生まれる環境を自分で選んで生まれてくるはずであり、そうだとしたら性同一障害の肉体を選んで生まれて来ることにも意味があるのかも知れない。
しかしそのことを通して一体何を学ぶのだろうか。




自然に死ぬということ

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先だって老人介護施設を経営している方と話をしました。
その方の施設では延命措置を行わず、「自然死」を勧めているとのことですが、そのような運営方針に決めたのは、中村仁一さんの「大往生したけりゃ医療とかかわるな」を読んだのがきっかけだそうです。

中村仁一さんは老人ホーム「同和園」の付属診療所所長ですが、数多くの老人の死に立ち合った経験から、延命治療が患者を苦しめるものであり、自然死であれば苦しむことなく、おだやかに死を迎えられることを知りました。

「自然死」とは、老人の飢餓と脱水症状を伴う死のことです。「飢餓」の状態では脳内モルヒネ様物質が分泌され苦痛を感じなくなります。「脱水症状」になれば血液が濃くなり、意識が低下して苦痛を感じなくなります。また呼吸困難によって酸欠になれば脳内モルヒネが分泌され、さらに炭素ガスの排出が困難になれば麻酔作用が現れます。

つまり「自然死」であれば、痛みも苦しみも不安も恐怖もなく、まどろみの中であの世へ旅立つことができるようです。
「老衰死」は苦しみの無い死です。


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中村 仁一

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高齢者のガンは、発見が遅れて手遅れになっても、何の手出しもしなければ全く痛まず死んでいきます。
中村医師は、以前から「死ぬのはガンに限る」と思っていたようですが、年寄りのガンの自然死を60~70例見て、それは確信に変わったと言います。
高齢者にはガン死が一番良いと考える医師は少なくありませんが、中村医師はそのためには「ガン検診」や「人間ドック」などは受けてはいけないと言います。

現在は高齢者にも健康を求め、過剰な治療が施されます。
死を迎えようとする高齢者に対して、「鼻チューブ」により強制的に栄養を注入し、点滴で水分を補給します。チューブを抜かないように患者を縛り付けたりもします。

自然死を迎えるために体が枯れようとしているところに水分と栄養を補給すれば、体はそれを処理できず苦しむことになります。

尿が一日100cc位しか出ないのに1~2リットルの水を点滴すれば、腎臓はそれを処理できず、肺や足に溜まって行きます。体は水ぶくれになりますが、顔に出にくいため、お年寄りが苦しんでいることに家族は気づかないでいます。


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私の父が死んだ時も、足がバンバンに膨らんでいて腎臓が機能していない事はわかりましたが、それが点滴によるものだとは知りませんでした。
問題は医療従事者の多くがその事をわかっていながら、経営の為に延命措置を止めないことです。
十分生きたお年寄りに対して、苦しみを長引かせる延命行為は残酷です。

老人介護施設の中で行われている非人道的行為についてもお聞きしましたが、それは珍しいことではないようです。
認知症の老人に対して、施設によっては暴力行為が日常的に行われていて、どうして叩くのかと聞くと、どうせ覚えてないのだからという返事が返ってきたと言います。

流動食を流し込む管が汚れていた時、それを洗わずに老人の喉に刺し、管に熱い湯を流して、きれいになったと言ったのを見た時は、唖然としたと言われていました。認知症の老人は、そんな行為に対して何の反応も示さないのでしょうが、もしかしたら体が反応しないだけで意識はあるのかも知れません。

私の父を最初にお願いした介護施設では、夜間の管理が楽だという理由から、入所者に拘束衣を着せて寝させていたようです。
それを知って1週間で父を連れ出しましたが、その時の父のうれしそうな顔を見て、いかに非人間的な扱いを受けていたかを思い知りました。

知人のお母さんが入っている介護施設では、自立させるためと称してお年寄りを厳しく叱っています。
自立出来ないから施設に入っているのです。そんな施設では家族のいないところでどんな暴力行為を働いているかわかりません。

親を自宅で見取ることは極めて困難になっていますが、せめて親身になって介護してくれる施設を選びたいものです。
それが最後の親孝行ですが、人が一生を終えることの難しさを痛感する現在です。





花子と白蓮

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NHKの朝の連続ドラマ「アンと花子」は、「赤毛のアン」の翻訳者村岡花子が主人公ですが、花子が歌人の白蓮と親友であったことは知りませんでした。
ドラマの中で、花子の友人である伯爵家の葉山蓮子が、年の離れた九州の炭鉱王と結婚しますが、生まれ育った華族の環境との違いに、次第に希望を失って行きます。多分このあとの展開で「白蓮事件」が出て来るのでしょう。
それにしても、主人公の着る着物の美しさに毎回目を奪われます。着物はなんと美しい衣装でしょうか。


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 白蓮

白蓮の本名は柳原燁子(あきこ)。華族出身の歌人でその美貌でも有名でしたが、北小路家に嫁いだあと離婚し、その後九州の炭坑王伊藤伝右衛門と再婚しました。
燁子はかねてより短歌を佐々木信綱に学んでいて「白蓮」と号していましたが、夫の伊藤伝右衛門は女出入りが激しく、燁子の孤独な生活の中で生きがいは短歌と詩だけでした。
  
   ゆくにあらず帰るにあらず戻るにあらず生けるかこの身死せるかこの身

こうした時、白蓮は社会主義運動家で東京帝国大学法学部に在学していた宮崎龍介と出会います。
宮崎龍介との関係が深まり夫との離婚を決意した白蓮は、大正10年10月、大阪朝日新聞に夫への絶縁状を公開しました。

まだ姦通罪がある時代に、華族出身の美貌の歌人柳原白蓮が、夫である九州の炭坑王伊藤伝右衛門にあてた絶縁状を新聞に発表したことにより、世情を騒然とさせるスキャンダルとなり、白蓮に対して轟々たる非難がまきおこりました。これが「白蓮事件」です。

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事件当時の宮崎龍介と白蓮

白蓮は昭和42年に81歳で亡くなりました。夫の弁護士宮崎龍介は「柳原白蓮との半世紀」という回顧録を同年6月の文芸春秋に寄稿しています。
私は見た―決定的体験 (文春文庫)」という本にこの回顧録が掲載されており、それによるとこの絶縁状を朝日新聞に掲載する事を決めたのは宮崎龍介と友人の赤松克麿、それに朝日新聞にいた友人早坂二郎の3人であったということです。

そこには伊藤伝右衛門の社会的立場に対する配慮や、白蓮に向けられる世の中の非難に対する配慮はありませんでした。多分正義感の強い若い社会主義運動家たちは、大金持ちが金にあかせて女性の人格を踏みにじっていることに対して、社会的制裁を加えなければならないと考えたのでしょう。
社会主義的な正義感には、本人の気づかない独善性が含まれています。

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伊藤伝右衛門と白蓮

しかし大正時代、石炭王の女出入りが激しいことは世間の容認するところであり、ましてや姦通罪があった時代にこのような絶縁状を妻が発表したことにたいして、轟々たる非難が沸き起こったのは当然のことでした。白蓮はこの後、世間から身を隠し、宮崎龍介に対しては、悪党、国賊と罵る手紙が山のように届きました。
この騒動のあと、伊藤伝右衛門が度量を見せて離婚が成立したのは幸いなことでした。

後ほどご紹介する絶縁状は、白蓮が宮崎龍介と赤松克麿と相談して書いたものです。夫への不平不満や恨みが綴られていますが、その内容は女性問題に終始しています。
どの時代でも夫の女性問題で悩んでいる人は大勢いますが、その上に大酒飲みで仕事をしない男もいれば、暴力を奮う男だっています。それに比べれば、むしろ贅沢三昧できた白蓮は恵まれていたと言えるかもしれません。
女性問題で新聞に絶縁状を出されては、男性はたまらないですね。(無論私は平気です)


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旧伊藤伝右衛門本邸

伊藤伝右衛門の本邸は飯塚市にありましたが、燁子を迎えるため福岡天神に青銅の屋根の御殿を作り、湯の町別府にも瀟洒な別荘を構えて燁子に気ままな暮らしをさせていました。
自分なら亭主はいらないのでそっちを選ぶ!という女性も少なくないでしょうね。

白蓮は晩年、緑内障で両目が見えなくなりました。
短歌研究」に寄稿した最後の作品にはその辛さが綴られています。 

   月影はわが手の上と教えられさびしきことのすずろ極まる
   昨日と云い今日とくらしてうつそ身の明日のいのちをわが生きむとす
   そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ


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白蓮と宮崎龍介と子供たち

回想録の中で宮崎龍介は、「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人々よりは燁子の個性を理解し、援助してやることができたと思っています」と述べています。

それほど自信があるわけではないと言っているのは、多分白蓮のその後の人生に苦労や心労がつきまとったからでしょう。
特に生きがいであった息子が学徒出陣で戦死したことがこたえたようで、死ぬ間際まで、ひょっとしてお母さんただいま、と帰って来るんじゃないかと願っていたようです。

   英霊の生きてかえるがありといふ子の骨壷よ振れば音する
   きちがひと人や見るらめ子が植えし花にものいふわれ見る勿れ  
   かへらぬをかへるとかりに楽しみて子が座をおきぬわれと並べて 
   かえり来ば吾子に食わする白き米手握る指こぼしては見つ

以下は大正10年10月に大阪朝日新聞に公開した夫への絶縁状です。長いのを書き写しましたが、どこかでコピペできたかもしれません。お暇な方はご覧ください。

「私は今あなたの妻として最後の手紙を差し上げます。今私がこの手紙を差し上げるということは、あなたに取っては突然であるかも知れませぬが、私としては当然の結果に外ならないので御座います。あなたと私との結婚当初から今日までを回顧して、私は今最善の理性と勇気との命ずるところに従って、この道を執るに至ったので御座います。

ご承知の通り結婚の当初からあなたと私との間には、まったく愛と理解とを欠いていました。この因襲的な結婚に私が屈従したのは、私の周囲の結婚に対する無理解と、そして私の弱小の結果でございました。
しかし私は愚かにもこの結婚を有意義ならしめ、出来る限りの愛と力とをこの内に見出して行きたいと期待し、且つ努力しようと決心しました。

私が儚い(はかない)期待を抱いて東京から九州に参りましてから、今はもう10年になりますが、その間の私の生活はただやる瀬ない涙を以って掩(おお)われまして、私の期待は総て裏切られ、私の努力はすべて水泡に帰しました。
貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私は茲に(ここに)くどくどしくは申しませぬが、貴方に仕えている女性の中には、貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思われないものもありました。

貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われて居たこともありました。それも貴方の御意思であったことは勿論です。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものでした。こういう状況において貴方と私の間に真の愛や理解のありよう筈がありませぬ。私がこれ等の事につきしばしば洩らした不平や反抗に対して、あなたは或いは離別するとか里方に預けるとか申されました。実に冷酷な態度を執られたことをお忘れにはなりますまい。
またかなり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても、常に貴方の愛はなく、従って妻としての値を認められない私が、どんなに頼り少なく寂しい日々を送ったかは、よもや御承知なき筈はないと存じます。

私は折々我が身の不幸を儚んで(はかなんで)死を考えたこともありました。しかし私は出来る限り苦悩と憂愁を押さえて今日まで参りました。その不遇なる運命を慰むるものは、
只歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだ不遇とこの不遇から受けた痛手のために、私の生涯は所詮暗い幕のうちに終わるものだとあきらめたこともありました。

しかし幸いにして私にはひとりの愛する人が与えられ、そして私はその愛によって今復活しようとしているのであります。このままにしておいては、あなたに対して罪ならぬ罪を犯すことになることを恐れます。最早今日は私の良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時期に臨みました。即ち虚偽を去り真実に就く時が参りました。よってこの手紙により私は金力を以って女性の人格を無視する貴方に、永久の決別を告げます。私は私の個性の自由と尊重を守り且つ培う為に、貴方の許を離れます。長い間私を御養育下さった御配慮にたいしては厚く御礼を申上げます。
〈二伸〉
私の宝石類を書留郵便で返送いたします。衣類等は照山支配人へ手紙に同封しました目録通り、総てそれに分け与えてくださいまし。私の実印はお送りいたしませんが、若し私の名義となっているものがありましたら、その名義変更の為には何時でも捺印致します。
二十一日           燁子
伊藤伝右衛門様」





Tag: 白蓮

生まれた目的

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自分の生まれた目的は何か、その答えを知る人はほとんどいません。
しかし、9歳にしてその答えを知った男の子がいます。

その子は昨年の12月21日に母親に連れられて、ある神様を祭っている所に行ったところ、頭をコンコンと叩かれて、「頑張れよ」と言う声が聞こえたと言います。その時から自分の心の中の引き出しが開けられるようになったそうです。(普通、こう言う神的な場所は、危険なところが多いので注意してください)

引き出しは、忘れてはいけないこと、前世のこと、あまり重要でないことなど6つに分かれていて、忘れてはいけない引き出しに、今回自分が生まれた目的と使命が入っていたようです。
その目的と使命は、「人を救うこと、天使の仕事をすること」だったそうです。

「ママの使命は何?」と聞いたら、「自分で考えるんだよ」と言われたと、お母さんが笑っていました。
「あの世に帰った時、人間らしいことをしたか聞かれるよ」、と言うので、ウソをついたか聞かれるのと言ったら、「ウソは誰でもつくから、そんなことは聞かれないよ」と答えたといいます。かしこい言葉ですね。

「天上界から生まれて来る時(9歳の子供が天上界という言葉を使います)、神様がコンコンと杖を突いたらママのお腹に入っていたよ。この家族なら楽しいと思って生まれてきたけど、まん中のお兄ちゃんはちょっと意地悪だった、上のお兄ちゃんはやさしいけどね。」
夜母親と風呂に入っている時に、このようなことを話すそうです。

「この世の目的は、勇気60%、幸せ10%、人のため15%、体15%」だそうです。ちょっと意外でしたが、考えてみれば納得できる言葉です。

「勇気」の意味することは、自分を鼓舞し頑張る力、人生に対する前向きな姿勢、目標に向かって進む勇気や意思などを含んでいるのでしょう。学び自分を高めることが、人生の最大の目的であることがわかります。

幸せ10%と言うのは、人生の目的が幸せだけではなく、場合によっては学びのために不幸も必要であり、また人のための15%より、自分の幸せの10%が低いことも納得できます。
体15%というのは、この世を旅する乗り船である肉体を大切にしなければならないことを語っているのでしょう。

9歳の子供の叡智に満ちた言葉に対して、それをちやほやする大人が現れてから、心の引き出しが引っ掛かって開かないようになった時があったようです。そうなってからは、母親と風呂に入りたがらなくなっていましたが、幸いにしてまた引き出しが開くようになったそうです。

傲慢はほろびに至るという言葉が聖書にあったと思いますが、甘やかすことが、子供をダメにする早道であることがわかります。

ある疑問について、その子がなんと答えるかを確認したく、お母さんにお願いしています。
その返事が納得できるものであればまたご報告します。


ご意見やご質問は、過去の記事のコメント欄からお願いします。(拒否していません)




日本人の優しさ


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北海道で親子が暴風雪に巻き込まれ、父親は9歳の娘に覆いかぶさるようにして凍死していました。
亡くなった岡田幹男さんは一昨年、妻を亡くし、一人娘の夏音さんと2人暮らしでした。
夏音さんは父の胸の中で泣き続けていたといいます。

2年前に母を亡くし、またこのような形で父を亡くした夏音さんの気持ちは、察するに余りあります。
幼くしてつらい経験を重ねた夏音さんが、これから多くの優しい人達に助けられて、明るく成長することを願わずにはいられません。

以前、ホームレスの若い女性のことを書きましたが、公開していない関連記事がありましたのでご紹介します。(最近、過去の記事をほとんどチェックしていないので、書いたのを忘れていました)
下記の関連記事もご覧ください。

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その女性のことを忘れていた11月の終わり頃、娘が駅で半袖で震えながらうずくまっているのを見かけました。
思わず駆け寄って自分の上着をあげようとした時、駅の係員が近寄って来たので逃げ出したと言います。
やはり以前のまま、保護されずにいたのです。

翌日、受け取るかどうか心配しながら、娘が自分の衣類を持って行ったところ、素直に受け取ったと言います。その話を聞いて喜んだのですが、数日後、その女性がやはり薄着のまま、駅で同じように立ちすくんでいたと言います。

しかしその日の夜に再び見かけた時には、ちゃんと服を着ていたといい、もしかしたら、日中は薄着で同情を誘い、施しを受けていたのではないかと思います。しかしもしそうであれば、それはそれで生きるすべを知っていることになり、少し気が楽になります。


日本教育界最大の人物と言われた森信三先生が、シベリア送りになりかけた時、零下20度の厳寒の中で新京を脱出しました。食料もなく生死をさまよい、凍死、餓死寸前のところで命を取り止めましたが、このとき改めて、躾、たしなみ、道徳というものは、ある程度の経済的基盤があってこそ可能だと思い知らされます。

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人生二度なし」致知出版社


若い時の貧しさは、必ずしも心を貧しくするものではありません。むしろ、「かわいい子には旅をさせろ」のことわざ通り、自立して生きる強さを育てます。
心に従って生きる」で紹介した知人の話です。

彼は医学部を中退して仕送りを絶たれました。アルバイトだけで下宿代と生活費を稼ぐことは困難です。ある朝、空腹を抱えて歩いていると牛乳箱が目につき、思わずその牛乳に手をつけてしまいました。飲んだ後、お腹がすいて牛乳に手を付けてしまったことをお詫びし、アルバイトの金が入ったら必ずお返ししますと、住所・氏名を書いたメモを入れて帰りました。

後日、お金を返しに牛乳箱を開けたところ、中に2本の牛乳とメモが入っており、「1本はあなたのものだから、いつでも飲んでください」と書いてありました。
その後、会ったことも無いその家の人とは、何回もメモのやり取りをし、励ましてもらったと言います。


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別の日の朝、彼が大徳寺の山門にたたずんでいると、朝行に出る僧侶の一団が歩いて来ました。
先頭の僧侶が彼を見かけ、肩をトントンと叩き、手を出すように促します。彼が手を出すと小銭を入れ、その後に続く僧侶たちも、一人ひとり小銭を彼の手の中に入れて行きました。彼の姿に窮状を察したのでしょう。
「僧侶の数が多いので、手の中が一杯になりました。托鉢の僧から布施をもらったのは、僕くらいでしょう」と笑っていました。

学生時代から金や地位や名誉を遠ざけてきた彼は、その後、ドイツとスイスで長年生活し、10数年前に日本に帰ってきました。北辰一刀流の免許皆伝で、少林寺拳法の有段者、ギターの名手にして円空仏や陶器の鑑定家である彼は、つくづく医者にならなくて良かったと言っています。
彼がスイスでダライ・ラマの妹さんと出会い、中国大使館に抗議のロウソクデモを行った話はまたご紹介します。

僅かな優しさ、思いやりが人を救い、人の人生を左右することがあります。
美談の多さは、その国の人々の優しさのバロメーターです。かっての日本には数えきれない美談がありました。
それが失われたと思っていたところ、東日本大震災で数多くの美談が伝えられました。
いまだに日本は、優しい人達の住む国であることを誇りに思います。

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宇多田ヒカルさんとおじいちゃんのこと

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宇多田ヒカルさんが、小沢一郎の新党「国民の生活が第一」に対して、Twitterで、 
「ついに政党の名前にもキラキラネームきたか…。こうなると『くまちゃんの肌触りは世界一』党の結成も夢ではないなおはようございくまぼんじゅーる」
とつぶやいて話題になっていた。

「国民の生活が第一」という、臆面もなく付けられた政党名には、多くの人が鼻白む思いをしたはずだが、そのことを「キラキラネーム」と断じた宇多田さんの批評精神に、彼女のおじいさんのことを思い出した。


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若いころ、ニューヨーク読売新聞を訪ねたことがある。社長は宇多田二夫(つぎお)さんだった。当日の朝、これから訪問しますと電話を入れると、ニューヨーク不案内の私のために、わざわざホテルまで迎えに来てくれた。
エンパイアステートビル近くの会社に着くまでに、宇多田さんが私と同じ山口県の出身であり、奥様が私の高校の先輩であることがわかり、初対面でありながら一挙に親しくなって思わぬ歓待を受けてしまった。同郷とは不思議なものだ。
昼食に案内された鮨屋は、ニューヨークで一番おいしい店だと言われたが、若造にとって間違いなくこれまで食べたもっともおいしい鮨だった。

色々なことを、昨日のことのように思い出す。
評論家の草柳大蔵さんは戦友であり、毎年取材のために訪ねて来ると言われていた。
宇多田さんが文芸春秋に寄稿された記事をたまたま読んでいて、その話で盛り上がったことも思い出す。
宇多田さんは東京外大のご出身だったが、二人の息子さんはコロンビア大学を出られていて、下の息子さんはニューヨーク読売新聞で働いていた。帰り際にご紹介頂いたが、長男の方とはお会いできなかった。

日本に帰って来て数カ月経った時、歌手の藤圭子さんがニューヨーク在住の音楽家、宇多田なんとかさんと結婚したと新聞に載っていた。
宇多田という性は日本でも珍しいのに、ニューヨークの宇多田さんであれば、宇多田さんの息子さんに違いなく、お祝いの手紙を差し上げようと思いながらしばらく経った時、新聞に宇多田さんの死亡記事が載っていた。人間の運命を思った。

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それから何年経ったことか、「Automatic」と言う歌が日本で大ヒットした。歌っているのはニューヨーク在住で藤圭子さんの娘の宇多田ヒカルさんだった。宇多田さんが見ることのなかったお孫さんだ!と驚いた。

宇多田ヒカルさんがこの記事を目にすることはないだろうが、ヒカルさん、あなたのおじいちゃんは、とてもダンディーで素敵な知識人でしたよ。

宇多田ヒカルさんのTwitterのフォロワーの数は、日本有数だとのこと。おじいさん譲りの鋭い感性をこれからも見せてほしいと思う。

宇多田ヒカルwikipedia





運命と宿命

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運命について考える時、日航機事故で亡くなった坂本九さんを思い出します。
誰からも愛された九ちゃんが、あの日御巣鷹山に消えたことに衝撃を受けましたが、いつも全日空を利用していたのに、あの日に限って日航を利用したことに運命を感じます。
避けられない運命を宿命と言いますが、あの日、あのような死を遂げることは宿命だったのでしょうか。

日航機事故で、ハウス食品工業の社長や阪神タイガースの社長など、多くの会社関係者が亡くなっていますが、チッソ株式会社は、ポリプロ繊維事業部だけで6人が亡くなっています。社葬の時、激しい雨と雷鳴に、亡くなったみんなが来ていると感じたと、ポリプロ繊維事業部の方が話していたのを思い出します。



東日本大震災の犠牲者については、個人の運命というより、日本と言う国の運命ではなかったのかと思います。
犠牲者は国家の大きな運命に殉じた、「一粒の麦」だったのではないでしょうか。(一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし ーヨハネ福音書)

人は人生を計画して生まれて来ます。それを運命と言います。計画してきたことであれば、起きてくることは必然です。
しかし起きてくる前に、すでにその学びを学び終えていれば、必然であるべき運命は変わります。

一方、肉体的ハンディを背負って生まれてきたり、不慮の事故に遭うなどの宿命は、自分の努力で避けることができません。
そのような過酷な運命を体験した魂は、平凡な人生を送った魂より大きく成長することができるようです。


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天からみれば」という自主上映映画があります。
主人公は大阪に住む両腕の無い画家、南正文さんです。
南さんは小学校の時に、家業の製材所で機械に巻き込まれて両腕を切断します。
人生に絶望していた時、大石順教さんという尼さんに引き会わせられます。

大石順教さんは、養父に両腕を切り落とされながら、その養父を怨むことなく、出家して身障者のために生涯をささげた方です。筆をくわえて絵を描く練習を重ね、ついには般若心経の写経が日展に入選しています。

南正文さんは、順教尼から筆をくわえて絵を描くことを学びますが、何より、両腕のない順教尼が、運命に負けずに力強く生きている姿に接したことで、人生に絶望していてはいけない、自分も頑張らなければならないと気付きます。

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大石順教さんは、明治二十一年に大阪で生まれました。本名は「大石よね」
12歳で踊りの名取となり、15歳の時、「山梅楼」の主人中川万次郎の養女となります。

明治三十八年、妻の駆け落ちに狂気となった養父万次郎は、妻の母親、弟、妹と、養女にしていた二人の芸妓の5人を日本刀で斬り殺します。この時、大石よねも巻き添えとなって両腕を切断されます。「堀江六人切り事件」として、世間を震撼させたこの事件で、彼女は17歳という青春のさ中に、人生を奪われてしまいます。

そんな絶望の中、よねは両親を養うため、悲惨な姿を人目に晒し、見世物小屋で働きます。
中村久子さんも見世物小屋で働いていましたが、社会保障制度の整わない明治時代、「片端(かたわ)」となった身が生きていくことが、どれだけ大変であったかがわかります。

3年後のある日、鳥カゴのカナリヤが、口でヒナに餌を与えている姿を見て、鳥は手が無くても生きていることに気付き、筆を口にくわえて絵の練習を繰り返します。

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明治四十五年、日本画家と結婚し、一男一女の母となりますが、夫の浮気により離婚し、昭和八年に出家、名を「順教」と改めます。昭和十一年、身体障害者福祉相談所を開設し、身体障害者の救済に生涯を捧げます。昭和三十年、日展に入選。昭和四十三年、81歳の生涯を閉じました。

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日展入選「般若心経」

大石順教は警察で、「お父さん(義父)の罪を軽くするにはどうしたら良いでしょう。お父さんの罪を軽くするためには何でもします」と嘆願しています。

「お父さんを憎むことは、自分を憎むこと。お父さんが悪いのではなく、そうさせた苦しみが悪い」
「私は逃げなかった。愚痴も憎しみも口にしたことがない。」

両腕を切り落とされ、自分の人生を奪った人を憎まず、愚痴も憎しみも口にしたことがない魂とは、いったいどれほど気高い魂だったのでしょうか。

順境尼は、「生まれ変わったら、また両腕の無い人生を送りたい」との言葉を残しています。
その言葉は、人間の生まれてくる目的が、魂の成長にあることを知らなければ言えない言葉です。

「何事も 成せばなるてふ言の葉を 胸にきざみて生きて来し我れ」 ー 順教尼

<参考>
人の運命について
ヘレン・ケラーの恩人
『致知』“できない”と“やらない”を混同しない





謹賀新年

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あけましておめでとうございます。

新しい年が皆様にとって、健康で幸せな年でありますようにお祈りいたします


NHKの「日本列島」という番組で、豊かな自然に恵まれ、世界有数の生物種が暮らす日本が、どれだけ奇跡的な条件が重なって出来あがったかを放映していました。

今年はアジアの経済拡大に伴うインフレの懸念や、異常気象による農産物の被害、あるいは戦争の可能性さえあって楽観できる年ではありません。しかしそれゆえに日本に生まれ、日本で暮らせることの有難さを感じる年になるのではないかと思います。

日本の豊かな自然に育まれて形成された日本的な心性と価値観が、なぜ戦後破壊されなければならなかったのかは、改めて書きたいと思います。

本年もよろしくお願い致します。




魂の輝き

急激に老化が進む、リポジストロフィーという難病に苦しむ、イギリスの少女がテレビで紹介されていました。
ザラという13歳の少女で、顔には深いシワが刻まれていて50~60歳に見えます。
まわりの子供たちからイジメを受けるだけでなく、実の父親からも化け物とののしられ、母親はザラを連れて離婚しました。

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大変なハンディを背負った人生ですが、この少女を見ながらある女性を思いだしていました。
その女性は20歳代で身長は145cm位、両腕がありません。

始めて見たのは銀行のATMでした。
長袖を着ていたので普通の女性に見えたのが、ATMを足で操作し始めて両腕が無いことに気づきました。手伝おうとしましたが、「大丈夫です」と断られました。自分で出来ることは自分でやると決めているのでしょう。

この両腕が無い女性が、老化が進む少女を見たら何と思うでしょうか。
トイレ、風呂、炊事、洗濯、買い物、生活すべての不便を考えれば、13歳で60過ぎの容貌であっても、両腕が無いより余程幸せだと思うのではないでしょうか。

不幸の原因は限りなくあり、その一つ一つが本人にとっては深刻な問題です。たとえ自分よりもっと不幸な人間がいたとしても、自分の不幸が軽くなるわけではありません。

幸不幸の絶対的・物理的基準はなく、人から見れば幸せと思える状況の中にいても、人生に絶望している人もいます。

2年前の世界金融危機の時、世界中で多くの富豪が自殺しました。アメリカでは、総資産92億ドル(7820億円 85円/ドル)の大富豪が、株の失敗で自殺しています。
いくら投機に失敗しても、数億か数10億、あるいは数百億の資産は残っていたことでしょうが、失ったものを後悔すれば、今自分が持っているものは無に等しく感じられます。

猛暑の原因」でご紹介しました、エリザベス・キューブラー・ロスは、あの世に帰って聞かれるのは、「人のために何をしたか」だと言っています。

富や地位や名声を得た人生であっても、自分のためだけに生きた人生に価値はありません。人のために何をしたかが、この世に生を得た意味と言えるでしょう。
自分自身、今あの世に帰ったとして、この問いに答えることができません。

ヘレンケラー、以前の記事でご紹介した中村久子さん、「五体不満足」の乙武さん、このような大きなハンディキャップを乗り越えた人が示してくれたことは、どんな状況の中にも絶望はなく、魂を輝かせることができるということでした。

私達は健康な肉体と、住む場所と、日々の食べ物を与えられて生きています。
ATMで見かけた両腕の無い女性、老化が進む少女、あるいは中村久子さんや乙武さんのような厳しいハンディを背負っているわけではないのに、不平不満、愚痴、悪口を言い、与えられているものに気づかず生きています。

ニック・ブイヂチさんという、生まれつき両腕両足が無い方がいます。
「神は僕に偉大な使命を与えてくださった」、「僕は幸せです」と語る彼の表情には、自分の境遇を100%受け入れ、それを感謝できる人間だけが持つ、愛と明るさが溢れています。




ニック・ブイヂチさん




成功法則を考える

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成功法則を実行すれば願いが実現でき、幸福になれるという本がたくさん出ています。代表的なものが「マーフィーの法則」です。
本当にそうなのか、成功法則について考えてみたいと思います。

成功法則は、プラス思考で生きることと、潜在意識に願望を植えつけることの2点に集約されます。

潜在意識に植えつけられたものは、現実化する仕組みがあり、イエスもそのことを語っています。

「まことに、あなたがたに告げる。
 だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、
 ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる。

 だからあなたがたに言う。
 祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
 そうすれば、その通りになる。
」 (マルコによる福音書)

想念は現実を作ります。
何か物を作る時には、まずデザインを考え、デザインが具体的であるほど、思った通りのものが出来ます。
具体性は、成功法則の重要な要素です。

問題はそれを実行した人の内、どれだけの人の願望が実現し、幸せになったかと言うことです。
このような成功法則を読む人は、多分何冊も読んでいるはずです。何冊も読むと言うことは、読んで実行したが、うまく行かなかったからでしょう。

なぜ実現しないのでしょうか。
成功法則には、欠けている視点があるのではないでしょうか。

人は幸福から学ぶことはできません。学ぶことができるのは不幸や困難からです。
人生が魂の成長のための学校であるとしたら、厳しい環境や不幸は気づきを得るための重要なチャンスであり、容易な願望の実現が、学びの機会を奪うことさえあります。

宇宙はエネルギーと法則によって成り立っています。
エネルギー自体に善悪はありませんが、宇宙の法則に反する思いと行いによって、マイナスのエネルギーとして働きます。
願望実現のためには、プラス思考だけでなく、行為もプラスでなければならないはずです。


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カー用品のイエローハットの鍵山秀三郎さんが始めたトイレ掃除運動があります。
入試が零点でも高校に入れる「高校全入」の実施によって、教育が荒廃していた広島で、鍵山さんたちは県警本部長と協力して、暴走族の少年たちをトイレ掃除運動に参加させました。

トイレ掃除を行う内に、すさんでいた少年たちの心に、人のために奉仕する喜びが生まれ、全国有数であった少年犯罪が急速に減っていったのです。
少年たちの人生は、奉仕によって好転しました。ここに願望実現のヒントがあります。
(この時、高校全入を実施して広島の教育を破壊し、子供たちの人生を狂わせた人間が、テレビで教育を語っていました。反省を知らぬ人間です。)

トイレ掃除に関わるもう一つの話があります。ご主人をガンで亡くした72歳の女性の話です。
ご主人が亡くなった後、当時65歳であったこの方は、毎朝5時に起きて大手スーパーのトイレ掃除を始めました。
このスーパーにはバックヤード(作業所)を含めて49のトイレがあり、1分の休憩時間も無く2時半まで働きました。
そして夕方からは居酒屋で焼き鳥の串を刺す仕事をし、その後さらに外食チェーンで食器洗いをしました。終わるのは夜11時でした。

この生活を続ける内に体重が激減し、微熱と咳が出るようになり、このままでは死んでしまうと思い始めた時、5人のフィリピン人女性が派遣会社に入り、彼女はその日の内に首を言い渡されました。
しかしフィリピン女性たちによって、自分は命を助けられたと感じたと言います。

(実はこの女性は歯科医の奥さんでした。しかし、そこまでして金を稼がなければならない理由があったのです。そのことはまたご紹介することがあるかも知れません。)

このような限界を越える仕事をしながら、トイレ掃除においても「仕事をさせて頂いて有難うございます」と、心の中で感謝していたと言います。
それから間もなくある仕事と出会い、今は十分な生活をしています。成功法則を実行したわけではなく、必死に働きながら感謝を忘れなかった心に、原因結果の法則が働いたのでしょう。

成功法則が間違っているわけではありません。
しかし、自力による努力と、心の修正を伴なわない成功法則は本物と言えず、またその願望は成就しにくいのではないかと思います。





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がっかり

昨日、源実朝の記事を書いてアップしようとしたら、削除されてしまいました。
自分としては、精一杯の記事だったので、さすがにがっかりして、もう一度書く気が起きませんでした。

しかし、鶴岡八幡宮の銀杏が倒れた機会でもあり、もう実朝について書くことは無いだろうと気を取り直して、もう一度書き、先ほどアップしたところ、又もや削除されてしまいました。

がっかり×2で、もう書けません。残念。 。・゚・(ノД`)・゚・。
(しかし、こんなつまらない記事は、何でアップできるんだろう)

「かくてのみ ありてはかなき世の中を 憂しとや言はむ あはれとや言はむ」
 実朝 



生きる権利とは

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戦後、日本を堕落させた言葉の一つが、「権利」ではないでしょうか。

最近やたらと振りかざされる、「人権」とは何でしょうか。
人は生きる権利がある、平等に扱われる権利がある、最低限度の文化的な生活を営む権利があるなど、様々な権利が声高に叫ばれます。

生きる権利とは何でしょうか。我々は権利があるから生きているのでしょうか。

生きるためには太陽の光や水や空気が必要です。食べ物が必要です。
食べ物が生産されるためにも、水と空気と光が必要です。
水と空気は地球のものであり、光は太陽からです。水と空気の循環も、太陽のお陰です。
大地を区切り、自分のものだと権利を主張しますが、すべて地球のものです。

誰が作ったものでもなく、神が与えてくれたものです。

生命が偶然に出来ることは、確率的にありえません。人工的に作ることも出来ません。
偶然にできないことは、確率を計算すればわかります。
(命が偶然に出来ない確率については、「生命と神」をご覧ください。)

生命とは神の愛の賜物であり、神は生命を維持するために、水や空気や太陽の光や大地を与えてくれています。
神はその権利を主張しません。無償で与えてくれています。

江戸時代まで、日本に権利という言葉はありませんでした。
その代わり、太陽をお日様と呼び、水や火を祭っていました。
農作物の収穫に感謝し、秋の祭りを行っていました。
与えられること、生かされていることに感謝していました。

人権と言うものがあるなら、牛権、豚権、魚権、野菜権もあります。
すべての命に権利があります。
人間は他の生命を犠牲にしながら、命を維持しています。
他の命を犠牲にすることによって生きている人間が、自分の権利だけを主張することは傲慢です。

給食費を払っているので、給食を食べる時にいただきますと言わなくてよい、と教える親がいると聞いて驚きました。
このような親は、自分の権利のみを主張することでしょう。
「いただきます」とは作ってくれた人への感謝とともに、他の命の恵みをいただく感謝の心です。

「権利」と「義務」は対で使われます。言い換えれば、give & take です。
1を与えたら、1をもらう権利があると考えるなら、イエスの、
「自分がしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」、
あるいは孔子の、「己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」でなければならないでしょう。

真に価値あることは、対価を求めずに与えることです。
マザー・テレサは対価を求めて行動したわけではありません。give & give です。

私たちは権利があって生きているのではなく、生かされています。
行き過ぎた自由の主張が放埓になるように、行き過ぎた権利の主張は貪欲となります。
私たちがなすべきことは、生きる権利の主張ではなく、生かされていることを感謝し、与えられた命を輝かせることではないでしょうか。




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有難い人生

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斉藤里恵さんという、銀座No.1のホステスが話題になっています。
この方は口がきけず、客とは筆談で会話をしています。

筆談をしている内に言葉の仕組みや文字に敏感になり、少し見方を変えれば意味が変わることに気づいたようです。
ある会社の経営者が彼女に、「難題ばかりで、これ以上仕事を続けられない。店に来るのもこれが最後だ」と言った時、こう書いて渡しました。

「難題の無い人生は無難な人生、
 難題のある人生は有難い人生」

客はその言葉に奮起させられ、立ち直ったということです。

世の中には、資産があって頭が良く、性格が良くて容姿端麗、家庭は円満で健康にも恵まれているという、見事に幸せな人がいるかも知れません。おまけに生涯、難題に会ったことが無い人だっているでしょう。
(知らない内に母親が12億円もくれる鳩山由紀夫さんは、政治家にならなければこのタイプだったのでしょう。残念な選択ですね。国民にとっても)

このような人を見ると、今度生まれてくる時は、そんな人生を送りたいと思いますが、魂の成長から見た場合は、難題が無いことが恵まれているとは言えないようです。

小学校、中学校、高校、大学と、成長するにつれて与えられる問題は難しくなります。問題をクリアーすればより難しい問題が与えられ、それに取り組み、乗り越えることによって成長してゆきます。
問題の無い人生は幸せである一方、成長する機会がない人生と言えます。

「神様は乗り越えられない試練は与えられない」という言葉があります。
人間は輪廻転生を繰り返し、生まれてくる時に自分で人生の課題を決め、それを乗り越えるように計画を立てるため、乗り越えられない試練はないという意味でしょう。しかし厳しい3次元の世界で、前世でクリアーできなかった課題を、今回の人生に持ち越してくることが多いようです。

厳しい環境や、つらい人生を選んで生まれてきた魂は、それだけの決意をしてきた魂と言えます。

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ヘレンケラーの恩人」で書きました中村久子さんは、幼い頃に脱疽で手足を失い、まわりの子供たちから‘ダルマ’と囃し立てられて、経済的にも見世物小屋で働くほど厳しい人生を送りました。

これほど厳しい試練の人生を計画し、その試練に打ち勝ったのですから、その魂は聖者に勝る偉大な魂だったのでしょう。
中村久子さんの、「確かなことは自分で生きているのではない。 生かされているのだと言うことです」との言葉には、最も厳しい人生を乗り越えた者だけが語れる、人生の真髄があります。しかし、その人生を追体験しなければ、その言葉の真の意味を理解することはできません。それを望む人はいないでしょう。

人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。
 生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。
 すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ
。」


お釈迦様は、釈迦族の王子として生まれながら、生老病死の問題に悩んで王子を捨て、修行に出ました。
お釈迦様と言えど、何不自由ない生活の中で幸せな一生を送ったとしたら、悟りを得ることはできず、多くの人を救うことはできなかったはずです。
偉大な魂は、問題が無ければ自ら問題を見つけるのでしょう。

「難題のある人生は、有難い人生」と思うことができれば、幸せの時も試練の時も、人生のすべての場面が有難くなります。
やはり、「ありがとう」の言葉は、人生のキーワードのようです。



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元気が出るラジオ体操の歌

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朝起きた時に、太陽に向かって「ありがとうございます」と言うようにしていますが、先日ふと「ラジオ体操の歌」が浮かんできました。
そして子供の頃よく耳にしたこの歌が、希望に満ちた素晴らしい歌であることに気づきました。

口ずさんでみると、何の心配もなく、ひたすら楽しかった子供の頃や、日本全体が明日に向かって進んでいた頃のエネルギーが思い出され、今日一日、きっと良い日になると元気が出てきます。

宇宙飛行士の若田光一さんは、地上で若田さんを支えた宇宙航空研究開発機構のメンバーが送ったラジオ体操の歌で起床していました。国際宇宙ステーションの日本実験棟の名前が「希望」なので、歌詞に出てくる「希望」が、きっと元気を与えてくれたことでしょう。
無理やりアファメーション(肯定的な言葉を断定的に口に出すこと)やプラス思考するよりも、この歌を口ずさむ方が自然に前向きになれます。
「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ 」と口にすると、きっと今日は良いことが起きると、希望が湧いてきます。
疲れている時、気分が沈んでいる時にお試しください。

忘れた方もおられるでしょうから、歌詞をご紹介します。(二番は歌った記憶がありません)

  新しい朝が来た 希望の朝だ
  喜びに胸を開け 大空あおげ
  ラジオの声に 健やかな胸を
  この香る風に 開けよ
  それ 一 二 三

  新しい朝のもと 輝く緑
  さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
  ラジオとともに 健やかな手足
  この広い土に伸ばせよ
  それ 一 二 三

  藤浦洸作詞・藤山一郎作曲




藤山一郎版もどうぞ




TOSHIさんのこと

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芸能ネタを書くのは初めてですが、XJAPANのTOSHIさんの、離婚と自己破産のニュースが伝えられ驚きました。

TOSHIさんとはそんなに親しい訳ではありませんが、何回かお会いし、奥さんからはコンサートの度に、「TOSHIの家内でございます」と、古風なもの言いの電話をいただいており、献身的な良い奥さんだと感心していました。別居状態にあったことを初めて知りました。
XJAPANの全盛時代にはまったく興味がなくて、誰がメンバーなのかも知らず、初めてお会いした時、静かで謙虚な人間性に、この人がXJAPANのメンバーだったのかと驚きました。

彼のコンサートに行かれた方はご存じでしょうが、自分のつらい生い立ちやコンプレックスのことを赤裸々に告白していますが
お兄さんからずっと虐げられ、XJAPANのギャラはお兄さんに取り上げられていたこと、アゴがしゃくれていることが、ずっとコンプレックスだったことなど、スーパースターだった人間が、ここまで裸になり、自己と向き合っていることに感心していました。

この12年間の収入はすべて、夫婦で参加していた自己啓発セミナー団体「ホームオブハート」に流れていたと言われます。
XJAPANの解散後、失意の中で自己啓発セミナーのMASAYA氏と出会い、生きることの意味を教えられ、MASAYA氏の作った歌こそ、自分が歌う歌だと信じていました。MASAYA氏にマインドコントロールを受け、だまされていたと語っており、さぞかしショックを受けたことでしょう。

TOSHIさんは、恵まれない子供たちなどの施設で、これまで800回程のの無料コンサートを行ってきました。
何故、彼のような人間が、このような試練に合わなければならないのかと気の毒に思いますが、今後は音楽活動に専念すると言われており、きっと今回の試練を経て、より大きく成長することでしょう。
それを信じ、祈りたいと思います。

マインドコントロールを受けないために、正しい宗教や心の学びについて、「何を信じるべきか」に書きましたのでご覧ください。




シプリアン・カツァリスとのコラボコンサート トーク1


参考:TOSHIオフィシャルサイト


故郷を思う

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 春の錦帯橋

日本の唱歌は明治時代末期から、子供たちの情操教育として作られ始めました。子供たちの心を豊かにすることに力を注いだ明治の先人の高い理想と、西洋音楽を取り入れて間もなく、詩情あふれる優れた楽曲を作り出した人たちに敬服します。

唱歌の中でも「ふるさと」は、聴くたびに感銘を受けます。郷愁というだけでなく、人生の原点を思い出させる歌です。
私の故郷は、山口県の岩国市です。錦帯橋のある城下町で自然が豊富でした。(昔の地方は、どこでも自然だけは豊富でした)
子供の頃は、トンボ取りや魚釣りの毎日で、ウサギは追いかけなかったものの、「ふるさと」に歌われている通りの生活でした。

「ふるさと」を聴いて、心に何も響かない日本人はいないでしょう。懐かしさ、切なさが胸に迫り、涙がにじむこともあります。
日本の自然が失われ、日本人の情緒や価値観が変質していく中で、いまだに多くの人がこの曲に感銘を受けるのは、単にふるさとの風景を思い出すだけではなく、優しさや思いやり、素朴さなど、日本人の心の原点がこの曲にあるからではないでしょうか。

「ふるさと」は、子供の頃の記憶を呼び覚まします。人生の辛さや苦労を知らず、親の庇護の下で、ただ楽しく遊べば良かった頃の記憶と連動しているため、余計に懐かしいのかも知れません。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」が現実であっても、それでは詩情が無さ過ぎます。

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「ふるさと」を一番意識するのは、故郷を失った人でしょう。
思いだされるのは「じゃがたらお春」です。イタリア人との混血であるお春は、1639年、14歳の時に、鎖国令によりジャカルタに追放されました。祖国日本への抑えがたい望郷の思いを書いた、「じゃがたら文」が有名です。

 『・・・いこくにながされ候とも、何しに、あらえびすとは、なれ申すべしや、
     あら日本恋しや、ゆかしや、見たや見たや見たや』

昔、「じゃがたら文」を読んだ時、見たや、見たやという、お春さんの日本への切ない望郷の思いに、深い同情を禁じ得ませんでした。14歳にしては美文すぎて偽作だとの説もありますが、それは昔の日本人の教養の深さを知らない人間の勘ぐりです。二度と帰れぬふるさと、日本への望郷の思いに胸を打たれます。

 思いひやる やまとの道の遥けきも 夢にま近く越えぬ夜ぞなき ーお春

家族を愛さない人、生まれ育ったふるさとを愛さない人はいません。祖国を愛さない人もいないはずです。しかし戦後の日本は、国を愛すこと、愛国心を持つことがいけないことであるかの如く言われてきました。
歴史上、そのような国があったでしょうか。国を愛すことは、自分と家族と大切な人を愛すことです。国を失い、流浪の民となったジプシーやユダヤ、パレスチナの民にとって、祖国とは何より大切なものでした。

豊かな自然と文化の日本、本当に素晴らしい国、愛すべき国が失ったものを教えてくれる曲です。
この曲は大正時代に作られました。作詞の高野辰之は長野県の出身、作曲の岡野貞一は鳥取県の出身です。
二人とも抑えがたい郷愁を抱きながら、この曲を作ったはずです。この二人による曲は他に、春が来た、春の小川、おぼろ月夜、もみじ、日の丸の旗、桃太郎、夕やけ、茶摘み、村の鍛冶屋などがあります。
   
「ふるさと」 you tube(合唱、画像とも感動的です)


  うさぎ追いしかの山
  小鮒釣りしかの川
     夢は今もめぐりて
     忘れがたき故郷

  如何に在ます 父母
  つつがなしや 友がき
     雨に風につけても
     思い出ずる故郷

  志をはたして
  いつの日にか帰らん
     山は青き故郷
     水は清き故郷

  作詞 高野辰之、作曲 岡野貞一  大正5年(1914年)『尋常小学唱歌』掲載



心に従って生きる

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大覚寺 


自分の心に従って生きることは簡単ではありません。周りとのしがらみや損得に縛られず、心の示す通りに生きるには、信念と強さと心の声に従う素直さが必要です。
そのような生き方をしてきた知人がいます。

知人は学生時代に仏教に興味を持ち、京都の大覚寺に参禅していましたが、熱心さを管長に認められて、食事を頂き、寝泊りを許されるようになっていました。

ある日、大覚寺の庭で思いつめた様子の少女を見かけ、気になっていると管長が近づいて行きました。

管長はその少女に、「何が見えますか」と尋ねました。
少女が庭には咲いている小さな花を見て、「きれいな花が見えます」と答えたところ、管長は、「きれいなのは、花をきれいだと思う、あなたの心ですよ」と言うと、少女はその言葉にパッと顔が明るくなりました。
管長はそれを見て去って行ったそうです。

管長の言葉の意味はこうだと思います。
心で見るもの」で書きましたように、美しい花があるのではなく、花を美しいと感じる心によって、花は美しくなります。「美しい花が見えます」と言った少女の心に、美しさがあったのです。
知人はその光景が深く心に残り、今も忘れられないと言います。


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知人が夏休みに帰省する時、思いついてある瀬戸内海の島に寄って帰ることにしました。
島を歩いていると、植木の手入れをしているおじいさんがいました。
何気なく話しかけるとおじいさんは、「学生さんですか」と聞きます。
日本で最難関の大学の学生であった彼は、鼻高々に「学生です」と答えたところ、「わしは小学校しか出ていない」と言い、「植物は何があったら育つか」と聞いてきました。

「光と水」と答えたところ老人は、「足りないものがある、風がなければ育たない」と言います。
意外な言葉に、「風ですか」と聞き返すと、「ただの風じゃない、どんな風か分かるか」と再び聞きました。
「いえ」と答えるとおじいさんは、「春には春の風、夏には夏の風がいる」と言ったのです。

それを聞いて、鼻高々だった彼は、高慢の鼻を折られてしまいました。
このお年寄りには知恵がある。知恵は学歴ではないと思い知らされたのです。

その後色々な経緯があって悩んだ末、彼は学んでいる大学を辞め、好きな歴史を学ぶことを決断しました。その決断は、人生を選択する重いものでした。彼が中退したのは京都大学医学部でした。医者は自分の人生の目的ではないと考えたのです。

彼はドイツやスイスで暮らした後、現在、自分一人の小さな会社を経営し、彼を慕う若い人たちとキャンプをしたり、一緒に酒を飲んだり、年に数回の旅をしたりして人生を楽しんでいます。
陶器の目利きであり、ギターの名手であり、本を愛し、平凡であっても豊かな人生を送っています。

もし彼がそのまま医学部を卒業していれば、今頃は教授か病院の要職についていたことでしょう。
少なくとも名医として、何人もの命を救える人であったことは確かです。

昨年、彼の親友が急死した時、カルテを確認し、病院側の過失を指摘しました。その指摘は正しく、病院側は300万円の医療費の請求を放棄しています。但し、カルテを見たのは、親友の死因を確認するためであり、過失をとがめるためではありません。

学歴がその人を不幸にすることがあります。
傲慢になったり、学歴に見合った境遇ではないと、不平不満の人生を送る人もいます。
彼は地位や名誉や財産には興味がありません。自分の心に素直に生きています。
学識をひけらかさず、謙虚で暖かく、人生を豊かに生きています。

人間の生き方、豊かな人生とは何かを考えさせてくれる人です。





国際有機認証「しらい田七人参」

幸せは平凡な日常にある

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幸福とは何かを考える時、忘れられない光景があります。

以前、ヒマラヤの仏教国ブータンを取材した番組で、痩せた段々畑を耕して暮らす一人の女性に、あなたは幸せですかと尋ねた時、「私は幸せです。いつものように今日が過ぎ、いつものように明日が来ます。何の不安もありません」、そんな風に答えていました。

ブータンは世界で最も貧しい国の一つです。もし、幸せが物質的な豊かさを条件とするものであれば、最も幸せから遠い国です。このような国で暮らしたいと考える日本人は余りいないでしょう。
しかし、「私は幸せです。何の不安もありません」と答えられる日本人が、一体どれほどいるのでしょうか。
私達は不況のこと、学校でのいじめのこと、病気のこと、犯罪のこと、将来のことなど、多くの不安にさらされて生きています。

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ジグメ・シンゲ・ウォンチュク国王

日本で暮らすには、最低限度の衣食住が必要であり、ブータンのような自給自足に近い生活と同列に考えることはできないかも知れません。しかし、貧しい生活の中で、幸せを実感して生きている国民がいます。
そこに国民総生産ではなく、国民総幸福を標榜し、豊かさが国民の幸せではなく、人を思いやり、助け合う心こそ国民の幸福だと考える、若き国王の理想の実現を見ることができます。

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私達は幸福を求める時、まず豊かさを求めます。もっと豊かであれば、もっと幸せな人生を送れるだろうし、もし使い切れない程のお金があれば、幸福は保証されたようなものだと考えます。
残念ながら、使い切れない程のお金を持った人がどの程度幸せなのか、経験が無いので分かりません。
しかし、世界一の金持ちと言われたマイクロソフトのビル・ゲイツを知る人が、彼は決して幸せではないと言っていました。先ごろ亡くなったマイケル・ジャクソンも、幸せな人生だったとは思えません。

豪邸で贅沢三昧に暮らしていながら不幸な家庭があり、貧しいながら笑顔の絶えない家庭があります。
豊かさは幸福の決定的条件ではないのでしょう。

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「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は様々に不幸だ」、というトルストイ(アンナ・カレーニナ)の言葉があります。幸福と不幸を入れ替えても同じです。
不幸な家庭では、怒りや不平不満・愚痴・悪口が支配し、幸福な家庭は、感謝、優しさ、思いやりに溢れ、笑顔が絶えないはずです。

人はどんな時に幸福を感じるでしょうか。例えば、好きだと思っていた人の愛が確認できた時、病気から回復した時、ごちそうを食べた時、欲しかったものを手に入れた時、旅行に行った時、つまり、何か良い事があった時に幸せを感じます。

しかし、失って初めて分かる幸せがあります。突然病気になった時は、健全であった昨日までの体の有難さが分かります。家族に不幸があった時は、何も無かった昨日までの幸せを思います。不満を言っていた会社がつぶれた時は、仕事の有難さが分かります。
その時初めて、うれしいことや楽しいことがあった時が幸せなのではなく、平凡な毎日こそが幸せであったことに気づきます。
普通に食事出来ることの幸せ、普通に働けることの幸せ、普通に寝ることのできる幸せ、普通の生活のすべてが幸福の連続であり、朝から寝るまで、すべてが有難いことに気づきます。

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「私は幸せです。いつものように今日が過ぎ、いつものように明日が来ます。何の不安もありません」と語るブータンの女性のように、平凡な日常の中に幸せを見つけだすことができれば、人の一生は幸福なものとなることでしょう。





国際有機認証「しらい田七人参」

神は悪を許しているか

嘆きの天使 アミアン大聖堂
嘆きの天使 アミアン大聖堂

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」だったと思いますが、「神が存在するなら、なぜ兵士が赤ん坊を放り投げて銃剣で刺すことを許すのか」というような文章がありました。
神が存在するなら、なぜ戦争を許すのか、なぜ犯罪を許すのか、なぜ人は不幸や災難を避けられないのかという疑問は誰しもが抱きます。

悪とは何でしょうか。なぜこの世に悪が存在するのでしょうか。

自然界には善も悪も存在しません。ボールを投げると重力と空気抵抗で落下して行きます。初速や仰角などが決まれば落下点を求めることができます。必然の世界です。ガリレオが言ったように、自然の書物は数学の言語によって書かれており、必然の世界、自由意志の無い世界には善も悪もありません。価値すら無いと言ってよいでしょう。

ライオンが人間を噛み殺しても悪ではありません。なぜなら、それは餌を求める本能であり、他に選択肢が無いからです。しかし人間が行うのであれば、殺人はもとより、嘘をつくことも悪です。何が善で何が悪かを知っているからです。聖書でアダムとイブが知恵の実を食べたことが罪の始まりだと書かれていますが、悪いと知って行うことが罪です。

ところが、もし無人島に一人で住むのであれば、悪や罪は存在しません。どんなに暴れようが暴言を吐こうが、それによって害を受ける人が存在しないからです。つまり、悪そのものがこの世に存在するのではなく、悪とは人間関係の中で生じるものだと言えます。他者へのいたわりや思いやりを失い、自己の欲望のままに行動することが悪となります。

神はなぜ悪を許すのかとの問いかけは、人間の心を神が作ったのかとの問いかけとなります。
一人ひとりの心をすべて神が作ったのであれば、神が悪を許したことになります。しかし、私たちが生まれた時、心は真っ白です。それが成長するに従い、我がままや欲望に支配され心を汚してゆきます。
神は人間に自由意思を与えています。どのような生き方も自分で選択できます。

光と神ーアインシュタインのエピソード」で書きましたように、冷たさとは熱の無い状態を言い、闇とは光の無い状態を表し、悪とは神の光を失った状態を言います。

雨雲に覆われた空の上にも太陽が輝いているように、私達の心の中心には輝く光があります。光をさえぎっているのは、私達の自己中心の黒い思いです。
善も悪もすべては人間の心が作り出します。美しいものに感動し、価値を作り出すことができるのは人間だけであり、同時に信じられない残酷も行います。神は決して悪を許さず、善も悪もその結果はすべて自分が引き受けなくてはなりません。

今、人類がその結果を引き受けなくてはならない時期に来ていると思われます。それは2012年に迫っているのかも知れません。そのことは改めて書きたいと思います。




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仏陀とマツリカ(茉莉花)

お釈迦様とマツリカ(茉莉花)にまつわる話があります。
マツリカとはジャスミンのことです。

今から2500年前、インドの北部にコーサラ国がありました。お釈迦様が生まれたマガダ国の隣で、ヒマラヤに近い所です。
その首都、舎衛城にヤージャアダッタというバラモンの大金持ちがいて、その召使の一人であるカピラーという女がジャスミンの花園の手入れをしていました。
カピラーは、顔は不器量ですが心のきれいな女でした。

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ある朝、祇園精舎から托鉢に出てこられた仏陀を見たカピラーは、仏陀とも知らず自分が昼食に持ってきた食べ物を布施しました。自分はお腹がすいても、僧侶に布施した喜びで満足でした。

その日、国王パセナディは狩に出ていましたが、獲物を追っているうちに兵たちと離れ離れになり、一休みしようとしてヤージャアダッタのジャスミンの花園に入って行きました。

カピラーは入って来たのが国王だとは知らず、「さあ、どうぞ」と、自分の着ていた着物を1枚脱いで敷き、その上にパセナディ王を座らせました。そして「足をお洗いになりますか」とたずね、蓮の葉に水を入れてきて王の足を洗いました。

「顔をお洗いになりますか」
「水をお飲みになりますか」
それから、
「少し横になられませんか」と自分の着物をもう1枚脱いで王を横にならせ、足をもみ、体をさすって疲れを癒しました。疲れていた王は、自分が何も言わないのに、自分の思う通りに世話をしてくれるこの女の賢さに感心しました。

王は、誰の娘かと聞きました。
「ヤージャアダッタ様の召使いでございます」
王は探しにきていた兵に命じて、ヤージャアダッタを呼びにやりました。

「この女はそなたの召使か」
「この女を妻にしたいと思う」
王はヤージャアダッタに結納金を払い、宮殿から着物や装飾品を取り寄せ化粧をさせ、自分の馬車に乗せて宮殿に帰りました。

カピラーはやっとそれがコーサラ国の国王パセナディであることに気づきました。
宮中に入ると様々な学芸、書や画、歌や舞を習い、何一つできないことがない女性になりました。
天性の心の美しさに磨きがかかり、五百人の女たちからも尊敬されて第一夫人となったのです。

カピラーは心の美しさと、王と出会ったジャスミンの花園にちなみ、「マツリカ」と呼ばれることになりました。

マツリカは自分が布施をした人が仏陀であることを知り、自分が仏陀に布施した功徳で妃になったのだろうかと考え、パセナディー王の許しを得て祇園精舎に仏陀を訪ねました。

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祇園精舎

マツリカはその足もとにひれ伏して訊ねました。
「女と生まれても、顔かたちの醜いものもあり、貧乏で苦しむものもあり、身分の卑しいものもあります。それはどうしてでしょうか」

仏陀は言われました。
「怒りやすい女は顔かたちが醜くなる。欲張りで人に施すことを好まない女は貧乏になる。他の人の成功をねたむ女は、卑しい身分に生まれる」

この言葉を聞いたマツリカは、
「わたくしは前世において怒りやすかったに違いありません。それでこのように醜く生まれたのです」
「また前世において、少しは施しをしたことがあったに違いありません。それでこのように財産を持つようになったのでしょう」
「人が成功したことを自分のことのように喜んで、決して人の成功をねたまなかったのに違いありません。それでこのような高い身分になったのでしょう」

「わたくしは、これからは決して怒らないように注意します。また、他人の成功をねたまないようにいたします。仏陀と教団に帰依いたします。生涯の間、殺生と盗みと邪淫と嘘と飲酒をつつしむことを誓います」
そう言って城に帰ると、王にも仏陀に帰依するように勧めました。

ある日パセナディー王はマツリカに訊ねました。
「マツリカよ、そなたはこの世で誰を一番愛するか」
しばらく考えたマツリカは、
「王さま、わたくしは、わたくし自身を一番愛します。自分以上に愛しいものがあるでしょうか」

王はその答えが気に入りませんでした。
当然、「王さま、わたくしは王さまを一番愛します」と答えてくれるものと期待していました。
身分の低いマツリカを妃に取り立てたのですから当然です。

しばらくじっと考えた王は、マツリカが言うことが正しいように思えてきました。
「マツリカよ、自分もそなたが言うことが正しいように思えるが、祇園精舎に行って仏陀にお聞きしようではないか」
そう思った王は、急いで馬車を駆り、仏陀を訪ねて教えを乞いました。

「人の思いは、どこへでもおもむくことができる。
しかし、どこにおもむこうとも、人は自分より愛しいものを見出すことはできない。
それと同じように、他の人もまた、自分をこの上なく愛しいと思っている。
そうであれば、自分を愛しいと思うものは、他の人にも慈しみを与えなければいけない」

仏陀は答えました。


「自分が一番愛しい」という言葉は利己主義のように感じますが、利己主義は自分を不幸にします。

この世には、原因結果の法則が働いています。
良い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果が帰ってきます。もし、真に自分を大事にするのであれば、良い結果が帰る行いをしなければなりません。

一番愛しい自分を幸せにできるのは自分だけです。そして、自分を許すことができるのも自分だけです。
人は良い行いをしたい、立派な人間になりたい、もっと頑張りたいと思いながら、自分の弱さに負けてしまいます。
しかし、良く頑張ったじゃないか、これからもう一度頑張ればいいんだよと自分を許すことも必要です。
人が許してくれても、自分の中に後悔や罪悪感があれば自分を責め続けることになり、それは創造的な思いではありません。

しかし同時に、自分を許すなら人も許さなければなりません。
イエスが言われた「人を裁いてはいけない。自分が裁かれないためである」との言葉のように、悪口には悪口が、怒りには怒りが帰り、一方、優しさには優しさが、思いやりには思いやりが帰るのがこの世の法則です。

一番愛しいのは自分であるがゆえに、人は正しく生きなければならないことをマツリカの言葉から気づかされます。

注:イエスが悟った後、キリストになったように、釈迦族の王子、ゴーダマシッタルダが悟った後、
  仏陀となります。
  

参考:園頭広周著「仏陀をめぐる女性たち」絶版




国際有機認証「しらい田七人参」

子供を花のように愛する日本(2)

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大阪の宿舎前の孤児たち

過去の日本人の感動的なエピソードを知ることはうれしいことです。日本人の心が変質してしまったのではないかと思う昨今ですが、このようなエピソードに感動できる日本人がいることは、優しさ、思いやり、親切心という、日本人の美質がまだ失われていない証だと思います。

ポーランド孤児孤救出と支援に係わった人たちは、心からの慈愛に突き動かされて奉仕をしたに過ぎず、それこそが日本人の本質と言えるものです。

1961年、チェロの巨匠、パブロ・カザルスがスズキメソード(才能教育)の子供たちの演奏を聴き、感激に声を震わせてスピーチしました。それは、日本人が失ってはならない心のあり方を示すものです。

<承前>

「我々はいつまでも恩を忘れない」

大正11年(1921年)、孤児たちの帰国を受け、ヤクブケヴィッチ副会長が感謝の手紙を送ってきました。

「わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。
・・・ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを
日本人に告げたい。・・・
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感恩、最も暖かき友情、愛情をもっていることをお伝えしたい。」

一方、無事帰国した孤児たちはたくましく成長しました。彼らの中には、医者、教師、福祉事業家、法律家、技術職人など、公の為に尽くす職業を志したものが多かったと伝えられています。

その一人、イエジ・ストシャウコフスキは、後に孤児院の院長に就任して社会福祉の改善に尽くすとともに、日本との友好を深める「極東青年会」を結成し、会長として活躍しています。

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日本を訪れた元孤児のストシャウコフスキ氏(左)と
林啓三日赤社長(当時)

ヤクブケヴィッチらがシベリア奥地で粗末な小屋に身を隠していたポーランド人母子を見つけ出した時、母親は我が子だけでも救ってほしいと訴えたそうです。
彼はその母子の別れのシーンをこのように記録しています。

「息子を我々に託す母親は、粗末なテーブルに洗いざらしのクロスをしき、マリア像をそっと置いて祈りを捧げた。祖国を知らず、また満足な母国語もしゃべれない息子を前において、『お前は祖国独立のために闘った祖父や父の息子なのだ』と噛んでふくめるようにさとしていた。それはあたかも息子に蜂起者の魂を植え付けているように私には聞こえた・・・」

昭和14年(1935年)にナチスドイツ軍によるポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発した際、イエジを中心に少年兵「イエジ部隊」を編成、祖国守護の先頭に立ちました。

昭和19年(1944年)8月1日には、再びナチスに対してワルシャワ市民が決起します。有名な「ワルシャワ蜂起」です。イエジキ部隊は、この時も懸命に奮闘しました。
第二次世界大戦下を辛うじて生き残ったイエジは、76歳を迎えた昭和58年(1983年)、積年の感謝を述べるため来日しています。
彼は日本を「第二の祖国」と呼んでいるほどです。

「日本の被災児に恩を返す」

ところで、ポーランドとわが国との関係はこれで終わったわけではありません。実は平成7年(1995年)1月阪神淡路大震災が発生した時、ポーランドはいち早く救援活動に入りました。
しかし、同年8月には、痛手を負った日本の被災児たちを一ヶ月近く招待し、ワルシャワやその他各地に歓迎し、心からの激励をしてくれたのです。

被災児の中には肉親を亡くした児童たちもいましたが、慈愛に満ちた接待を受けています。そして、被災児とのお別れパーティーが開かれた時、かってのポーランド孤児の方々が地方から駆けつけてこられたのです。

すでに80歳を越えるこの方々は、日本の被災児にバラの花を一輪ずつ手渡し、心から激励してくれたそうです。
その様子については、当時ポーランド大使を務め、この場面に立ち会われた兵頭長雄氏の著書「善意の架け橋」に詳しく紹介されています。

*日本人の優しい心と高い道徳性を知る貴重な資料、「善意の架け橋―ポーランド魂とやまと心 」は絶版となっています。この本の感動的なエピソードは、「Their Voiceless Devotions 」に紹介されています。

かってヤクブケヴィッチが手紙の中に「いつまでも恩を忘れない」と記した通り、765名の孤児の命を助けた大正日本人の尊い行為に対して、平成日本の被災児にその恩を返すことで、ポーランドは約束を果たしたのです。

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平成14年(2002年)7月、天皇・皇后両陛下がポーランドをご訪問になりました。ポーランド国民の歓迎の中、両陛下にどうしてもお会いしたいと三人のお年寄りが申し出ました。大正時代に日本が
救った孤児の方々でした。

両陛下はワルシャワでこの3人と対面されています。この時、アントニーナ・リロさんという86歳のお年寄りは、皇后陛下の手を握ったまま離そうとしませんでした。なぜでしょうか。実は80年前、日本で治療を受けていた自分を訪ねてきて、元気になるよう抱いて励ました方がいたのです。その方こそ大正天皇の皇后であられた貞明皇后でした。

人生の晩年に至って、ようやく得られた喜びを満面に浮かべたリロさんの表情は、テレビにも映し出されていました。
ヤクブケヴィッチが手紙に綴ったように、現下日本の私たちもポーランドや先輩である大正日本人の偉業にならって、「高尚な国民」たらんと努めたいものです。」

月刊誌、「致知」の今年3月号、福岡県立太宰府高等学校教諭、占部賢志さんの記事、「子供を花のように愛する日本」より。
写真は「人道の港 敦賀ムゼウム」からお借りしました。

<関連サイト>
大和心とポーランド魂
世界に知られた才能教育 スズキ・メソード 鈴木鎮一
「日本人が失ったもの」
エルトゥールル号の遭難


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子供を花のように愛する日本

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ウラジオストクに集合した出港前の孤児たち


以前、日経新聞に載った遠野のカッパをご紹介しましたが、同じ6月18日の日経新聞に、駐ポーランド大使、田辺隆一さんの書かれた記事が載っていました。
概略をご紹介します。

「18世紀から123年間、周辺国に国土を分割されたポーランドは、何度も蜂起するが失敗し、多くがシベリアに追放された。1917年、ロシア革命の混乱で、シベリアにおけるポーランド人孤児・児童の生活は、飢餓と寒さの中で悲惨な状況に追い込まれていた。

当時、独立を回復したばかりのポーランドからの支援要請に応じたのは、唯一日本政府だった。
1920年から22年にかけて、1歳から16歳の765人の子供たちを救った。存命者はいないと思ったが、昨年マリア・オルトフェノバさん(96歳)との出会いが実現した。

シベリアから大阪に逃れ、看護を受けた後、離れ離れだった両親とワルシャワで再会した。
日本の人が、優しく膝の上に乗せてくれたことや、看護婦さんに良くしてもらったことを覚えていると言う。
日本人は彼女にとって幸運のシンボルである。
覚えている歌があると言って「もしもし亀よ」を懐かしそうに口ずさんだ。

現在ポーランドには1300人の日本人がいる。オルトフェノバさんは「そんなにたくさん」と驚いた表情を浮かべると、大きな声で「バンザイ」と叫んだ。
いつまでもお元気で国交90周年の両国の関係が、さらに深まるのを見守ってほしい。」


月刊誌、「致知」の今年3月号に、福岡県立太宰府高等学校教諭、占部賢志さんが、「子供を花のように愛する日本」と題して、ポーランド孤児救出の偉業を述べられています。

歴史の「いのち」―時空を超えて甦る日本人の物語歴史の「いのち」―時空を超えて甦る日本人の物語
(2002/06/10)
占部 賢志

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「・・・ロシア革命の嵐に巻き込まれたシベリア在住のポーランド人は、赤軍に追われ難民と化してしまいます。シベリア鉄道の乗車を拒否された上に、飢餓や伝染病が蔓延。さらには極寒の中、各地に親を亡くした孤児たちが出現したのです。
この事態に直面したウラジオストック在住のポーランド人はせめて孤児だけでも救おうと「救済委員会」を結成します。
会長にアンナ・ビュルキェヴィッチ女史、副会長にはアンナ・ヤクブケヴィッチ医師が就任して救出活動にとりかかりました。

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ポーランド児童救済会幹部(中央:会長アンナ・ビルケウィッチ女史))

・・・・各国にも救済を懇願したものの、はかばかしい回答は返ってきません。万策尽きたアンナは、海を隔てた日本に一縷の望みを託してやって来ます。
大正9年(1920年)6月18日のことです。(上記の日経記事は6月18日付)

東京の外務省に出向いたアンナは嘆願書を差し出し、
『我々は祖国から離れ離れになり、いまだに何の助けも得られません。このまま冬が来ると、子供たちの命が奪われることは明らかです。
子供を花のように愛する日本が、彼らの命を戦争の不幸から救って下さるよう、私は切に願っています。』

彼女の訴えを聞いて胸を打たれた外務省は、わずか17日で受諾し、ただちに日本赤十字社が中心となって救援活動に入ったのです。
当時シベリア出兵中だった帝国陸軍の兵士たちも孤児救出に協力しています。

7月22日には救出した孤児56名の第一陣をウラジオストックから福井県の敦賀に運び、そこから東京に保護しました。
最終的には756名を救出、東京、大阪に収容して治療に当たっています。

この孤児たちの中には腸チフスを発症している幼子も交じっていました。容態は重く手遅れに近い病状でしたが、弱冠21歳の担当看護婦が付きっきりで看病しています。
しばらくたって、奇跡的に回復の兆しが現れたのを見届けて彼女は倒れました。

この子が死ぬのなら、せめて自分の胸の中で死なせてやろうと夜も抱いて寝ていたため、みずからが腸チフスに感染していたのです。
この女性は日本赤十字社神奈川県支部の看護婦で、救援チームに進んで参加した新潟出身の松沢フミという方です。
彼女はみずからの命を捧げて幼子の孤児を救ったのです。
このように大正時代の日本人は孤児のために献身し、756名を一人として死なせはしませんでした。

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孤児たちと日赤の看護婦

やがて健康を取り戻した孤児たちは、祖国ポーランドに送り届けられることになりました。
第一陣の50名ほどの孤児が横浜港から発つ時のことです。孤児たちは見送りの人々にしがみついて離れたくないと泣き叫んだと言います。
世話をしてくれた日本人は幼子たちにとって父や母のような存在になっていたからです。

見送る多くの日本人は子供たちに向かって、『君たちは元気で勉強に励み、大きくなったら偉大な祖国再建のために役立つような人になるんだよ』と、切々と励ましています。
これに対して、埠頭に並んだ孤児たちは感謝を込めて、国歌『君が代』を歌いだしたそうです。滞在中に習い覚えたのでしょう。
幼い彼らが涙を流して歌う『君が代』の調べが埠頭に流れました。・・・」

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神戸港から帰国のため乗船する孤児たち

写真はすべて「人道の港 敦賀ムゼウム」からお借りしました。

続く

ポーランドはショパンを生んだだけで人類に貢献していると思っています。
コペルニクスやキュリー夫人もポーランド出身ですが、科学的発見は、遅かれ早かれ誰かがします。
ショパンの曲はショパンにしか書けません。

ノクターン 遺作 嬰ハ短調
誰の演奏か分かりませんが、ポーランドの農村風景が入っています。

CDを聴かれるのであれば、クラウディオ・アラウの演奏がお薦めです。
ショパン:ノクターン集ショパン:ノクターン集
(1996/06/05)
アラウ(クラウディオ)

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気づきの旅

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先日、ある大手新聞社の社会部長をされていた知人が、しばらくぶりに遊びに来られました。
退職後の現在は、週に3日大学に通い、仏教の勉強をされています。
今年の1月から3月にかけて、四国八十八箇所、1300km以上を遍路された話をお聞きしました。

冬はお遍路の季節ではないそうですが、敢えて困難な時期を選んで巡礼されたのは、この方らしい選択でした。
普段歩かない生活をしているために、出発が近付いてからは、自宅から3時間かけて大学まで歩いたとのことです。

冬の遍路道は厳しく、四国とはいえ山の上は零下になり、誰一人歩いていません。やっと辿り着いた宿泊施設も休業している所が多く、寺の宿坊さえ閉まっています。
ある時、次の宿泊地まで、まだ15kmの寒い山道を歩いていた時、何でこんな旅をしているのだろうか、もう止めて帰ろうかと思い始めました。

山道を抜けた所に廃校があり、そこに悄然と腰をおろしていると、校門の前に車が止まり動こうとしません。
余り長く座っているのは不審がられると思い、立ち上がって歩き始めると車のウインドウが開き、これを食べてくださいとお菓子を差し出されました。有難く受け取ると、後部座席にいたお母さんも、何か買って元気を出して下さいと600円を差し出しました。

その人たちが去った後、有難くて、うれしくて、涙がとめどもなく流れ、いつまでも嗚咽が止まらなかったと言います。

この話を聞いて驚いたのは、丁度その前々日、作家の神渡良平さんの講演で同じ話を聞いていたからです。
神渡良平(かみわたり・りょうへい)さんは、38歳のとき脳梗塞で倒れ半身不随となりましたが、必死のリハビリで再起されました。闘病生活中に安岡正篤師の本に触れ、どんな人にもなすべき使命があってこの地上に送られていることを知ります。
闘病後に書いた、『安岡正篤の世界』他、多くのベストセラーを出されています。

神渡良平さんも四国八十八箇所を遍路されました。もともと脳梗塞のリハビリで健康を回復された方であり、健脚というわけではありません。
ある時、足が痛くて歩けず、道端に座ってもう止めようと思った時バイクが止まり、降りてきたおじいさんが200円を差し出し、これでジュースでも飲んで頑張って下さいと励してくれました。

神渡良平さんは有難く有難くて、涙が止まらず、鼻水を垂らしながら嗚咽したと言います。

まったく同じ体験を立て続けに聞いて感じたことは、普段なら有難みのない小銭に込められた優しさが、極限の心にとっては何にも増して励みになること、そして、精一杯頑張ってこれ以上は頑張れないという状況になった時には、不思議な手が差し伸べられ、勇気と励ましを与えてくれるのだと言うことでした。

このお二人の話にはまだ共通点がありました。
神渡さんは遍路道を歩くことは「瞑想」であると言い、知人は「立禅」であると言いました。
ひたすら無心に歩くことが、自分を見つめる時間となり、自分と人生について、多くの気づきを得たと言います。

神渡良平さんは、スペインの巡礼路である、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」も歩かれました。

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この巡礼路は、9世紀にイエス・キリストの12使徒、ヤコブの墓がスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見され、ヨーロッパ各地からこの地を目指す巡礼が始ってできたものです。
ヤコブの墓は、天使のお告げと導きによりに発見されたと言われており、墓の上に大聖堂が建てられ、世界遺産となっています。

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サンティアゴ・デ・コンポステーラの関係者が、四国八十八箇所の遍路道と姉妹関係を結ぶために調査に来ていましたが、冬の遍路道は誰一人歩いておらず、困惑していたところにお遍路さんの格好をした知人が差し掛かりました。

早速インタビューと撮影を受け、是非サンティアゴ・デ・コンポステーラに来てほしいと招待を受けたと言います。
スペインの調査スタッフも、英語で質問に答えるお遍路さんに、驚き、喜んだことでしょうが、これも天の配剤と言うべきかも知れません。

知人は途中で心がくじけそうになった時、何回も亡くなった父親が出てきたと言います。
お父さんは、自分は肺結核で肺を半分切り、100m歩くと息が切れて歩けなかった、おまえは立派な体を持っているじゃないかと励ましてくれたそうです。

四国八十八箇所のお遍路の意味について知人は、多くの寺が納経のお布施で豊かな経営をしており、僧侶も自分を高めるための修行をしているように見えない、お遍路とは納経したり願を掛けることに意味があるのでは無く、自分を見つめ、精一杯の努力をすることによって与えられる気づきに意味があるのでしょうと話していました。




先日の講演会で神渡良平さんが、ニック・ブイジッチさん紹介されていました。この方は生まれつき手足がありません。8歳の時に、自殺を考えたと言います。
しかし、人と自分を比べない、あきらめたら人生は終わりだと考え、すべてを受け入れ、喜んで人生を送るようになりました。

you tubeには、ニックさんがある学校で話をしていて、突然壇上で転んで見せる映像が出てきます。
手足が無くてどうして起き上がるのでしょうか。ニックさんは1冊の本があれば、手足が無くても立ち上がれることを見せてくれます。
笑っていた生徒たちは、感動に涙を流します。

この映像を見て、以前「ヘレン・ケラーの恩人 、 塙 保己一」でご紹介した中村久子さんの言葉を思い出しました。

「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」


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若い女性のホームレス

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〈若い女性のホームレスのその後〉

日本人は死んだか」でご紹介した、若い女性のホームレスを、娘が又見かけました。
相変わらず悄然と立ち尽くし、上目づかいで、おどおどと周りを見ていたと言います。
あまりにも気の毒で、何とかできないだろうかと思い、市の保護課援助事業の担当者に相談しました。

担当の方の話では、「その女性についてはたくさんの方からお電話を頂いており、何度も足を運んでいます。しかし、その都度走って逃げ、車と接触しそうになったこともあって保護できずにいます。
会話ができれば相談に乗ったり入院させたりできますが、自傷行為をしたり法律を犯しているわけではないので、強制的に保護できずにいます。駅の職員の方も何とかしたいと接触されていますが逃げられてしまい、残念ながら保護できません。これからも努力します。幼く見えますが未成年者ではありません」との話でした。

意外な話でしたが、やはり多くの人が心配していたことがわかり、日本人の優しさを知りました。
その女性に何があったかわかりませんが、心に大きな傷を持っていることでしょう。
その傷を癒せるのは愛だけです。何とかして愛を伝えられればと思います。

パウロの有名な愛の言葉をご紹介します。
クリスチャンなら知らない人はいないでしょうし、愛を語ってこれ以上の言葉はありません。

コリントの信徒への手紙 1-13章
「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 」


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「ありがとう」の反対語

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ありがとう」の反対語は、「あたりまえ」だそうです。
言われてみればその通りです。

花が咲いて、新緑が萌えること、雨が降り、日が射すこと、新聞や郵便が配達されること、電気があること、車が動くこと、着る服があり、住む家があること、仕事があり、給料がもらえること、当たり前のことです。

料理を作ってくれること、洗濯してくれること、掃除をしてくれること、親に育てられること、
家族がいること、友達がいること、目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、健康であること、
生きていること、当たり前のことです。
私たちは、与えられているものが失われるまで、有難いことだと思いません。

今日の延長で明日が来て、あさってが来て、あたりまえのように一日が過ぎてゆきます。
明日になれば朝が来て、朝になれば目が覚めて、そこに家族がいるはずです。当たり前のことです。

今日一日、健康でいられたことを、「自分自身」に感謝しようとして気づいたことがあります。
「自分自身」に感謝することは出来なかったのです。
私たちは意識して呼吸をしていません、意識して消化吸収をしません、意識して体温を36度に保っていません。
心臓も肺も肝臓も腎臓も胃も腸も、それぞれが勝手に自分の役割を果たしてくれています。
協力し合って体を維持してくれています。
何一つ自分でコントロールしていません。体が勝手に生きてくれています。

「自分自身」に、有難うと言うことは、自分自身の内側にあり、自分を生かしてくれている力、体全体を調和させ、命を維持してくれている力に対しての感謝でした。
その力は、人間を、動物を、植物を生かしている命です。すべてに共通する唯一つの命です。

人間が死に、動物が死に、植物が枯れた時、その有様はすべて一様です。
生けるものに宿る命、その命が失われた生と死の様は、すべて一様です。
その命を神と呼ぶとすれば、私たちの中に神が宿り、自分も他人も、犬も猫も、木や花も、すべてが神の命を生きています。

太陽の光や空気や水は、命を維持するために欠かせないものですが、あまりに当たり前に与えられているため、それに感謝することはありません。
私たちは無数の「有難い」ことを与えられて生きています。

昔の日本人が、今在ることはあたりまえではない、こうして生きていられることは得がたいことであると考え、「有難い」と言い慣わした言葉には、深い叡智がありました。

私たちの心から感謝や愛の心を奪う危険な無意識、「あたりまえ」を無くすために、いつも「有難う」を意識したいものです。






敵国から尊敬される武士道ー工藤中佐(1)

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    工藤俊作 中佐

このブログで何回かご紹介しています、「致知」という月刊誌があります。このような雑誌が存在すること自体、日本人の心が死んでいない証とさえ言える雑誌です。

3月号に、「仇敵に師と仰がれる日本人の生き方」と題して、ジャーナリストの恵隆之介さんのインタビュー記事が載っています。

昭和17年、スラバヤ沖海戦でイギリス艦船が撃沈され、多数の将兵が海に投げ出されました。
そこに一隻の日本の駆逐艦が通りかかりました。「雷(いかづち)」です。敵潜水艦が多く潜む中、艦長の工藤俊作は、「敵兵を救助せよ」と命令し、乗組員の約2倍の422人の敵将兵を助けました。
工藤中佐のこの行為は、英国海軍将校の魂を揺さぶり、真の武士道と言われました。

この事実は最近まで知られていませんでしたが、テレビの『アンビリバボー』でも紹介されたようです。
以下、恵隆之介さんのインタビュー記事です。

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  恵 隆之介さん

恵「平成15年6月、NHKラジオの「ワールドリポート」を聴いていて、私は身震いするほどの感動を覚えたのです。それはロンドン発のリポートでした。リポーターは、「このような美談が、なぜ日本で報道されなかったのだろうか」と興奮した口ぶりで語っていました。
番組に情報を提供したのは元海軍大尉で、後に駐スウェーデン大使などを歴任した、サムエル・フォールという元外交官でした。

ー工藤中佐に命を救われた一人だったのですね。
「はい。番組はフォール卿の次のような話を報じていました。
その時、400人以上の将兵たちは24時間近くジャワ海をボートや木板に乗って漂流しながら、皆すでに生存の限界に達していたと言うのです。
中には軍医から配られた自決用の劇薬を服用しようとする者もいました。

そういう時、目の前に突然駆逐艦「雷」が現れる。これを見たフォール卿は、「日本人は野蛮だ」という先入観から、機銃掃射を受けて殺されると覚悟を決めたといいます。ところが、「雷」は直ちに救助活動に入り、終日をかけて全員を救助した。

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    漂流するイギリス兵

フォール卿がさらに感動したのはこの後です。重油と汚物にまみれ、弱りきった将兵を帝国海軍の水平たちが抱えながら服を脱がせ、汚れを丁寧に洗い流し、自分たちの被服や貴重な食料を提供し、友軍以上に厚遇しました。
さらに工藤中佐が英国海軍士官を甲板に集めて敬礼し、「私は英国海軍を尊敬している。本日、貴官たちは帝国海軍の名誉あるゲストである」と英語でスピーチしたというのです。

ー感動的なお話ですね。
フォール卿も、「奇跡が起こった」「夢を見ているのではないか」と思って自分の腕をつねったと語っていました。そして最後に工藤中佐のこの行為を、「日本武士道の実践」と絶賛していたのです。

戦後生まれの私は、大東亜戦争中、日本は悪いことばかりしたという自虐史観の中で育ちました。
それだけにこの証言を聞いて言葉にならないほど感動を覚えました。
「ああ、自分が思っていたとおり、帝国海軍はやはり偉大だったのだ。これぞまさしく真の武士道だ」と。
文筆活動を通して、後世のためにもこの史実と工藤中佐のことを書き残さなければならないという使命感が、この時沸いてきたのです。

ー顕彰の動きはどのように進んだのですか
私はすぐにでもイギリスに飛んで、この老紳士に会いたいという思いに駆られました。フォール卿について調べていたところ、この年の10月に来日するという情報が入りましたので、横須賀で会っていただくことにしたのです。

ー印象はいかがでしたか。
すでに84歳という高齢でしたが、やはり本物だと思いました。心から工藤中佐と帝国海軍に感謝し、その姿勢を高く評価していました。帰国後、自伝を送ってくださったのですが、その本を開いて驚きましたね。巻頭に「この本を工藤中佐に捧げる」と記されているじゃないですか。

フォール卿と工藤中佐が同じ艦に乗っていた時間は、救助されオランダの病院船に引き渡されるまでのわずか二十時間ほどです。しかし当時20歳の彼にとって工藤中佐は、人生を変えるほどの影響力を与える人物となったのです。

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 救助されたイギリス兵                            フォール卿

ー忘れられない出会いとなった
実はフォール卿が来日したのには意味がありましてね。彼は戦後ずうっと工藤中佐の消息を探していました。しかし昭和62年、その8年前に中佐が他界していたという事実を知るのです。高齢でありながら来日を決意したのは、人生の締めくくりとして艦長のご遺族に感謝の意を伝え、中佐の墓前に参じたいという思いがあったからです。
しかし、残念ながら当時ご遺族の消息は分からず、その願いを果たすことができませんでした。そこで彼は「墓参もしたいし、艦長のご家族や「雷」の関係者に会ってお礼がしたい。是非力をかしてほしい」と私に頼んだのです。

ーご家族の消息はつかめましたか。
最初は難航しました。昭和59年に」亡くなったことは分かっていましたが、子孫に恵まれず家系は絶えていたのです。しかし数少ない「雷」の関係者を捜し当て、その一人の協力で、フォール卿と出会って三ヶ月後にようやくご遺族とお墓を突き止めることができました。
それを知らせた時のフォール卿の嬉しそうな声が今も耳に残っています。

ーフォール卿と恵さんとのお付き合いはその後も続くのですね。
翌年、私は返礼の意味を込めてイギリスにフォール卿を訪ね、工藤中佐について取材をしました。
フォール卿は心から喜び、戦友お二人をご夫妻で招いてパーティーを開いてくれました。
私はそこで日本の戦後の自虐史観を批判したところ、彼らは共感し、同時に工藤中佐に関する多くの情報を聞かせてくれました。

ただ帰り際、「貴君は武士道について知っているか」と質問された時、ハットしました。お恥ずかしながら、私は武士道とは単なる腹切だと思っていたからです。そしたらフォール卿は得々と話を始めました。
「武士道は日本人の道徳の規範だった。そして戦いにおいては、勝者は敗者の健闘を称えいたわることが武士道の基本である」と強調されたのです。

その説明を聞きながら私が痛感したのは、「武士道」という言葉を排斥し、日本人から誇りを奪ってきた戦後教育についてでした。
工藤俊作という実例を通して武士道というものを、この日本に甦らせることもまた自分の使命だという思いを私は強くしたのです。

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ーその後、フォール卿の墓参の夢はかなったのですか。
積年の願いがようやく実現したのは、昨年(平成二十年)十二月、ほんの最近のことです。

ーよろこばれたでしょう。
もちろんです。嬉しいことに、この時は政財界の有志を中心とする海軍中佐工藤俊作顕彰会が発足し、フォール卿を歓迎することができました。

ーフォール卿はご自身の思い出をどのように語られましたか。
式典を終えた後、私の手を握りながら、「人生最大の恩師の墓参を果たし、また日本の皆さんに対してスピーチができた。いま自分は人生最高の幸せを味わっている」と、感極まった様子で話してくれました。89歳で積年の願いを果たされた心中を思うと、私も胸がいっぱいでしたね。」

工藤俊作中佐の生い立ちや人となりにつきましては、次回ご案内します。
人は美しい花や風景を見て感動するように、美しい心と行いに感動するように作られています。
自らの魂が本来持っている真なるもの、善なるもの、美なるものが共鳴するからでしょう。
この内在された魂の崇高さは、真善美に触れることにより、本来の輝きを取り戻すことができるのだと思います。


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侠客の素養

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「古文真宝後集」 京都大学所蔵

不要ペット回収車」全面廃止の署名運動です。 匿名やニックネームでも署名出来ます。
動物の命は不要物ではありません。人間として許されないことです。
是非、署名にご協力下さい。

この署名活動をsumirekoさんのブログで知りました。皆様のブログでもこの活動を広めて頂きたく、お願い致します。 http://www.shomei.tv/project-345.html


早稲田大学の初代図書館長であった市島春城は、東京大学を中退後、24歳で故郷新潟で新聞社を創刊した。血気盛んな春城は、まもなく官吏侮辱罪で長野監獄に投獄されることとなった。

明治初年の大学中退は今では考えられないほど尊敬されており、春城は監獄内でも一目おかれ、囚人相手に法律を講じ、書を書いていた。
そこに信州きっての大親分である早川富五郎が入獄してきた。この男が春城に学問を教えてほしいと申し入れてきたため、春城は「古文真宝後集」を講じたが、この大親分はすでに大抵の漢籍を一人で読めるだけの素養があったと言う。

信州一の大親分だけあって、獄内にも多くの子分がいた。彼らは親分の師である市島春城を敬い、手厚くもてなしていたが、根底には学問に対する敬意があった。春城の出獄の日が近づいてきた時、富五郎と子分十数名は菓子や茶を買い、春城のために送別の宴を開き、大いに語り別れを惜しんだと言う。

その十数年後、進歩党の代議士となっていた春城が大隈重信邸に招かれた折、右目の下に紫斑がある男を紹介された。早川富五郎であった。
彼は国家について思うところがあり、大隈重信の進歩党に協力することになったのだ。(丸谷才一さんのエッセイより)

このエピソードから、明治の時には、たとえ侠客であっても学問の素養があり、国家を思う強い気持ちがあったこと、大学を中退した24歳の春城が、すでに自在に漢籍を講じていたことが分かる。

幕末、明治の頃、早川富五郎のような侠客がたくさんいた。

四国には高杉晋作が登場する小説によく出てくる、日柳燕石(くさなぎえんせき)という有名な侠客の漢詩人がいた。彼は幼い頃から儒学を学び、14歳までに四書五経を学び終えていた。(ここにも「6歳児が書いたお別れの言葉」に見られる優れた教育制度の成果をみることができる) 
彼は人侠心が強く1000人以上の博徒を束ねる大親分となった。国を思う心が強く、吉田松陰、木戸孝允、西郷隆盛などと交友し、彼らのために尽くしていたが、高杉晋作をかくまった罪により投獄された。

清水の次郎長は勝海舟から信頼され、勝から西郷への密書の護衛をしており、江戸城無血開城に関わっている。次郎長は居間に西郷隆盛、榎本武揚、山岡鉄舟、ナポレオン、ワシントンなどの肖像を掲げていたが、同業で誰が偉いかたずねられると「新門辰五郎だよ、あれくらいの人物はちょっといない」と答えている。
新門辰五郎は子分3000人を数え、町火消しを束ねる侠客だったが、勝海舟と交友があり、江戸城無血開城の後、徳川慶喜を守り静岡へ同行している。

寺子屋や私塾の教育は維新の志士たちに留まらず、社会の暗部にまで届き、日本を照らしていた。
今、日本の教育は良い学校に入り、良い会社に入り、豊かな生活を送るための道具になってしまい、人間性を育てる教育の目的を失ってしまった。

無論、過去の教育がすべて優れていた訳ではなく、教材を漢籍に頼っていたことや、科学的知識の欠如は時代の限界だった。しかし、教育の目的は時代や国を超えて変わらない。

日本人が作り上げ、失ってしまった素晴らしい教育を取り戻すことにより、日本は再び生まれ変わることができるはずだ。


参考:「日柳燕石
新門辰五郎
清水次郎長


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