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運命について考える

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何不自由なく恵まれた一生を送る人がいる一方、生まれた時から肉体的、経済的なハンディを背負って生まれて来る人がいます。
それは不条理で不公平なことでしょうか。

運命とは何か、なぜ運命があるのかについて考えてみたいと思います。

自分の身に起きて来ることはすべて偶然で、必然的な運命など無いと考える人もいるかもしれません。
しかしどのような親から生まれて来るか、親の経済的な状況はどうか、自分に与えられたDNAはどのようなものかなどによって人生は大きく左右されます。

さらに、どのような友と会い、どのような師につき、どのような異性と出会うかなどによって人生は変わってきます。
見えない糸によって導かれ、結ばれ、操られることがあります。
その見えざる糸、見えざる手も運命の計画と考えられます。

(運命か偶然か)
運命を考える時、人の魂は永遠で輪廻転生を繰り返すものでなければ説明がつきません。
魂が存在せず人生が一回きりであるなら、生まれる前からの人生の筋書きが存在するはずがないからです。

人生はすべて偶然の産物であり、人生で学んだことは死と共にすべて失われるのであれば、人生にたいした意味はありません。

(魂の成長)
人は生まれ変わりを繰り返し、様々な人生を経験して魂を成長させます。
人は自分の魂の成長にもっともふさわしい両親・環境を選んで生まれて来ます。

もし大金持ちで優れた遺伝子を持った親を選べば、三次元的には恵まれた人生が約束されますが、そのような人生が魂の学びにとってふさわしいかどうかはわかりません。

以前の記事「本当に幸せな人」でご紹介したCoCo壱番屋の創業者・宗次さんのように、両親を知らず孤児院で育つような厳しい環境のなかで魂を成長させた人もいます。
宗次さんは、そのような環境を選んで生まれてきて、見事課題をクリアーしたのだと思います。

しかし人は本当に両親や家庭環境や自分の肉体的条件を選んで生まれてきたのでしょうか。
そうであると思える証拠があります。
そのことは次に記したいと思います。






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6歳児の書いたお別れの言葉ー続き 再掲

小さな人生論〈2〉「致知」の言葉小さな人生論〈2〉「致知」の言葉
(2005/10)
藤尾 秀昭



あの忌まわしい池田小学校の事件の折、先生たちがパニックになり右往左往していた時に、3人の子供が相談して110番しました。この子供たちは丹養塾幼稚園の卒園生でした。
残念ながら園長先生が亡くなられた後、丹養園幼稚園は運営されていません。

「お別れの言葉」で送られた園長先生は吉田良次先生といいます。
兵庫県伊丹の農家の後継ぎとして生まれました。師である安岡正篤氏に出会ったのが昭和24年、18歳の時でした。「自分の人生は一介の農民としてこのまま終わっていいのか」その煩悶が師の門を叩かせました。以来、吉田さんは農業に励む傍ら、安岡正篤氏の教えによって古典の偉人たちの考えを学びました。

吉田さんはその学びを後世に伝えるべく、自宅の納屋を改築し、「丹養塾幼稚園」という保育園を開設し、古典の徹底した素読教育を実践したのです。

 園児たちの1日は、朝30分の"勤行から始まります。本居宣長などの「和歌」や三輪執斎の「憤」など古典の名言を唱和させます。意味は教えず、吉田さんが朗誦し、その後を子供たちが唱和します。ただそれを繰り返すのですが、この繰り返しが驚くべき力を発揮したのです。

1年もしないうちに、どの子も古典の名言をすらすらと朗誦するようになったのです。それだけではありません。新しく入ってきた子は年上の子に倣って朗誦し、いつか漢字まじりの原文を読み、書き、意味を理解するようになっていきました。

重要なポイントを整理すると

1.素読の重要性
古典を原文のまま繰り返し素読することによって、原文の持つ格調やリズムを覚える。
ヨーロッパではシェークスピアや聖書の文言を暗誦させます。

2.丸暗記の重要性
素読によって暗記したことは成長過程でその意味を理解し、気づきや指針となる。

3.幼児期に本物を教える
子供の能力に限界はありません。バッハの音楽を聴いて育てばバッハが好きになり、名演奏を聴かせれば名演奏に感動できる感受性が育ちます。
よく引き合いに出すバイオリンの才能教育は、バイオリンを始めたばかりの子供たちに名演奏を聴かせます。古典の素読です。

昔の日本人の教えに間違いは無かったと、あらためて痛感させられます。





6歳児の書いたお別れの言葉ー丹養塾幼稚園

小さな人生論〈2〉「致知」の言葉小さな人生論〈2〉「致知」の言葉
(2005/10)
藤尾 秀昭

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 致知出版社刊行の藤尾秀昭著「小さな人生論2」のなかに、6歳の女の子が書いた幼稚園の園長先生に対するお別れの言葉が紹介されています。
とても6歳の子どもが書いた文章とは思えませんが、このような子どもを育てた園長先生の教育こそ、かつての日本人を育てた教育だったのでしょう。
日本を取り戻すとは、教育を取り戻すことであると改めて痛感します。

『お別れの言葉
園長先生、歩未の声が聞こえますか。2歳10ヶ月の時、丹養塾幼稚園に入園してから、漢字、算盤(そろばん)、諺、俳句、花園文庫、伝記、少年日本史朗誦選集など、園長先生には沢山の事を教えて頂きました。

毎日一生懸命勉強して南宋の文天(ぶんてん)祥(しょう)の正氣(せいきの)歌(うた)を暗誦できるようになった時も、算盤の大会でトロフィーを貰って来た時も、園長先生はとても喜んで褒めて下さいました。

それから園長先生は色々なところに連れて行って下さいました。北海道巡歴研修でクラーク博士の像の前で「青年と大志」を朗読した事、青森文字色駅のデパートの軒先で野宿をした事、北陸巡歴研修で、永平寺で座禅をした事、橋本左内の銅像の前で啓発録(けいはつろく)を読んだ事、沢山の楽しい思い出があります。

他にも、親子教室甲山の遠足、運動会、お餅つき、立志集、卒園式、小音楽会、桃太郎の劇など園長先生に教えて頂いた素晴らしい思い出が沢山出来ました。

これから園長先生は天国へ行って、私達の事を見守っていてください。

私達は、園長先生に教えて頂いた事をいつまでも忘れず深くさぐって強く引き出す人になります。天から受けたものを天にむくいる人になります。そして、この世に役立つ人になります。園長先生、ありがとうございました。 
平成15年11月23日 園児代表 吉田歩未』



私達は、園長先生に教えて頂いた事をいつまでも忘れず、深くさぐって強く引き出す人になります。天から受けたものを天にむくいる人になります。そして、この世に役立つ人になります。園長先生、ありがとうございました。

こんな表現が6歳児にできるのです。園長先生の教育のすばらしさに心を打たれます。
親や先生が引き出せば、子どもの能力には限りがないのです。

バイオリンの才能教育研究会の創始者 鈴木鎮一先生が、「どの子も育つ、育て方しだい」と言い続けられたことを思い出します。


追記:
橋本左内が啓発録を書いたのは14歳の時でした。人に見せる為ではなく、自分を戒め、向上さすための自戒録として書かれています。昔、12歳から15歳位の間に元服式を行い、大人として自立する覚悟を決めましたが、20歳の成人式が何の意味も持たない現在と比べて、かっての日本人の素晴らしさを痛感する文章です。

つづく
愛に生きる―才能は生まれつきではない (講談社現代新書 86)愛に生きる―才能は生まれつきではない (講談社現代新書 86)
(1966/08)
鈴木 鎮一

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外国語通訳と国語

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―私たちはある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。
祖国とは国語だ。それ以外の何ものでもない。― エミール・シオラン

アメリカとイギリスの大学で教えていた数学者の藤原正彦さんは、国語教育こそ教育の中心でなければならないと力説してきました。しかし早期の英語教育こそ最も大事と考えるわが国の風潮により、小学校3年生から英語教育が行われることになり、国語教育はさらに軽視されることとなりました。

英語がしゃべれたら幸せになれるわけではないし、経済が発展するわけでもないのに、なぜそれほど英語教育に夢中になるのでしょうか。
明治以来、日本は目覚ましい発展を遂げましたが、それは英語が話せたからではありません。日本人の英語能力はアジアの中で最下位に近いでしょうが、それでも世界2位の経済大国となれたことは、英語と国の発展が無関係であることを証明しています。
必要性に迫られなければ英語は身につきません。英語は必要な人が学べば済むことです。

通訳や翻訳の仕事も国語能力が重要ですが、イタリア語通訳の田丸公美子さんが書いた、「パーネ・アモーレ(パンと愛)」という本は、一流の通訳者が一流の国語習得者であることを示しています。

パーネ・アモーレ―イタリア語通訳奮闘記 (文春文庫)パーネ・アモーレ―イタリア語通訳奮闘記 (文春文庫)
(2004/09)
田丸 公美子

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この本の愉快な記事を紹介します。
国際会議で知り合った、英露仏伊スペイン語の5人の女性通訳者たちが、たまに会って食事をし、情報交換していました。みんなのスケジュール調整をしてきたフランス語通訳が連絡をさぼったらしく、ロシア語通訳の米原万理さんが直接みんなのスケジュールを確認しようとします。

米原万理さんは、連絡をさぼったフランス語通訳のことを、「プッツン」、下ネタを連発する田丸公美子さんを、「シモネッタ」、スペイン語通訳を「ガセネッタ」と名づけました。
逆に、田丸さんは英語通訳の徳永晴美さんを「西太后」、ロシア語通訳の米原万理さんを「東太后」と命名しています。

「西太后と東太后」より
『・・・・そしてある日、万里姫から突然ファックスが送られてきた。表の縦軸には月日、横軸には四人の名前が書いてある。会えそうな日にマルをつけて返信せよ、全員のマルがそろう日に夕食会決行、とある。添付のレターにはこうある。

「さて、酒とて麻薬とて、絶ってから久しくなると禁断症状もなくなってくるとか・・・。失われた恋の痛手か、新しい恋の虜か、近頃すっかり“ロジスティックの”という形容詞を返上しているプッツンに任せておくと、皆様一同あの魅惑的な味を失念してしまい、結構なければないですむものなのね・・・などと納得されてはならじと、物を食う速度とオーガナイズの迅速さだけは人後に落ちぬと自負する拙者が乗り出すことにいたしました。

民主的、水平的ではあるものの回覧板方式ですと、プッツンのところでプッツンしてしまうので、強権中央集権方式で参ります。私がお送りします表に、その日の夜(十九時以降)都合がつく場合はマル、ダメな日はバツをつけて速やかにご返送ください。ご返送くださらない方は、出席のご意思なきものとみなします」

欲求不満の姫をおなぐさめするのは私の役目、表とともに返送した私のレターをご披露しよう。

「東太后万里さま
たった一人の分別のないパリ娘のただ一度の過ちで、早くも強権発動となった事態を見るにつけ、歴史上の恐怖政治の始まりもきっと、かような、言ってみれば取るに足らないことが原因であったろうと思いを馳せているのでございます。

それにしても、わたくしが最も秘すべきこととしております毎夜の予定を、なんと二十二日にもわたって東太后さまに管理される日が来ようとは・・・ジョージ・オーウェルの「1984年」は本当のことだったのでございますね。

先ほど、その心ない張本人から電話がございまして、『何よ、これじゃ万里の予定は私たちにはわからないわけ?万里がロシアに行くって言ったからこうなったんじゃない。私の希望はね・・・』とのたまいます。わたしは即座に、『「東太后さまが望んでいらっしゃるのは希望でもコメントでもなく、ただマルバツ式の答えだけなのです』と強く諫(いさ)めておきました。しかし、身勝手で出たとこ勝負、無責任という通訳の属性をすっかり身につけたパリ娘は、それに懲りず、彼女の都合の良い日にあわせろと、わたくしに裏工作に加担するように迫るのです。

確かにわたくしは、あらゆるおのこに情けをかけるたぐいまれな慈悲の持ち主です。しかし厳寒のシベリアもかくやと思われるほど冷徹な太后さまに反旗を翻すなどという行為に、たとえコウモリ派と信じられている私とて加わるわけにはいきません。そこでパリ娘の言動を逐一報告すると同時に、太后さまが重用していらっしゃる方々の真の姿もあわせてご報告し、是非わたくしめを今後は摂政としてご登用いただけるよう伏してお願い申し上げる次第でございます。

何を隠そう、Tさんは常日頃からあなたさまの若さと美貌をねたんでおり、今度ご一緒に行かれるシベリアで、あなたさまを亡き者にすべく計画を練っております。ガセネッタはあなたさまの豪邸と権勢をおもしろからず思っており、プッツンはあなたさまのご多忙さと年収をいたく羨望、憎悪しております。

今回の日程表、わたくしだけが持っておりますあなたさまへの忠誠心をおみせするため、すべてマル印がついておりますが、実のところは、毎夜殿方のお求めで一杯なのでございます。
人を食う速度とオーガズムの迅速さでは人後に落ちないシモネッタより」

翌日、この余興をいたくお気に召した万里姫より、あとの三人にファックスとともに私の手紙が送られた。
「強権発動後一夜明けて、シモネッタより次のようなお便りが舞い込みました。こんな傑作、私が一人占めするのもったいないから、背信じゃなく配信します」

たかが夕食の約束のために、こんな大仰なことば遊びをしてしまう。これも通訳の性であろうか。

一歳から保育園に預け、放任いや、近所に放牧状態で育てたわが愚息は、ひょうたんから駒で、質実剛健の校風が有名な進学校に入学した。父母は当然教育熱心なエリートが多い。
中一のときの保護者会で、ひとりのお母さんが近寄ってみえ、私に小声でささやかれた。
「雄太君のおかあさんですか。こんなこと申し上げてもよろしいかしら。実はうちの息子が申しますには、雄太君に巨乳のヌード写真集を見せていただいたとか・・・・」
私は答えた。
「うちの子に限ってそんなはずは・・・・。だって巨乳は嫌いだ、手に入る小ぶりサイズが好きだっていつもいっているんですのよ」
当のお母さまは、二の句が告げず黙って行ってしまわれた。帰宅した私は、息子に言った。
「お前、ヌード写真集を友達に見せるくらいなら、まずパパに見せてあげなさい」
この会話を披露した主婦の友人は、「まあ、そんなこと言うと変な親だと噂が立って息子さんがかわいそうよ」
これが常識人たるべき反応であろう。

通訳仲間の反応はというと、東太后万里さまは、「そんなときは、まあそれ、ただでお見せしたんですの? と言うべきよ」
西太后Tさんにいたっては、「あら、いつ私のヌード写真集を持ちだしたのかしら、恥ずかしいわって言えばよかったのに」である。
さすが通訳、皆常軌を逸している。その言葉を伝えた思春期の息子は吐き捨てるように言った。
「だから通訳の母親なんてほしくないんだ。最低」・・・・』


田丸公美子さん著書一覧



日本語の力

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千葉県市川市の元高校教師、小関光比古さんが、「日本語の美しさ 後世まで」と題して読売新聞に投書されていました。ご紹介します。

『「雪辱」という言葉を久しぶりに耳にしました。最近は、復讐を意味する英語の「リベンジ」に取って代わられた感があります。
雪辱は「辱(はじ)を雪(そそぐ)」ということです。そこから、試合などで前に負けた相手に勝つことも意味します。雪辱には漢字ならではの美しさがあります。語感には落ち着いた響きがあり、改めて日本語の美しさに気づかされます。

在職中、高校生を対象に、流行語や若者言葉と、古来の日本語のどちらが美しいかを調査したことがあります。その結果、生徒が美しいと感じた言葉は、圧倒的に古来の日本語でした。「時雨」「五月雨」「如月」などを美しいと感じ、「うざったい」「ださい」「きもい」などは汚いと感じていたのです。
カタカナ語や略語が氾濫し、美しい日本語が消えていくことが残念でなりません。
言葉は変わりゆくものと重々承知した上で、だからこそ、美しい日本語を残していきたいという思いを強くします』



まったく同感です。雪辱には名誉を回復するという意味がありますが、リベンジの第一義は復讐であり、スポーツマンシップにふさわしい言葉ではありません。
似たような英語の乱用に「リスペクト」があります。若者たちはむやみに「リスペクトする」と言いますが、別に相手を尊敬しているわけではなく、単にはやり言葉を使っているに過ぎません。このように若者たちが無批判にはやり言葉を使う背景には、マスコミによる言葉の垂れ流しがあります。


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秋田にある国際教養大学で3年間学んでいる留学生の話です。個人主義の欧米人でありながら、一緒にいる人が少し寒そうだと思えば窓をサッと閉める心配りをします。そのような心遣いができるようになった理由について、間違いなく日本語のお陰だと言います。
日本語には、尊敬語、丁寧語、謙譲語など、相手の立場や気持ちを配慮する豊かな言葉があります。その言葉を使っている内に、相手を思いやる気持ちが身について来たのでしょう。

一例で断定するのは早計かも知れませんが、日本語であればそのような力があるのではないかと納得させられる話です。
勿論日本語であっても、汚い言葉や乱暴な言葉を覚えれば、そのような性格になるでしょう。
もしかしたら親切な人が多い、秋田の風土も影響しているかも知れません。

世界で最も豊かな言語が日本語です。
小関さんが投書で例に出された、「時雨」「五月雨」の他、日本語には、春雨、秋雨、氷雨、夜来の雨、通り雨、にわか雨、小糠雨、篠突く雨、恵みの雨など、雨に関する多くの言葉があります。
『広辞苑』には雨に関する見出し語が、何と185あると言います。こんな言語は他にありません。


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先日「舟を編む」という映画を見ました。
2012年度の本屋大賞第1位に輝いた、三浦しをん原作の、「舟を編む」の映画化ですが、とても丁寧に作られた良い作品でした。

玄武書房という出版社が、15年の歳月をかけて、24万語収録の『大渡海(だいとかい)』という辞書を作り上げていく話です。「舟を編む」とは、言葉の海を進んで行く舟である辞書を編纂することを意味しています。
主演の松田龍平は、辞書編纂に携わる、ネクラで人とのコミュニケーション能力の無い主人公、馬締(まじめ)光也を好演しており、妻となる宮崎あおいも魅力的な演技でした。


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この映画を見ていて思ったのは、『広辞苑』や『大辞林』、『大辞泉』のように、24万語を収録するような大部な辞書は、もう作れないのではないかということです。10数年の歳月と努力と費用を傾けて完成しても、買う人はほとんどいないでしょう。
パソコンで文書を作るのに辞書は必要ありません。多分、多くの人が何年も辞書を使っていないのではないでしょうか。
字を調べるのに携帯電話を使っている人もたくさんいます。

パソコンやスマートフォンに係わる時間が増え、読書人口が減っています。
簡便さには副作用があり、その追求の先には底の浅い文明があるような気がします。
日本の文化と日本人の心を作ったのは日本語の力であり、日本語を失うことは日本を失うことを意味するのだと思います。
そのことを忘れてはいけないと思います。



国際教養大学の成功のヒミツ ーセンター試験の成績は東大文系並




中嶋嶺雄学長のご逝去を悼む

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秋田の国際教養大学の中嶋嶺雄学長が逝去されました。
突然の訃報に接し、驚きを禁じ得ません。
秋田の小さな公立大学を、あっという間に東大に並ぶような難関大学に育てられ、教育の新しい姿を示されました。
様々なメディアが国際教養大学と中嶋学長を取り上げ、その優秀な学生を求めて、全国から数多くの大企業が秋田に足を運んでいます。今、最も注目されている大学と教育者でした。

中国研究の第一人者である中嶋先生は、中国の脅威について早くから警鐘を鳴らされていました。しかしその忠告に耳を傾けることなく、日本は中国に過大な投資を行い、抜き差しならぬ関係に立ち至ってしまいました。
目先に惑わされず、本質を見抜く目を持った方でした。

1年ちょっと前、秋田でおいしい中華料理をご馳走になりましたが、あのお元気な中嶋学長が亡くなられるとは、想像すらしないことでした。
秋田とのご縁を作って頂きましたことに感謝します。
ご冥福をお祈り申し上げます。

≪追記≫
国際教養大学の学生たちのブログ「国際教養大学を日本全国に広め隊」に、学生たちの中嶋学長に対する思いが語られています。
学生たちから、これほど慕われた学長はいなかったのではないでしょうか。また自分が学長を務める大学を、これほど愛した人はいなかったと思います。
学生の言葉をご紹介します。

『もし自分がまた19歳に戻ったら、という質問に対して
「国際教養大学に入学して学びたい」
とお答えになった学長が忘れられないです。
「国際教養大は中嶋が命がけで育てた大学です。」と学長の奥さん。

どれだけ素敵な大学を創ってくれたのか、感謝の気持ちでいっぱいです。』


中嶋嶺雄
開校から8年、国際教養大学が東大と肩を並べた理由
秋田に起きた奇跡 国際教養大学
国際教養大学を日本全国に広め隊
スズキメソード

心の贈り物

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Photograph 国立情報学研究所 


読売新聞の特別編集委員である橋本五郎さんが、読売新聞の「五郎ワールド」で、哲学者の今道友信先生の著書を紹介していました。

『大学院の頃、ライバルでもあった友人が肺結核で入院しました。彼は大学の売店でアルバイトをしている娘さんに恋をしていました。しかし、貧しい家の彼女との結婚は両親が許さないことも知っていました。

そんな彼をギリシャ哲学の泰斗、斎藤忍随先生と一緒に病院に見舞いました。有名ブランド「モーツアルト」のチョコレートを一箱持参しました。

病室で彼は言いました。「嬉しいことがあったんだ。サエ子さん(恋人)がチョコをくれたんだ」。それはたった一枚の板チョコでした。貧しいゆえに一枚しか変えなかったのでしょうが、彼には何よりもうれしく、見せびらかすのでした。

その時、僕は無思慮にも「実は僕たちもね・・・」と、鞄からチョコの箱を取りだそうとしました。斎藤先生はすかさず「僕達も何か持ってくるべきだったなあ」と言って、僕を売店に連れていきました。そして板チョコよりも安いキャラメルを一箱買い病室に戻りました。

先生は「僕達は忙しくて何もお土産を持ってこられなかったんだよ。これで勘弁してくれ。喉にはいいよ」と渡しました。
・・・・
美しい心、美しい行為です。今でも斎藤先生の温かい心づかいに涙ぐみます。』(今道友信東大名誉教授「今道友信 わが哲学を語る」かまくら春秋社)

今道友信わが哲学を語る―今、私達は何をなすべきか今道友信わが哲学を語る―今、私達は何をなすべきか
(2010/07)
今道 友信

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今道先生のお年から考えると、このエピソードは昭和20年代の出来事でしょう。その時代にモーツアルトチョコレートがあったことに驚きますが、入院していた友人はきっとモーツアルトファンで、彼を喜ばそうとして当時貴重なモーツアルトチョコレートを持って行ったのでしょう。

この記事を読みながら、自分も多分持ってきたチョコレートを渡さずに帰っただろうと思いましたが、キャラメルを買いに行くことはしなかったはずです。
彼女の板チョコより安い一箱のキャラメルを渡す行為には、やさしい思いやりが溢れています。
キャラメルを受け取った友人にも、その思いやりは届いたはずです。

貧しさや身分の差を越えた恋愛が、かっては文学の大きなテーマでした。貧しさが恋愛を際だたせるのは、金や物を離れて、愛のみが二人を結びつけているからでしょう。高価なプレゼントではなく、一枚の板チョコであるが故に、愛の純粋さが伝わってきます。
もし一枚の板チョコさえ買えず、道端に咲いている小さな花を手折って渡したとしても、大きなバラの花束以上にうれしかったはずです。

心で見るもの」に書きましたように、すべての価値は心から生まれます。家族や友人や恋人の大切な思い出、あるいは感動の体験も、心から生まれ、心の中だけに存在します。
お金や物は生きていく上で大切なものですが、この世限りのものであって、いくら大金を稼ごうとも、1円たりとあの世に持って帰ることはできません。
しかし、魂に刻んだ経験や学びは輪廻転生を繰り返しながら、永遠に心の中に存在します。

人生の価値とは、そのようなかけがいのない思い出や感動や気づきを積み重ねることであり、同時に不幸や挫折や辛い体験であっても、魂の学びにとって一つ一つがかけがいのないものであるはずです。

橋本五郎さんは、読売新聞の書評欄で「今道友信 わが哲学を語る」をこう評しています。
「碩学がたどり着いた終着駅にあるのは平凡すぎるほど美しいヒューマニズムである。哲学は決して遠くかなたにあるものではない。そう語ろうとしたことが実に感動的なのである。」

真理は遠くにあるものでも、難解なものでもないはずです。
喜び、悲しみ、苦しむ、その一つ一つの体験を通して、すべての生の営みが神と言う愛の御手の中にあることに気づくために、我々は生かされているのだと思います。




縁を生かす

今日(9月6日)の日本経済新聞と産経新聞、北海道新聞他の地方紙に『致知』の一面広告が掲載されました。
しかし、他の全国紙を読まれている方々にも、この感動的な実話を知って頂きたくご紹介します。

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その先生が五年生の担任になった時、
一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。
中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。

ある時、少年の一年生からの記録が目に留まった。
「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。 勉強もよくでき、将来が楽しみ」
とある。間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。
二年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」
と書かれていた。

三年生では
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」

後半の記録には
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」
とあり、四年生になると
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」

先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、
深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。
先生にとって目を開かれた瞬間であった。

放課後、先生は少年に声をかけた。

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?
 分からないところは教えてあげるから」

少年は初めて笑顔を見せた。

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。
授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。

クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。
亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、
先生の胸に顔を埋めて叫んだ。

「ああ、お母さんの匂い! きょうはすてきなクリスマスだ」

六年生では先生は少年の担任ではなくなった。
卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。
「先生は僕のお母さんのようです。
そして、いままで出会った中で一番すばらしい先生でした」

それから六年。またカードが届いた。

「明日は高校の卒業式です。僕は五年生で先生に担当してもらって、
 とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」

十年を経て、またカードがきた。
そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた体験があるから
患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。

「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。
 あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、
 神様のように感じます。
 大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、
 五年生の時に担任してくださった先生です」

そして一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。

「母の席に座ってください」

と一行、書き添えられていた。

・。。・゜゜・。。・゜・。。・゜゜・。。・゜・。。・゜゜・。。・゜゜・。。・゜゜・。・゜゜・。。・゜゜

本誌連載にご登場の鈴木秀子先生に教わった話である。

たった一年間の担任の先生との縁。
その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠り所として、それからの人生を生きた。
ここにこの少年の素晴らしさがある。

人は誰でも無数の縁の中に生きている。
無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。
大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。

『致知』2005年12月号 総リード



人との出会い、本との出会い、様々な出会いの感動が人生を変えます。
出会いを生かすためには、美しいもの、善なるものに感動できる素直さが必要ですが、もののあわれを知る日本人には、その心が連綿と受け継がれているはずです。

『致知』という雑誌の発行部数は12000~13000部程度のはずです。
資金力の無い(失礼)『致知』がこれほどの新聞広告を出すのは、方向性を見失った日本人が立ち返るべき道は、かつての日本人が目指した徳の道以外に無く、一人でも多くの人にそのことを伝えたいとの強い願いからだと思います。
『致知』のメルマガもありますのでご覧ください。






国際有機認証「しらい田七人参」
Tag: 到知

教育勅語を読んでみる

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国民道徳協会


教育勅語は軍国主義教育に繋がるものとして、昭和23年に排除されましたが、一体、その内容のどこに問題があるのか読んでみました。
不勉強で、教育勅語を読むのは初めてのことです。

以下が教育勅語が説く、12の徳目です。

1.親に孝養をつくしましょう(孝行)
2.兄弟姉妹は仲良くしましょう(友愛)
3.夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
4.友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
5.自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
6.広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
7.勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
8.知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
9.人格の向上につとめましょう(徳器成就)
10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
11.法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
12.正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)
(Wikibooks)

当たり前のことばかりで、どこに問題があり、なぜ否定されなくてはならないのか理解できません。
要は明治天皇の言葉であること、天皇中心の国家観が許せなかったということでしょう。思想や良心の自由を否定しているなどの議論は付けたしに過ぎません。
第一、良心の自由などと言うものがあるのでしょうか。仏陀やイエス、あるいは偉大な思想家たちの言葉が我々の心に響くのは、真理が個人や時代の価値観を越え、永遠不変であることを示しており、良心と個人の主観とは無縁なはずです。

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勅語発布50周年記念切手(1940年発行)wikipedia

大阪の塚本幼稚園南港さくら幼稚園の籠池靖憲園長は、教育勅語を園の柱にし、毎朝園児たちに国家斉唱と教育勅語を朗誦(ろうしょう)させています。
この話が共同通信から全国の新聞に配信されると、全国から毎日2000通ものメールが送られてきました。
その内容は抗議や中傷ではなく、「塚本幼稚園、がんばれ」というものだったと言います。
教育崩壊の中で、真の心の教育を多くの人たちが求めている証でしょう。

知致」の5月号に籠池園長の対談が掲載されていました。

『当園では毎年4歳児には伊勢神宮に参拝させます。数年前、不思議なことが起こりました。参拝の際、玉垣の前で園児が教育勅語を朗誦した時に、すだれが風に舞ったのです。それも一時的にではなく、教育勅語を朗誦中にずっと続きました。
神主様をはじめ、関係者も皆驚きまししてね。「あぁ、神様まで喜んでくださっているんだな」と思いました。』

『今年の卒園式では、なんと園児たち全員が声を上げて泣いてくれました。それを見た先生方や親御さんたちも感動の空気に包まれました。
私は、これは子供たちからのメッセージだと捉えています。「頑張って」と。
その瞬間、我々は感動教育、心の教育の大切さを骨の髄まで感じました。』

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南港さくら幼稚園より拝借 クリックで大


この幼稚園で学んだ子供たちに、弱い者いじめは無いはずです。人生で大切なものは何かを学ぶはずです。以前の記事「6歳児が書いたお別れの言葉」でご紹介した「丹養塾幼稚園」を思い出します。

戦後の日本的精神の排除は、皇室や軍国主義など、表面のレッテルだけで、善も悪も吟味せずに否定するものでした。その短絡した分かりやすさが、安易な断罪を許したのでしょう。
アメリカの映画や音楽が伝える自由と豊かさへの憧れも、日本的なるものの放棄を促した一因だったでしょう。

教育勅語に代わる「教育基本法」の無機質と対比してみると、僅か315文字の教育勅語は暗誦に耐えうるものであり、その徳目を心に刻みつけるのに適しています。
尚、教育基本法は平成18年の安倍政権の折に、国を愛する文言が付け加えられましたが、この時、それが押し付けであると反対した教師の集団がありました。
信じられないことですが、国歌斉唱を拒否した人が首相を務める、今の日本の病根の深さが現れています。

明治天皇が教育勅語を出されたのは明治23年10月30日で、わが国の守り続けるべき大切な心の規範が、洋学偏重の世相の中で軽んじられることを危惧され、発布されたと言います。

自分さえ良ければ人はどうでも良いと考えるエゴイズムや、金や物だけを追いかける拝金主義が蔓延し、日本人の心が崩壊しつつある今、教育勅語とは何であったのかを、先入観なしに考えてみるべき時にあるのではないでしょうか。



【参考】
【教育勅語の口語文訳】
私(注:明治天皇)は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 

  国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

  このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(国民道徳協会の訳文)

≪読み下し文≫
朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。
我ガ臣民(しんみん)、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ、世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ、此(こ)レ我ガ國体ノ精華(せいか)ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)、亦(また)実ニ此(ここ)ニ存ス。

爾(なんじ)臣民、父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、学ヲ修メ、業(ぎょう)ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ、進ンデ公益(こうえき)ヲ広メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重(おもん)ジ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急(かんきゅう)アレバ、義勇公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以テ天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。

是(かく)ノ如(ごと)キハ、独(ひと)リ朕ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風(いふう)ヲ顕彰(けんしょう)スルニ足ラン。
斯(こ)ノ道ハ、実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓(いくん)ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所、之(これ)ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラズ。
朕、爾臣民ト倶ニ拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ咸(みな)其(その)徳(とく)ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。

明治二十三年十月三十日
御名 御璽(ぎょめい ぎょじ)




恥の文化の終焉

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National Geographic

電車の中で化粧をする女性や、物を食べる若者の姿には、残念ながらもう驚きません。
しかし、スーツ姿で電車のホームに座り込む若者の姿を見た時には驚きました。
おそらく新入社員で、就職する前の癖が出たのでしょうが、土足で家に上がり込むような違和感を覚えました。
(今の日本で、こんなことに驚いてはいけないのかも知れません)

躾ができない親が増え、道徳教育が失われた結果、恥やルールを知らずに育った子供が増えてきましたが、彼らに社会のルールやしきたりを教える、最後の砦が会社でした。

会社は甘えの許されない世界で、ルールを守れない人間、だらしがない人間、上司の命令に従わない人間を許しません。
甘やかされて育った人間に厳しさを教え、社会のしきたりを教える最後の教育機関が会社であり、日本の社会を規律正しく、健全に保つための安全弁でした。

ところがバブル崩壊後、終身雇用制度が揺らぎ、会社は派遣社員やアルバイトを増やすことで経費を削減するようになりました。
フリーターと言う名前が生まれ、ルールに縛られない生き方を選択する若者が大量に生まれました。
その結果、最後の教育機関が揺らいできたのです。

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ルース・ベネディクト

日本の文化は美意識の文化です。恥をさらすことが何より辛いのは、それが美意識に反するからでしょう。

切腹は単に死を以って責任を取ることではなく、美しく散るための儀式であり、儀式であるためには、茶の湯や生け花のような美しい所作、手順が必要でした。
茶道、華道、剣道、合気道他、日本の文化が道となるのは、様式美と精神性が一致した結果です。

社会学者のルース・ベネディクトは、「菊と刀」で、キリスト教の罪の意識の代わりとなるものが、日本人の恥であると分析しましたが、恥には善悪と美意識が含まれており、罪の意識よりも、さらに美的な心の働きと言えます。

しかし、恥が日本人の行動規範であると言えなくなって来ました。

一国の総理や国会議員が平気で嘘をつき、恥じることが無い現在の日本の深刻な心の崩壊を見る時、冒頭の若者を非難することは出来ないでしょう。

そして、そんな国会議員を選んだのは国民であり、つまりは我々一人一人の心の現われが、国会議員や政党に投影されていることになります。

7月の参院選挙が近づいてきましたが、今回の選挙は日本の命運を決める重要な選挙となります。
恥を知らない人間が国の未来に関わらないよう、国民の正しい選択を祈るばかりです。





国際有機認証「しらい田七人参」

ローマの盛衰が語ること

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一つの国が滅びるのは、戦争によってではない。天変地異でもなければ、経済破綻によってでもない。
  国民の道徳心が失われた時にその国は滅びる
」  歴史学者アーノルド・トインビー



古代ローマ帝国は1000年も続き、その規模は一時期、西ヨーロッパ全域に広がっていました。
すべての道はローマに通じ、世界遺産がイタリアに一番多いのは、ローマ帝国の遺産です。

塩野七生さんの「ローマは一日にして成ならず」によれば、ローマ人たちは自分達が、
知力では、ギリシア人に劣り、
体力では、ケルト(ガリヤ)に劣り、
技術力では、エトルリア人に劣り、
経済力ではカルタゴ人に劣ることを知っていました。

ではそのようなローマ帝国が、なぜ1000年も続いたのでしょうか。
古代ローマの研究者によれば、次のような理由です。

・優れた政治体制(王政、貴族政、民主政を総合した)
・戦争による敗者を同化する親和力。
・ローマ市民だけでなく、他の民族を同等に扱う包容力。(負けて譲るのではなく、勝って譲った)

ローマ人はきわめて現実主義的で、事実を直視し、間違ったことを修正する知恵と実行力を持っていました。 
そのローマ帝国が滅んだ理由を、ローマ史を研究したアーノルド・トインビーは、「国民の道徳心が失われた時にその国は滅びる」と結論づけました。

なぜ道徳心を失った時、その国が滅びるのかと言えば、それが調和という宇宙の法則に反するからでしょう。


ローマ11

ローマ帝国が滅びた後、ヨーロッパを支配したのはキリスト教でした。キリスト教は1500年以上、ヨーロッパ人の心の拠り所であったはずですが、戦争は止まず、人間性の向上は見られませんでした。
それはキリスト教の問題ではなく、また人間の本性が悪を意味するものでもなく、何を信じようと、思いと行いを正さなければ何の意味もないことを表しています。

日本は他国に支配されることなく平和に存在してきた結果、和を尊び、美を愛し、貧しさを恥としない清廉さを数千年間維持してきました。それが可能であったのは、島国という地理的な利点だけではなく、日本人の生き方が、この世を支配する調和の法則にかなっていたためでしょう。

敗戦後、アメリカはその日本が再び脅威とならないように、徹底的に日本の良さを潰す政策を行ってきました。その政策とは、日本人の優れた道徳心を破壊することでした。そのことは過去の記事「日本人は死んだか」に書きました。

「死は前よりしも來らず、かねて後に迫れり」と兼好が徒然草に書いたように、バブルの繁栄を謳歌していた時、すでに日本の死が迫っていました。しかし、本格的な道徳心の崩壊は、平成5年以降に始まりました。そのことは、また書きたいと思います。

私達一人一人は無力な存在です。一粒の麦に過ぎません。
その無力な麦に何ができるのでしょうか。

国を変えることも、人を変えることもできません。
しかし、人の悪口を言わず、愚痴や不平不満を言わず、人のせいにしないことは出来そうです。
感謝して生きることは出来そうです。
もしかしたら、そのような小さなことから、われわれの国は再び光を放つ国になれるのかも知れません。

(もう、一郎君や由紀夫君の悪口言うのを止めよぉっと。投票しなければいいんだ。)

youtube「ローマ帝国」




国際有機認証「しらい田七人参」

「米百俵の精神」

奈良 246
  曙光


現在の日本の状況は、元寇の役、太平洋戦争と並び、第三の国難と言われています。
元寇の役や太平洋戦争の時には、日本を守るために自己犠牲の心で立ち向かった日本人がいました。しかし今、日本人は刹那的な欲望の充足に満足し、日本が国難にあることさえ気づかない状況に立ち至っています。

経済危機や様々な社会問題の根源は、日本人が心を失った結果であり、その結果をもたらした原因は、人間とは何か、人間らしさとは何かを教えてこなかった戦後教育にあります。

肉体を維持する為にはパンが必要ですが、人間の偉大性は心にあり、心を養うのは教育です。
心の偉大性は、正直、正義、思いやり、自己犠牲、勇気、向上心、克己心、美しいものへの憧れ、真理の探究などであり、それらは利益の追求とは直接結びつかないことばかりです。
日本人はさらに、清貧、清潔、謙遜、謙譲、恥じらい、人の和、国や社会への献身などを大切にしてきました。

己を慎み、自己の利益のみを追求することを恥としてきた日本人が、それらの徳性を失うことは、日本人の心の死を意味します。
今迎えている日本の衰亡の始まりが、その結果として起きてきたことに気づかなければ、この素晴らしい国、誇るべき国は、二度と甦ることはないでしょう。
日本人を甦らすためには心の教育が必要であり、教育以外に日本を救う道はありません。

教育が未来を作る」でもご紹介しています「国際派日本人養成講座」は、誇るべき日本の文化と、我々の先人の偉大性を教えてくれる必見の記事です。
「米百俵の精神」と題する、教育についての重要な提言がありますので、全文をご紹介します。
長い記事ですが、是非お読みください。



国際派日本人養成講座

人物探訪: 小林虎三郎 ~ 人作りは国作り

 賊軍として破れ、どん底に陥った長岡藩で「食えないから学校を立てる」と説いた男がいた。

■1.「米百俵の精神」

「米百俵の精神」とは、平成13(2001)年5月7日、小泉首相の所信表明演説で有名になった言葉である。
それは次のような一節だった。

明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。

その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。

小泉首相の実際の業績は別にして、この「米百俵の精神」は多くの国民の心に響いた。

 それから10年後、子ども手当などのバラマキ政策を、国家予算の半分近くを国債、すなわち子孫への借金のつけ回しで賄おうとする現在の我が国は、「痛みを明日に回して今日を良くしよう」という姿勢に陥っている。「米百俵の精神」をもう一度、思い起こすべき時ではないか。

■2.小林虎三郎

「米百俵」の事績を残したのは、明治初年、戊申(ぼしん)戦争で旧幕府側として新政府軍と戦って敗れた長岡藩(現在の新潟県長岡市一帯)で、大参事として敗戦後の再建を任された小林虎三郎である。

 長岡藩は禄高を7万4千石(実録は10万石)から2万4千石へと大幅に減らされ、士族の中には食事も粥(かゆ)ばかりで、それにも事欠く家もあった。

 明治3(1870)年春、長岡藩の支藩である三根山藩から、本藩の窮状をみかねて百俵あまりの米を送ってきた。小林虎三郎は、計画していた国漢学校の創設にこの米を充てたのだった。困窮していた藩士たちはこの米が分配されるものと期待していたはずで、それを押し切っての決断だった。

 この事績は、戦時中に山本有三が戯曲『米百俵』を発表して、世に広く知られることになった。

■3.「食えないから、学校を立てる」

 山本有三は、その時のやりとりをこう描いている。

三左衞門 聞くところによれば、このたびご分家、三根山藩のご家中から、当藩の藩一同に見まいとして送ってきた米を、おまえ様はわれわれに配分せぬ意向とあるが、それは果たして、まことのことでござるか。

専八郎  しかも、その米の売り払い代金をもって、学校を立てるご所存とうけたまわった。たしかにさような事、従五位様(藩主、牧野忠毅のこと)に申し上げるつもりか。しかとした返答をお聞きしたい。

 これに対して、虎三郎は意外な返答をする。
貴公たちは、食えないといって騒いでおるではないか。みんなが食えないというから、おれは学校を立てようと思うのだ。

「食えないから学校を立てる、とは理が通らない」と三左衞門が反論すると、虎三郎は百俵の米なぞ藩の8500人に配ってしまえば、1日か2日で食いつぶしてしまう、として、こう諭した。

 なあに、はじめからこなかったものと思えば、なんでもないではないか。----もとより、食うことは大事なことだ。食わなければ、人間、生きてはいけない。けれども、自分の食う事ばかり考えていたのでは、長岡はいつになっても立ちなおらない。貴公らが本当に食えるようにはならないのだ。

 だからおれば、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ。学校を立てて、子どもをしたてあげてゆきたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかり知れないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日暮らしでは、長岡は立ち上がれない。あたらしい日本は生まれないぞ。

■4.国漢学校の創設

 虎三郎の考え通り、明治3(1870)年6月、国漢学校が新築された。明治新政府により東京で小学校が開設されたのが、同年同月であり、虎三郎の先見の明が窺われる。学校長には虎三郎自身が就任した。

 新築された学校は、平屋建てで教室が6つ、さらに武道のための演武場も備えるという、かなりの規模であった。建設費や武具、書籍を含めて4百両かかったとされているが、米百俵の代金は250両ほどであり、不足分は藩から拠出されたものと思われる。藩の財政も破綻状態にあったはずで、それでも学校に資金を投入したのは、虎三郎の決断であろう。

 この国漢学校には、二つの特徴があった。第一は、士族ばかりでなく、町人や農民の子弟も入学が許された点である。そのため、最初からかなり多くの志願者が出たようだ。これは平民教育にも力を入れていくべきだ、という虎三郎の考え方に依っている。

 第二に従来の藩校では漢学のみを教えていたのに、ここでは国学・国史も教えられた。これが国漢学校の名前の由来である。国史と言っても、それまでは漢文による大日本史や日本外史しかなかったので、虎三郎は自ら『小学国史』全12巻を編集した。さらに世界地理や国際事情、哲学、物理学、博物学なども教育科目に取り入れた。今後の日本が必要とする教養と知識を持った国民を育てようという考えである。

■5.国家の強弱は、人民の教育・啓蒙で決まる

 虎三郎は、ドイツの学校制度を論じた『徳国学校論略』の序文で、自らの教育思想を明らかにしている。

 ここでは、まずドイツ(プロシヤ)の学制に注目した理由として、ドイツが東にオーストリア、南にフランスを破り、強国のイギリスやロシアもドイツを恐れているとし、その力の根源は、ドイツがさかんに学校をおこし、教育を重視したからだとしている。
ドイツと対照的に弱いのが、アジアの老大国たる中国で、人口では4億と世界の三分の一を占めるのに、アヘン戦争に敗れて、欧米列強に領土を侵蝕されている。

 中国も欧米も、民族こそ違え、人間としては同じである。それが、国家の強弱において天と地ほどの差ができてしまったのは人民に対する教育・啓蒙の差である、と虎三郎は説く。

虎三郎の教育とは、科学技術だけではない。学校創設の10年ほど前に著した『興学私議』(学問を興すことに関す
る私の議論)では、「学問には『道』と『芸』が必要である」と述べている。人としての生き方を考える『道』と、科学技術や実務を学ぶ『芸』とが両輪となって、国民一人ひとりが、強く正しい生を送り、そのような国民が、強く正しい国家を作るのである。

 虎三郎は若かりし頃、江戸で佐久間象山の門下に入り、吉田寅次郎(松陰)とともに「両虎」と並び称せられた。その象山が「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」と唱えた思想を、虎三郎は継承しているのである。

 このように、国を興すのは人民に対する教育であり、それには「道」と「芸」が必要だとする考えによって、虎三郎は農民や町人の子弟も入学させ、また漢学だけでなく、広く国学や洋学も取り入れたのだった。

■6.近代日本の発展に貢献した人材を輩出

 この国漢学校は、やがて官立の坂之上小学校となった。また後に併設された洋学校、医学局が、それぞれ長岡中学、長岡病院に発展した。

 この国漢学校、坂之上小学校、長岡中学から、人材が輩出していく。国漢学校創設時の生徒だった渡辺廉吉はオーストリアに渡って法律、政治学を学び、伊藤博文のもとで帝国憲法の制定に参画した。

 日本で最初の医学博士・小金井良精(よしきよ、虎三郎の甥にあたる)はドイツで解剖学と組織学を学び、帰国後は東京帝国大学医学部教授として、日本人として初めて解剖学の講義を行った。

 そのほか、改進党で活躍し、福井県知事となった波多野伝三郎、検察官として活躍し、後に法務大臣となった小原直
(なおし)、東京帝国大学総長となった小野塚喜平次、洋画家の小山正太郎、明治期の日本最大の出版社である博文館を創業した大橋佐平、連合艦隊司令長官・山本五十六など、各分野で実に多くの人物が育っている。

 明治新政府軍との戦いに敗れ、3度の粥にもことかく状態に追い込まれた長岡藩から、かくも多くの人材が育って、近代日本の発展に貢献したことは、虎三郎の「食えないから、学校を立てる」という考えが正しかったことを証明している。

■7.戦時中の「人をつくれ」

 長岡の生んだ人材の一人である山本五十六は、航空戦力の発展に中心的な役割を果たし、日米戦争を防ぐことに身を賭して奮闘したが、やむなく開戦にいたると、真珠湾攻撃で世界航空戦史に特筆される大戦果を上げた。

 山本五十六は、昭和18(1943)年4月18日、搭乗機がソロモン上空で米機に撃墜され、戦死した。その2カ月ほど後に、山本有三が『米百俵』を発表したのである。

 その「はしがき」に山本有三はこう書いている。

「米をつくれ。」「船をつくれ。」「飛行機をつくれ。」と、人々はおお声で叫んでおります。もちろん、今日の日本においては、これらのものに最も力をつくさなければならないことは、いうまでもない話しであります。しかし、それにも劣らず大事なことは「人物をつくれ。」という声ではありますまいか。長い戦いを戦い抜くためには、日本が本当に大東亜の指導者になるためには、これをゆるがせにしたら、ゆゆしき事と信じます。

 ここに山本有三が、大東亜戦争という非常時に『米百俵』を発表した動機が端的に現されている。実は、山本有三は
昭和15(1940)年7月以来、内務省の検閲干渉に抗議して、断筆中であった。実に3年近い沈黙を破って、『米百俵』を発表したわけである。山本五十六の戦死がその危機意識に火をつけたのだろう。

 言論を統制し、国民総動員で「米をつくれ」「船をつくれ」「飛行機をつくれ」と号令をかけるだけでは、長い戦いを信念と創意工夫を持って主体的に戦い抜く人物、ましてやアジアの指導者たるべき人物は作れない、と言うのである。

■8.「人を作らないから、食えなくなった」

 幕末に欧米列強が押し寄せてくる危機の中で、わが国は急速な近代化を成し遂げて独立を守ることができた。それは江戸時代に寺子屋や藩校を通じて、世界でも群を抜く教育水準を達成していたからである。

 さらに近代化政策の筆頭として明治5(1872)年8月に「学制」を公布し、施行わずか2年間で、全国津々浦々に2万4千校以上の小学校を作り上げた。虎三郎の「米百俵の精神」は、当時の日本全体が共有していたものであった。

 大東亜戦争敗戦後も、わが国は奇跡的な復興と高度成長を実現したが、これもわが国のすぐれた教育制度に原動力があったとは、つとに指摘されてきた所である。

 現在の日本は、経済の停滞、高齢化と人口減少、政治の漂流など、第3の国難とも言うべき時期にあるが、これらの危機は外から来たものではなく、政治にしろ経済にしろ、十分な人材が育っていない事からきた内発的なものである。日教組の左翼偏向教育と文科省のゆとり教育によって、学校はあれども「人づくり」はおろそかにされてきた、というのが、危機の真因であろう。

「食えないから学校をつくれ」という虎三郎の言を裏返せば、現在の日本の状況は「人を作らないから、食えなくなった」と言える。今こそ「米百俵の精神」を思い起こすべき時である。

 民主党は、公立高校無料化を推し進めようとしているが、高校進学率が96%を超える現在においては、教育拡充策にもならず、単なるバラマキ政策でしかない。肝心の「人作り」「教育再建」をどうするのか、というビジョンがない。日本の教育を破壊してきた日教組が民主党のバックについているのだから、当然の事ではあるが。

 もとより「人作り」は学校だけの課題ではない。家庭、職場、地域社会と、我々の生活のすべての局面で「米百俵の精神」を行動に移していく責任が現在の国民にはある。それが先人の恩に報い、子孫の幸福を図る道である。

(文責:伊勢雅臣)
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 1941年12月8日からの3日間に、世界の航空史は新しい時代を迎えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog475.html
b. JOG(423) 失意の報国、山本五十六
 華々しい経歴の陰に、山本五十六にはじっとこらえてきた事があった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog423.html
c. JOG(030) 江戸日本はボランティア教育大国
 ボランティアのお師匠さんたちの貢献で、世界でも群を抜く教育水準を実現した。
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d. Wing(1391) タイ紙が「日本の教育に学べ」
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子供の鑑

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作家の丸谷才一さんが、ポール・ギャリコの「ゴールデン・ピープル」を紹介したエッセイから引用します。


「ある年のシーズンが終わったあとの、野球記者晩餐会で、なにがしという上院議員がベーブ・ルースに訓戒を垂れた。
ルースはそのシーズン、とりわけ悪童ぶりを発揮して、トレーニングはサボる、監督と喧嘩はするで、罰金、出場停止、自宅謹慎になったのだ。

上院議員は、ベーブ・ルースに、改心して行動を慎むよう、切々と訴えた。なぜなら、この名選手は彼を崇拝するアメリカの少年たちに大きな責任があるからで、この責任から逃れるわけにはゆかない、というのだった。

ベーブ・ルースはこの泣き落としの意味をすばやく理解した。彼は立ち上がると涙を流し、アメリカの少年たちのため改心すると誓った。

“彼は、アメリカのすべての名士たちが学ばなければならないことを学んだ。なるべくこっそりとささやかな罪を犯すことである。
それまでのルースは公然と微罪を重ねていた。”」


最後の文章はユーモアですが、ここにあるピソードは、アメリカの古き良き時代を表しています。
子供たちのために、行動を改めるように説得した上院議員の良識と、子供達のために、それに答えたベーブ・ルースの良心。

アメリカも日本も変わってしまいました。
今、日本の政治家が語る子供達のために・・・という言葉を、額面通り受け取ることはできません。
それはスタンド・プレイだろうと、まず疑います。第一、政治家の言葉を、額面通り受け取る人はいないでしょう。
選挙のマニフェストでさえ、選挙用だと、はなから信じていません。

鳩山首相の定見の無さ、無責任さを見て育った子供達に、信義や約束を守るように教えることは困難です。
アメリカ大統領に、“Trust me”と言った舌の根が乾かないうちに、平気で約束を反故にし、自分だけでなく、日本という国の信頼を失ったという自覚が、この人にあるのでしょうか。
ベーブ・ルースが理解した、影響力のある人間の子供に対する責任について、鳩山首相に限らず、この国の指導者は無自覚と言わざるを得ません。

鳩山由紀夫vs 鳩山由紀夫(you tube)


昔、文化人類学者のルース・ベネディクトが、「菊と刀」の中で、日本人には罪という意識が無く、行動を律する規範は恥の意識である、と述べました。
ベネディクトの言うように、キリスト教の神を持たない日本人に、罪の意識が無いわけではありませんが、恥の意識が重要な行動規範であったことは間違いありません。
日本人の恥とは、行動の美学でした。

人前で物を食べ、化粧をする若い人だけが恥を失ったのではありません。
国をリードする政治家や財界人、文化人、マスコミに係わる人間他、我々を含む多くの日本人が恥や品格を失い、その結果として若い人が出来上がったはずです。
恥を知らぬ大人が、どうして子供達に、立派に生きることを教えられるのでしょうか。

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民主党の小沢幹事長が国会議員143人を含む、総勢600人を引き連れて胡錦濤国家主席に会いに行きました。
今や中国が重要なパートナーであることは言うまでもないことですが、恥も外聞も無い土下座外交で、まるで宗主国に対する属国の朝貢使節団です。
しかも、天皇陛下に対して、強引に中国の習副首席との面会を強いるなど、あたかも、自分がこの国の支配者であるかのごとき振る舞いです。

これが日本人が選択した、政権交代の実態です。国会議員だけを責めることはできないでしょう。

日本が終わったことを見せつける、悲しい映像でした。




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明治への畏敬

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  秋山真之

NHKが11月29日から、「坂の上の雲」を放送します。
登場人物の秋山真之 (さねゆき)は、明治の数多い武人の中でも、最も偉大な人物だと思っています。

秋山真之は日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅したT字戦法を編み出し、世界の海軍に衝撃を与えました。
その武勲と名声は東郷元帥に譲りましたが、名参謀として日本を救い、透徹した分析力で世界の行く末までも予測した、まれに見る武人です。

ドラマには秋山真之の他、その兄で陸軍大将であった秋山好古と正岡子規も登場します。
この3人を生んだ愛媛県松山市は道後温泉で有名ですが、歴史的、文化的な雰囲気が漂う、魅力的な城下町です。個人的にも係わりがあり、とても好きな町ですが、松山は秋山真之を生んだというだけで、日本国に貢献したとさえ思っています。

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  海上自衛隊ホームページより

以前、海上自衛隊の洋上訓練に乗艦させてもらったことがあり、その時、心に残ったことが二つあります。
一つは、艦内で体験した自衛官たちの規律です。その時お会いした艦長は、穏やかでありながら毅然とした強さが感じられる方でした。隊員たちの、艦長始め上官に対する挨拶は、体育会系のように押さえつけられてするものではなく、敬意の気持ちが自然に現れた爽やかなものでした。
その挨拶の気持ち良さと、規律の美しさは初めて体験するもので、旧帝国海軍はイギリス風のスマートさが特徴だと言われていましたが、その伝統が生きていることが印象的でした。


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   東郷元帥

もう一つ心に残ったのが、ゲストルーム(艦長室?)に飾られている東郷元帥の肖像画でした。
艦長の話によれば、東郷元帥の肖像は、世界の多くの軍艦に飾られており、日本海海戦でバルチック艦隊を完膚なきまでに破った東郷元帥は、世界の軍人から今も尚、最も尊敬されている人物だと言います。

バルチック艦隊を破った日本海軍の勝利は、世界を驚かせました。ロシアの脅威にさらされていた多くの国が驚喜し、トルコとフィンランドには、東郷元帥の肖像画をラベルに使ったトーゴービールがあり、トルコのイスタンブールにはトーゴー通りがあります。

イギリスのネルソン提督が、スペイン・フランス艦隊を破ったトラファルガー海戦と比較され、あるいは、それよりも更に偉大な武功だと称賛されています。
そして、日本海海戦の戦略を練り、指揮を執ったのが秋山真之でした。


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  日本海海戦

明治時代に活躍した人たちは、自分を厳しく律し、限界までの努力で持てる能力を精一杯発揮すると共に、常に国のために自分を投げ出す気概を持って生きていました。
それは、文化・芸術・経済・軍事、すべての分野で見られる明治人の特徴です。
このような日本人によって、明治維新から僅か30~40年で、世界の列強に比肩し得る国となりました。

日本の歴史上、これほど人物を生み出した時代はないと思います。
その理由は教育にあります。
吉田松陰から思うこと」で書きましたが、日本に武士道精神が一番根付いたのは明治時代でした。士農工商が廃止され、廃藩置県で職を失った多くの武士が教員になりました。当時、教員の80%が武士だったといわれています。

残念ながら明治のような時代は、もう二度と来ないでしょう。
明治という時代そのものが、輝かしい坂の上の雲でした。




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教育が未来を作る

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ヨゼフ・ピタウ大司教

バチカンの教育省次官を務めた、ヨゼフ・ピタウ大司教の記事が読売新聞の「時代の証言者」に連載されています。宣教師として来日した日本で、30年近く教育に携わってきた方です。第1回目の記事から抜粋します。

「2003年、バチカンの教育省次官であった私は、定年の目安である75歳を迎えたことから、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世に退官を申し出て認められました。日本に戻りたいとの願いは、翌年かないました。

生まれ育ったイタリアではなく、日本をついの住み家とした選択を不思議に思う人もいますが、私にとっては自然なことでした。イエズス会の修道士として宣教のため、一生を日本に捧げる覚悟で渡ったのですから。
まさか途中で呼び戻され、24年近くローマとバチカンで過ごすことになるとは思っていませんでした。

日本は、私が司祭に叙階された特別の思い入れのある国です。司祭としての礎を築いてくれた国でもあります。
私が日本へ始めてやってきたのは24歳の時、1952年のことです。当時の日本は、まだ敗戦の痛手が残り、困窮した状態でした。
最初のクリスマスにイエズス会の教会がある山口県内を回り、目にした光景は忘れません。爆撃で崩壊した建物が残存する中、どこの町でも一番立派で新しい建物は学校でした。運動場やプールもありました。

親たちは食べるものが十分でなくとも、子供により良い教育環境を与えたいと頑張っていました。
国を立て直すのに、まず教育に力を入れる日本に驚くと同時に、深い関心、尊敬、そして愛を感じました。
日本はすごい国になるのでは、と肌で察しました。 ・・・・」



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  山辺学校歴史民族資料館(松本)

日本の戦後の発展を支えたのは、間違いなく教育でした。しかし、日本人が昔から教育に力を入れてきたのは、立派な人間を作るためであり、経済的発展はその結果でした。

国際派日本人養成講座」から、江戸時代の教育水準の高さを示す記事をご紹介します。
このブログは必見です。日本人にまつわる多くの感動的エピソードが紹介されており、同時に現代日本の病理を鋭くえぐっています。

(群を抜く教育水準)
「・・・・専門家の推定では、幕末の嘉永年間(1850年頃)での江戸での就学率は70~86%。これを以下のデータと比較してみよう。

・イギリス 20~25% (1837年での大工業都市)
・フランス  1.4%   (1793年、フランス革命で初等教育を義務化・ 無料化したが) 
・ソ連    20%    (1920年、モスクワ)

 江戸日本の教育水準がいかに群を抜いていたかが分かる。なぜこれだけの差がついたのか、単に物質的豊かさだけなら、産業革命に成功し、7つの海にまたがる広大な植民地を収奪したイギリスの方が、はるかに有利だったはずである。その秘密を探ってみよう。

 当時の江戸には、1500余りの寺子屋や塾があった。幕末の全国では、1万5千にものぼる。僧侶や神官、武家、農民などが運営していたもので、幕府は直接的には一切、関与していなかった。
これらの人々が自宅などに、10人から、大きいところでは100人程度の生徒を集め、読み書き、算術、地理、さらには、農業用語や漢文まで教えていたという。現在で言えば、正規の小中学校がなく、すべて町中の書道教室や学習塾のようなものだけだったと想像すれば良い。

 江戸時代に作られた教科書は、実物が残っているものだけで、7千種類以上もある。大まかに250年で平均してみれば、年間30種類も出ていたことになる。・・・・」


日本はまさに圧倒的な教育国家でした。識字率の低い国は今でも世界に数多くあります。
文字を読めないことを知られたために殺人を犯す小説があり、今年公開された映画、「愛を読む人」も、文字が読めないために人生が暗転する映画でした。このテーマが欧米で理解されるのは、依然として識字率が低いためです。

これほどの教育国家であった日本の子供たちの数学嫌いが、今世界でトップクラスになってしまいました。「ゆとり教育」の結果です。「国際派日本人養成講座」の、「ゆとり教育の現場から」引用します。

・・・・「ゆとり教育」が実施されたのは昭和55年であるから、その5年後くらいから、影響が出始めて、犯罪件数が増えだしたと考えられる。文部科学省での「ゆとり教育」のスポークスマン、寺脇研・大臣官房審議官の目指す所が実現できたのかどうかという点で、検証してみよう。寺脇氏自身の実績も、この指摘の正しさを実証している。

氏は平成5年から8年の間、広島県の教育長を務めており、高校進学希望者は入試で0点でも全員入学できるという「高校全入」政策を押し進めた。その間、広島県の学力は急降下し、国公立大学入試センターで平成2年には全国都道府県中21位だったのが、8年には45位と全国最下位レベルとなった。
犯罪を犯す少年の比率は、千人当たり23.9人と全国一位(平成9年)である。こういう失敗をした人間が、その責任も追求されずに中央官僚として「ゆとり教育」をさらに押し進めているのである。・・・・」



今、民主党によって高校無料化政策が検討されており、何か「高校全入」に似た危うさを感じます。
ヨゼフ・ピタウ大司教の記事にあるように、戦後の日本は、食うや食わずの中で、何をおいても子供の教育のために努力してきました。そして子供も親の苦労を見ながら育ち、親の恩に報いるよう努力してきたのです。

高校無料化には、一説によれば5兆円以上の予算が必要だと言われます。無論、それが本当に必要であれば惜しむべきではありませんが、しかし、自分が学ぶために親に負担を掛けているという思いも子供の教育の一面であり、そうでなければ教育はさらにお手軽なものとなってしまいます。

最近の調査で、日本の貧困率が15%を超えたというニュースがありました。高校の授業料が払えない家庭があることも事実でしょう。しかしその場合は育英資金を充実させるべきであり、ましてや、金の掛かる私学が補助の対象にならないのであれば、人気取り政策と言わざるを得ません。

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  フィヒテ

18世紀末、ナポレオンのフランス軍がドイツに迫る中、哲学者でありイェナ大学教授であったフィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」という有名な講演で教育の重要性を訴えました。

「我々は、未来の生を現在の生に結びつけなければならない。それにはドイツはドイツの教育を抜本的に変革する必要がある。その教育とは国民の教育であり、ドイツ人のための教育であり、ドイツのための教育である。
この講演の目的は、打ちひしがれた人々に勇気と希望を与え、深い悲しみのなかに喜びを予告し、最大の窮迫の時を乗り越えるようにすることである。ここにいる聴衆は少ないかもしれないが、私はこれを全ドイツの国民に告げている。」

第二次大戦後、ドイツは教育権を放棄しない条件で降伏しました。教育が国の未来であることを、深く認識していたためです。
しかし敗戦によって日本は、何より大事な教育権に他国の介入を許し、過去から連綿と受け継いできた日本的精神性を失ってしまったのです。
そして残念ながら、戦後教育で日本精神を失ってしまった政治家や役人、指導者が、人気取りや深い人間理解も無しに、場当たり的に「教育改革」を行っています。

「日本国民に告ぐ」という警鐘を発する真の指導者がこの国に必要であり、私たちも雑音の多い情報の中で、何が真実かを見極めたいものです。



参考:「松岡正剛の千夜千冊




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聖人と言われた人物ー中江藤樹

ブログを書き始めてから1年が経ちます。自分の意見や情報を発信する多数のブログの存在を知り、日本人の文章力の高さを知りましたが、中でも多くの女性が自分の意見や価値観を自由に発信しているのに驚きました。もしかしたら紫式部や清少納言の伝統が生きているのではないと思わせられるほどです。
現在、世界のブログの37%が日本語で書かれており、世界一だと言われます。控えめな日本人にとって、匿名性の高いブログは優れた自己表現の場となっているのでしょう。

これまで政治的な記事を控えてきましたが、記事のあり方を模索しながら2年目に入ります。

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近江聖人 中江藤樹


日本の歴史上、数多くの偉人がいます。しかし、聖人と称された人は多くありません。その第一が「近江聖人」と言われた中江藤樹です。内村鑑三の著書「代表的日本人」では、「ここに理想の教育者がいる」として紹介されています。

中江藤樹は1604年生まれですから、江戸初期の人です。日本の陽明学の始祖と言われます。
自宅にフジの老木があったことから、藤樹先生と呼ばれました。

藤樹は九歳の時に読み書きを習い始め、十歳の時には庭訓住来貞永式目を学び、それらを忘れることがなかったといいます。十七歳の時には、四書大全を学び終えており、極めて優秀な頭脳であったことがうかがえます。

吉田松陰、佐久間象山、橋本佐内などの幼少期の天才的なエピソードを思い出しますが、それは日本のかつての幼少期の教育が、如何に優れていたかを物語るものであり、同時に、最も頭脳の働きが活発な幼少期に、「ゆとり教育」を行うことの愚かさを証明しています。


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藤樹記念館

中江藤樹の藤樹書院は日本で始めての私塾と言われます。私塾や寺子屋の果たした意義については過去の記事「吉田松陰から思うこと」をご覧ください。

中江藤樹の考えを簡単に言えば、何が正しいかを本当に知っていれば、人は正しく行うことができる、知っているつもりでも実践できなければ、本当に知っているとは言えないというものです。

「人間千々よろづのまよひ、みな私よりおこれり。わたくしは我身を、わが物と思ふよりおこれり」

この言葉は、人間の迷いや悩みが、小さな自分の肉体を自分と思うことから生じるものであり、真の自分は心・魂(真我)にあることを教えるものです。
「胎内にある間も母徳の教化あり」との言葉は、現在の胎内教育を思わせますが、魂の仕組みが分かっていなければ言えない言葉であり、陽明学というだけでは藤樹の全体像を見ることができないのではないでしょうか。

藤樹の生涯を見る時、大洲藩を脱藩してまで母の面倒を見るために帰郷したことが、人生の岐路であったことが分かります。士農工商が支配する当時に、それを行うことがどれほどの決断であったか、想像に余りあります。
今、多くのサラリーマンが親の面倒と仕事の板ばさみにあります。
藤樹先生なら、迷わず「孝」を優先しなさいと言われることでしょう。

㈱タニサケ発行の上田三三生著「歴史と人物に学ぶ」より引用します。


「琵琶湖西岸の小川村(現在滋賀県安曇川町)が、中江藤樹生誕の地であり、逝去の地であります。
少年期から青年期にかけ、武士だった祖父の転勤にともない、山陰の米子、それから四国の大洲に移り住みます。
大洲藩郡奉行だった祖父、さらに祖母があいついて亡くなり、加えて故郷で農業を営む父も病没。母ひとりが小川村で暮らしているので、「いま孝行をつくさなければ、後悔しても間にあわない」と武士をやめ故郷に帰ります。

刀を売った資金で、米や酒を仕入れ安く売り、貧しいながらひたすら老母に仕え、村人たちに学問を教え、うわさを聞いて遠近から藤樹の人柄を慕ってくる者に講義をしたり、本を書いたりする日々でした。

酒を買いに来た村人には、今日はどんな仕事をしたかたずね、その労働の程度によって、売る酒の量を加減します。酔って喧嘩をする者や、酒で身代を持ちくずすようなことがなくなりました。学問を教えている時に客がくると、自由に量って持っていかせ、代金は竹筒に勝手に入れさせます。少しの間違いもありませんでした。現在、藤樹署員で行われている本の販売方法もそうです。

知行合一(ほんとうに知ることは行うことである)-つねにみずから先頭に立って実践し、人々を導くので、賢愚、老若男女にかかわらず、大きく広く深く、その感化を及ぼしました。

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藤樹書院

講義を受けていたなかのひとりの馬方が、客が馬の鞍に結びつけたまま忘れた二百両入りの財布を、八里(32キロ)も離れた宿場まで届に戻り、礼金を受けようとしなかった話は有名です。

たまたまこの話を聞いたのが、学問の師を求めていた熊沢蕃山という武士でした。
あなたのような立派なお武家にお教えするような学も徳もございません」と固く断る藤樹の家の前に二日も座り込んで、蕃山の入門がかないました。
のち岡山藩に仕えた蕃山は、学問を実際の政治の上に大きく生かします。

藤樹は日本最初の陽明学者といわれる人です。徳川幕府は儒教の朱子学を盛んにしました。朱子が形式や礼儀を重く見たのに対し、王陽明はこころの持ち方を大切にしたのです。

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「良知に到る」-人はだれでも、生まれながらにして美しい心、すなわち良知を持っています。その心をよごさず、いつも鏡のように磨きあげておく、これが身を修める根本だという意味であります。具体的には、「孝は徳の本なり」で、藤樹は孝を実践して、後世にまで手本を示したのです。

小川村の玉林寺に藤樹のお墓があり、付近には藤樹書院があります。村の有志の方が、今も交代で説明に当たっておられます。藤樹神社も、藤樹記念館もあって、藤樹の教えが現代にも脈々と伝わっていることがわかります。

至徳堂 大洲市
大洲市 至徳堂

愛媛県の大洲の場合もそうです。大洲の人たちは、藤樹先生、藤樹先生と敬称して、今もその学徳を慕っています。県立大洲高校の敷地内に藤樹邸が大切に保存され、生徒の茶道・華道の稽古など、現在も活用されているのには驚きです。

藤樹は若くして亡くなりますが、多くの門人を教えるのに、熱心・まじめ・丁寧だったため、「近江聖人」と讃えられ、長く尊敬され続けているわけです。」  寛永五年(1648年)四十一歳没



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藤樹記念館 馬方又左右衛門

逸話「正直馬子」高島市ホームページ

ある日、河原市(現在の滋賀県新旭町安井川)に住む馬子の又左衞門は、京都へのぼる加賀の飛脚を馬に乗せました。そして、仕事を終えて河原市にもどり、馬を洗おうと鞍を取り外すと、さいふのような袋が出てきました。その中味を改めると、なんと金子200両もの大金が入っているのでした。

 驚いた馬子は、「これはもしかしたら、さっきの飛脚のものかも知れない。今ごろは、あの飛脚きっと困り果てているに違いない」と思うと、ふたたび馬子は日暮れの道をとって返し、飛脚の泊まっている榎の宿(現在の滋賀県志賀町和邇)まで、30キロの道のりを走っていったのです。

 いっぽう、飛脚はというと、旅篭で旅の疲れをいやそうとしたところ、大金の入った袋が手元にないことにようやく気づき、必死であたりを捜したものの、どこにも見つかりませんでした。
 そうした折、馬子が旅篭に現われたのです。飛脚に会って、いろいろ仔細をたずねると、確かに飛脚の置き忘れ物であることがわかり、馬子は200両の入った袋をそっくりそのまま返してあげたのです。
「この金子は藩の公金で、京の屋敷へ送り届けるためのものです。もしも、この金子200両が見つからなかったときは、自分の命は申すまでもなく、親兄弟までもその累がおよんで、重い罪になるところでした」と、飛脚は涙ながしながら話すのでした。

 そこで飛脚は、行李より別の金子を取り出し、当座のお礼として馬子に15両を差し上げるのですが、馬子は一向それを受け取ろうとはしませんでした。馬子は、「そなたの金を、そなたに返したただけなのに、なんでお礼などいりましょうや」と言うばかり。そこで、飛脚は10両と減らし、5両、3両と減らして馬子に受け取ってもらおうとするのですが、それも受け取ろうとはしません。困りはてた飛脚の顔を見かねて、ようやく馬子は「それじゃ、ここまで歩いてきた駄賃として鳥目200文だけは頂戴いたしましょう」と。

 200文を受け取った馬子は、その金で酒を買ってきて、旅篭の人たちと一緒に酒を飲み交わしました。酒もなくなり、ほろ酔い機嫌で馬子が帰ろうとすると、飛脚は感激のあまり「あなたはどのような方か」と問うのです。

 馬子は、「自分はこのように名もない馬子に過ぎません。ただ、自分の在所の近所に小川村(現在の滋賀県安曇川町上小川)というところがあって、この村に住んでおられる中江与右衞門(藤樹)という先生が、毎晩のように講釈をしておられ、自分も時々は聞きにいくのです。先生は、親には孝を尽くすこと、人の物を盗んではならないこと、人を傷つけたり、人に迷惑をかけてはならないことなど、いつも話されておられます。今日の金子も、自分の物ではないので、取るべき理由がないと思ったまでのことです」と言って、夜遅くふけて河原市へもどりました。

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藤樹記念館 藤樹の母

逸話「藤樹の母」(心の洗濯室

藤樹のいる伊予とは違い、母の住む近江は冬はことのほか寒い。井戸端での水仕事で老母の手にひびやあかぎれができていはしないかと心配した藤樹は、冬のある日とうとう、思い余って母を訪ねるのである。母のためにあかぎれの薬を買って急ぎ故郷へ帰った藤樹は、雪の降りしきる戸外でつるべ仕事をしていた母にその薬を差しだしていたわり、肩を抱いて家の中へ入ろうとする。

ところが母は、
「あなたは学問をするために生まれてきた人だ。母を訪ねる暇などないはずだ。すぐに帰りなさい」
と、薬も受け取らず、家にも入れてくれずに藤樹を追い返してしまうのだ。母に諭(さと)され、雪深い道をとぼとぼと帰っていく藤樹の後ろ姿を、老母は涙しながら見送るのである。辛い別れでありながら、母親の子を思う気持ちを理解した藤樹は、その後勉学に励み、当代一流の儒学者となる。そしてその評判は、日本全国津々浦々に鳴り響いていくのであった。」(「自分の品格」渡部昇一著 三笠書房より)


逸話「そば屋の看板」中江藤樹記念館
小川村からほど近い鴨村の街道ぞいに、一軒のそば屋がありました。その主人は、藤樹先生が大変りっぱな学者だと聞きおよんで、先生に店の看板を書いてもらったら、きっと商売繁盛になると思い立ち、まっさらの板をかかえてお願いに上がりました。先生は、ふたつ返事で承諾しました。

一週間が過ぎて、主人が先生の屋敷をたずねると、「まだできておりません。もう少し待ってください」との返事でした。それからまた10日ばかりが過ぎた頃にうかがうと、そこにはみごとな字で書かれた看板ができ上がっていました。主人はとても喜び、さっそく店の軒先に吊るしました。

ある時、大名行列があって、そば屋の近くで休息をとりました。家来がお殿様にお茶を差し上げるためそば屋に行くと、軒先の看板に目が止まりました。「これを殿様に献上したら、きっとお喜びなされるに違いない」家来は、大金を主人にわたして、看板をもらいうけました。

思わぬ大金を手にして喜んだ主人は、もう一度、先生に頼んでおなじ看板を書いてもらおうと、屋敷に行きました。先生は、主人を座敷に上がらせ、家の奥から半櫃を運び出してふたを開けました。すると、その中にはなんと「そば屋」の下書きのほごが、びっしりと入っていたのです。それを見た主人は、驚くとともに、自分のなした言行の軽率に、ふかく恥じ入るのでした。

逸話「愚鈍な子を医者に育てる」中江藤樹からの伝言
中江藤樹は、「医者になりたい」という願望をもった大野了佐という愚鈍な少年を 医者に育てあげました。了佐は一つのことを何百回も繰り返してようやく覚えますが、晩飯を食べるとすっかり忘れてしまったといいますから、かなり鈍かったようです。
 
それを藤樹は根気よく教え導き、育てます。これは並々ならぬことです。そして本当に医者に育て上げたというのですから、これぞ真の教育者と呼べるのではないでしょうか。藤樹は「了佐を医者にするのに、精根尽き果てた」ともらしています。
中江藤樹の、「各自の得意とするところをよく知り、それぞれの能力、分際にふさわしくそれを使えば、用に立たない人間はいない」 という言葉は実際の経験からにじみ出た金言です。

逸話「醜女との結婚」pケペル先生のブログより

藤樹は結婚も30歳のときであるから、当時としてはずいぶんと晩婚だった。律義にも「三十にして室(妻)有り」という礼記にならったものであろう。しかも、この妻にした女性は高橋某の娘だが、これがもう二目とは見られぬほどのひどい醜女だった。

母親のほうでも「おまえ、弟子の出入りも多いことだし、なにも好き好んで、あのようなひどい面相の女をそばに置くこともないではないか。いまからでも遅くはない。離縁しなさい」と申し出たほどだったが、日ごろ母親のいうことはなんでも聞く親孝行息子の藤樹であるが、このときばかりは頑として母親の言を容れなかった。

「あんな醜女のどこがいいんだ」母親があきれるように言うと、「女は顔ではありませぬ」藤樹はきっぱりと答えた。「たしかに、あの女は見てくれは悪い。しかし、性格がとてもいいんです。非常に利口で、気くばりもきき、考え方にまちがいがありません」息子にこういわれては、それ以上母親も口出しはできない。ついに、嫁を追い出すことをあきらめた。

この藤樹と13歳年下の妻は、はじめの4年間に3人の子を生んだ。いずれも育たず、5年目に産んだ男の子がようやく無事に成長した。これが嗣子の直伯。ついで9年目に次男の仲樹を産んだが、産後の肥立ちが悪かったのだろう、26歳の若さで他界した。藤樹もそれから2年後の慶安元年8月に死んでいる。享年41歳だった。(参考:歴史読本29-1)

参考:中江藤樹記念館  
   :中江藤樹
   :林田明大の「夢酔独言
   :中江藤樹





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自分に素直になる

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人間は自分を美しく見せたい、賢く見せたい、偉く見せたい、大きく見せたいという様々な虚栄があります。
ある有名な僧侶がこんなことを言っていました。「食欲、性欲は歳を取るに従って少なくなるが、尊敬されたいという名誉欲は衰えることがない」
正直な感想ですが、それ程虚栄心を抑えることは難しいということでしょう。

スウェーデンの経済学者、トルンクイストが収入と消費の関係をトルンクイスト理論として表しています。
簡単に説明すれば、例えば戦後、まず第一に必要なのは鍋や包丁などの生活必需品です。
これらの道具は生活するために最低限必要なものですが、必要以上には要りません。いくら金持ちでも包丁やまな板を何十も持ちたいとは思いません。これらの生活必需品を第一グループとします。

第二グループにはテレビ、ステレオ、パソコンなど、生活を豊かにする製品が入ります。収入が増えて生活が安定すれば、これらの製品の購入が増えますが、部屋数以上に欲しい人はいないでしょう。

第三グループには、宝石、衣類、アクセサリー、バッグ、靴などが入ります。これらの身を飾る製品はこれで十分だという限度がありません。金さえあれば次々に新しいものが欲しくなります。独裁国歌の元首が失脚した後、奥さんの靴が5千足出てきたと言うのも、自分を飾る欲望がどれだけ強いかを表わすものです。

虚栄心は自分を縛り、生きにくくする大きな原因となっています。人の目を気にせず、自分をさらけ出すことができれば、人はどれほど自由に生きることが出来るでしょうか。


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アラレさんからお借りしました

月刊誌「知致」の9月号に鈴木秀子さんが、「自分を低くして、この幼な子のようになる者が、天の国でいちばん偉いのである」という、新約聖書のマタイによる福音書の言葉を引用し、記事を書かれています。
一部をご紹介します。

『クラスを感動させたみっちゃんの勇気』

「最近、私は都内のある中学校で三年生を相手に命の尊さについてお話する機会がありました。
その中で私は、命を大切にするというのは何も大きなことに取り組むことではなくて、日常生活の一瞬一瞬、その時、目の前にいる人を大切にすることに尽きるのですよ、という思いをお伝えしました。

その上で、実際にあったお話を紹介しました。
それは、皆からみっちゃんと呼ばれていた中学一年生の女の子のお話です。

みっちゃんは中学に入って間もなく白血病を発症し、入院と退院を繰り返しながら、厳しい放射線治療に耐えていました。家族で励まし合って治療を続けていましたが、間もなくするとみっちゃんの頭髪は薬の副作用ですべて抜け落ちてしまうのです。

それでもみっちゃんは少し体調がよくなると、「学校に行きたい」と言いました。不憫に思った医師は家族にカツラの購入を勧め、みっちゃんはそれを着用して通学するようになりました。

ところが、こういうことにすぐに敏感に気づく子供たちがいます。皆の面前で後ろからカツラを引っ張ったり、取り囲んで「カツラ、カツラ」「つるつる頭」と囃し立てたり、ばい菌がうつると靴を隠したり、悲しいいじめが始まりました。
担任の先生が注意すればするほど、いじめはますますエスカレートしていきました。見かねた両親は「辛かったら、行かなくてもいいんだよ」と言うのですが、みっちゃんは挫けることなく毎日学校に足を運びました。

死後の世界がいかに素晴らしいかを聞いていたみっちゃんにとっては、死は少しも怖くありませんでした。反対に亡くなったお祖父さんと再会できるのが楽しみだとさえ思っていました。しかし、何より辛いことがありました。それは、かけがえのない友達を失うことだったのです。辛いいじめの中でも頑張って学校に通ったのは「友だちを失いたくない」という一心からでした。

二学期になると、クラスに一人の男の子が転校してきました。その男の子は義足で、歩こうとすると体が不自然に曲がってしまうのです。この子もまた、いじめっ子たちの絶好のターゲットでした。
ある昼休み、いじめっ子のボスが、その歩き方の真似をしながら、ニタニタと笑って男の子に近づいてい行きました。
またいじめられる。誰もがそう思ったはずです。ところが、男の子はいじめっ子の右腕をグッと掴み、自分の左腕と組んで並んで立ったのです。

そして「お弁当は食べないで一時間、一緒に校庭を歩こう」。毅然とした態度でそのように言うと、いじめっ子を校庭に連れ出し、腕を組んで歩き始めました。

クラスの仲間は何事が起きたのかとしばらくは呆然としていましたが、やがて一人、二人と外に出て、ゾロゾロと後について歩くようになったのです。男の子は不自由な足を一歩踏み出すごとに「ありがとうございます」と感謝の言葉を口に出していました。
その声が、仲間から仲間へと伝わり、まるで大合唱のようになりました。みっちゃんは黙って教室の窓からこの感動的な様子を見ていました。

次の日、みっちゃんはいつも学校まで車で送ってくれる両親と校門の前で別れた直後、なぜかすぐに車に駆け寄ってきました。そして着けていたカツラを車内に投げ入れると、そのまま学校に向かったのです。
教室に入ると、皆の視線が一斉にみっちゃんに集まりました。しかし、ありのままの自分をさらす堂々とした姿勢に圧倒されたのでしょうか、いじめっ子たちは後ずさりするばかりで、囃し立てる者はだれもいませんでした。
「ありがとう。あなたの勇気のおかげで、自分を隠したり、カムフラージュして生きることの惨めさが分かったよ」。みっちゃんは晴れやかな笑顔で何度も義足の男の子にお礼を言いました。

しばらくすると、クラスに変化が見られ始めました。みっちゃんと足の不自由な男の子を中心として、静かで穏かな人間関係が築かれていったのです・・・・

みっちゃんに死が訪れたのはその年のクリスマス前でした。息を引き取る直前、みっちゃんは静かに話しました。
「私は二学期になってから、とても幸せだった。あんなにたくさんの友だちに恵まれ、あんなに楽しい時間を過ごせたことは本当に宝でした」と。

ありのままの自分でいい その喜びを伝えたい

講演後、私は中学生の心にこの話がどれだけ伝わっただろうかと気になっていました。すると一週間ほどして担任の先生から一本の電話がありました。先生がおっしゃるには、それまでクラスで物も言わず、学習意欲に欠け、そのうちに病気になるのではと心配していた男子生徒が突然、先生を訪ねて、こう切り出したそうです。

「先生、この前の講演で僕は勇気をもらいました。僕のお母さんはいまガンで入院しています。皆からいじめられる思うと、そのことを誰にも話せなかった。けれども、講演を通して堂々と生きるのが一番いい、ありのままの自分でいいんだということがよく分かりました。その喜びを伝えたくて先生のところに来たんです」

これを聞いた先生は思わず生徒を抱きしめました。
「そうだったの。大変な問題を抱えて頑張っていたんだね。気づかなくてごめんなさい。これからは先生も友だちも、皆で応援すると約束するよ」

先生はクラスの仲間に男子生徒が抱える事情を話しました。すると、この日から男子生徒の態度は明るくなり、クラスの雰囲気は一変したといいます。男子生徒の話は、私の講演に参加した他のクラスにも伝わり、そこでも良い変化をもたらしているようです。私にも、これは大きな喜びでした。

私は「幼な子のように」というキリストの言葉の重みを、いま改めて噛みしめています。」


鈴木秀子さんは臨死体験をし、その時、命の光というべき大いなる存在を体験しています。
「私は一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、それまでに見たことがないような美しい光に包み込まれました。そこは、白っぽい金色の輝きに満ちた、一面の光の世界でした。
まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。 それは、生命の深い部分で自分とつながり、交流している、生きた光だと感じていました。これこそ至福の境地なのだ。完全な自由なのだ。 この生命そのものの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受け容れられ、許され、完全に愛されている」 と直感しました。鈴木秀子さんはその時、三つのメッセージを受け取りましたが、これらのことは、すべての人に対しての神の祝福だと思います。

・『あなたは大切な、かけがえのない存在として、深く愛されている』
・『たとえあなたが後悔や自己嫌悪で自分を苦しめているときも、あなたは許され、温かく見守られている』
・『あなたは、たとえ自分には価値がないと思っているときも、生きている価値がある』

鈴木秀子「臨死体験ー生命の響き」
鈴木秀子の愛と癒しの世界 ―『臨死体験―生命の響き』を中心に―


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柔道家 山下泰裕さんの心

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今年の5月末、NHKラジオの「社会福祉セミナー」で、柔道家の山下泰裕さんが話をされていました。
山下さんと言えば、最強の柔道家として有名ですが、おだやかに話される深い内容に、この人は柔道家であると共に立派な思想家であることに気づかされました。
最近、もっとも感銘を受けた人物です。

インタビュアーの、山下さんはどうして福祉に係わるようになったのですかとの質問に、2番目の息子が自閉症です。それで福祉と係わるようになりましたと答えられていました。
あの最強の柔道家の子供が自閉症だと聞き、自閉症はどんな家庭でも起こりうることだと知りました。

山下さんは、「自閉症の息子に感謝しています。人はどんな人間からも学ぶことができます。もしこの息子がいなかったら、私はずっと人を上から見下ろす人間になっていたと思います。私は息子からたくさんのことを学びました」と話されていました。
山下さんの到達した心の高さを物語る言葉です。

山下さんは柔道を通して人間を育てたい、人を思いやり、助け合う日本人の心や伝統を復活させたいと、
「柔道ルネッサンス」運動の委員長をされています。

平成18年3月17日に、講道館で講演された内容を一部ご紹介します。

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講道館段位推薦委託団体会長会議での講演

『・・・・熊本市立藤園中学校、ここで柔道の素晴らしい恩師、白石先生と出会います。白石先生が我々に教えられたのは試合で勝つ為の技術、体力、戦術だけではありませんでした。人間としての在り方、心構え、柔道の道、これを我々に繰り返し繰り返しお話してくださいました。

白石先生が私たちにどんなことを言われたか。まず最初に繰り返し言われたのが、「柔道を一生懸命にやることで、強くなるだけではなく、相手を思いやる心、助け合う気持ち、我慢すること、ルールを守ること、力を合わせること、こんなことを皆は学ぶはず、これは学校の勉強では学べないけれど、みんなの人生にとって非常に大事なこと。

しかし、みんなが柔道だけ一生懸命に頑張って、勉強を頑張らなかったら、柔道は完璧になれるかもしれないが、柔道を通して得たものを人生で生かして、人生の勝利者になることは難しいだろう。
柔道にとって一番大事なことは、単に柔道のチャンピオンになることではない、柔道で学んだことを生かして人生の勝利者になることだ。

社会に出て可愛がられる人間に、役に立つ人間に、活躍出来る人間になること、これが大事なんだよ、このこととみんなの練習は繋がっているんだよ、だから柔道だけではない、勉強もしっかり頑張らなければいけない、そして人生の勝利者を目指していきなさい」。

これだけの話を、私たちにわかりやすくお話してくださいました。文武両道、そして柔道を通して人生の勝利者を目指せ。今でも強く心に残っています。

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それから先生はこんなことを言われました。「柔道が強くなるために一番大事なことは、人の話を素直に聞ける人間になることだ。この気持ちを強くなるためには持ちなさい。持ち続けなさい。

中学の試合にいってみろ、見かけるだろう。高校生、大学生、社会人、警察官、ちょっと勘違いしていて"俺は強いんだ"と言わんばかりに偉そうに歩いているグループが。いいか、勘違いするな。彼らは一流でもなければ一流半でもない、二流、三流だ。そして、俺は強いんだと思い込んでいる人間にそれ以上の成長はないんだ。

そんな人間だけにはなってほしくない。強くなればなるほど、自分の強さを示さない。そんな人間になってほしい。そして本当の強さを求めれば求めるほど、優しさが滲み溢れてくるものだ」。

私は「強くなればなるほど優しくなれる」この言葉が大好きです。これから、出来れば私の体の中から優しさが滲み溢れる、そういうふうに見られるような人間になりたい、なれたらいいな、こう思っています。

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いくつか選手に関しての思い出を話させて頂きます。

2000年5月には大阪でオリンピック代表を決めるアジア選手権大会が開かれました。大会が終わった後、いつも柔道の会場は当時汚かったんです。ですから選手を集めて当時の最年長が中村兼三だったんですが、「兼三、今からみんなでゴミ拾って会場を綺麗にしようか」と話しましたら、「いえ、みんなでやりました」
そう言ってくれました。

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瀧本選手                            中村兼三選手

瀧本が、シドニーオリンピックでは素晴らしい試合で優勝をするのですが、この時には一番最後にギリギリで代表を取りました。アジア大会後に合宿を行ったのですが、オリンピック代表になったにもかかわらず、瀧本からは全く意気込みを感じられませんでした。ある日の朝5時ごろ目が覚めてトイレへ行きました。

そしたら誰かが一生懸命スリッパを並べているんです。嬉しかったですね、安心しました。振り返ったのは瀧本でした。そして恥ずかしそうに駆け足で自分の部屋へ戻っていきました。
オリンピックでは初日に野村が素晴らしい試合で二連覇しました。私はまさかアテネで三連覇するとは思いませんでしたが、是非とも四連覇して欲しいなと願っております。

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野村選手

野村が初日に優勝して、宿舎に帰ったのは夜中の三時頃でした。そして次の日の中村行成の試合のときには、約束の時間までにしっかり準備して、彼は疲れた身体を押して稽古場に来ました。
中村行成は残念ながらメダルに手が届かず負けてしまうのですが、負けた中村行成が控え室に入ってくると、その後ろから野村がペットボトル、ジャージやバスタオルを持ってついて来るんです。
中村ががっかりしながら柔道衣を脱いだのですが、その後ろで中村が脱いだ柔道衣を野村がもの凄く丁寧にたたんでいました。今まであんな丁寧に柔道衣をたたんだ姿を見たことがないです。宝物を扱うように、いとおしく、大事にたたんでいる。

その姿を私と、細川、西田の三人で目にしました。我々もがっかりしたのですが、その姿を見て三人で話しました。「アトランタオリンピックで優勝した後、怪我があったり、辞めたいと思ったり、いろんなことを乗り越えてきた野村、強さだけではなく人間的にも一回りも二回りも素晴らしくなった。柔道衣を丁寧にたたむあの姿を野村の試合以上に日本の柔道家に見せたいな」そんな話をしたことを、つい先日のように思い出します。

篠原選手
青の柔道着が篠原選手

篠原は一生懸命頑張ったのですが、誤審で残念ながら銀メダルに終りました。終った後の記者会見、篠原はこう言いました。「自分が弱いから負けたんです。審判に不満もありません。」
言いたいことはいっぱいあると思います。それと同時に彼の心の中には、「一本」ではなく例え相手のポイントになったとしても、残り時間が三分半あった。俺に本当の力があったら、三分半で逆転できた。負けたのは俺に本当の力がなかったからだ。そういう思いもあったのではないかと思います。

あれが日本人でなければ、他の国の選手なら多くのマスコミを前にして、ビデオを見せながら涙を流しながら全身の手振り身振りで世紀の大誤審を世界にアピールしたのではないかと思います。なんでそういうふうにしなかったのか、篠原はしゃべれないのか、そういう声もありました。

実際は違います、我々が失いかけていた美しい心を篠原は持っていた。人を責める前に、もっと自分に出来ることがあったんじゃないか、そんな思いを持っていたからあのような言葉になったのではないかと思います。
我々は柔道を通して、本来あるべき日本の心をもっともっと大事にしていかなければならないと思います。

余談ですが、その後、私はずっと「俺に何かできたのではないか、俺が抗議すれば銀ではなく金になれたのではないか」そんな思いを持ちながら日々を送っておりました。
ある日、夜中眠っているときにへんな声が聞こえました。「山下、いいんだよあれで。あれはあれでいいんだ、もう気にするな。篠原がとったメダルは銀じゃないよ、あれはプラチナだよ。そのことだけは忘れるな」
そうだ、あの戦いにはプラチナが一番相応しいのかな、そう思います。もう一人私の教え子の井上康生の話もさせていただきたいと思います。

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井上選手と山下八段

2004年、アテネオリンピックの前の日に筑波大学へ稽古に行きました。パラリンピック代表のグループが集まって稽古をしていたらしいのですが、柔道衣が非常に粗末だったそうです。聞きますと自分たちで柔道衣を買わなければいけない、何の支援もない。

そして井上が「パラリンピックの代表選手の方々に柔道衣をプレゼントしたい。同じオリンピック、パラリンピックを目指しているのにあまりにも我々と状況が違いすぎる。可哀想な気がしました。」
私は心を打たれ教え子がやるなら私もしなければと、この話を全柔連にしたところ、それはいい話だけど井上とか山下がやる話ではない。あとは全柔連が引き受けるから何も心配しないでくれ。

アテネオリンピックでは井上は私たちの期待を大きく裏切りました。力を出し切れず終りました。そして2005年1月の嘉納治五郎杯で優勝したものの大胸筋を痛めまして、元気に回復はしていますが試合には復帰しておりません。

普段は優勝しても私に一切電話してこない井上から、嘉納杯で優勝した次の朝、かなり胸は痛むと思いますけど私に電話がかかってきました。めずらしいことがあるもんだと思って電話を取りましたが、「先生、たしか嘉納治五郎杯ではオリンピックのメダリストが全員協力して、新潟県中越地震被災者の方々への募金運動をしてましたよね。私は昨日の試合で優勝してトヨタのマジェスタという車をいただきました。
オリンピックで惨敗してからいろんな人に支えられてここまでこられました、私は優勝したことだけで満足です。この車をなんとか被災者の方々に役立てる方法を考えてはいただけませんでしょうか。」
話を聞きながら私は涙を流しました。自分が思ってた以上に遥かに人間的にも素晴らしくなっていました。

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私は柔道というものは、強さを目指していく中にそういう人間を作り上げていくという、素晴らしきものがある、
力がある、そう確信しております。しかし、現役を終えて指導者になって、ひとつ気になっていることがあります。
柔道人のマナーがだんだん悪くなっているのではないか。学生柔道の大会では大会会長の挨拶の時に、自分達で出したゴミは自分達で持ち帰るようにと、何度も言わなければならない、そういうレベルまで我々のマナーは落ちてしまった気がします。・・・・大事なものを置き忘れているのではないか。そう思っていたときに大変衝撃的なことが熊本で起こりました。

平成13年度のインターハイです。このときの実行委員長をした人が大学の先輩でした。二日目が終った後、先輩は私のところへ来ました。目に涙をためながら言ったことが、「山下、柔道は本当に教育か、人づくりか。それを胸張って言えるか。」先輩どうしたんですかと聞くと、「熊本ではもう二度と柔道の大会は開催したくない。柔道人のマナーは最低だ。ここだけではない、前年の岐阜で行われた大会でも、もう二度と柔道はごめんと言っている」。

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2001年の1月、講道館鏡開きのときに嘉納館長がこう言われました。
「21世紀、これから我々柔道人が目指していくのは柔道を通した人づくりだ。人間教育だ。」
そして嘉納館長の一言から、日本の柔道界、講道館と全柔連が協力して、もう一度、原点に戻ろう、柔道を通した人づくり、人間教育を大事にしていこうと、この柔道ルネッサンスが立ち上がったと私は理解しております。
私の大好きな言葉に「伝統」とはその魂、その精神を継承することをいう、そんな言葉があります。
ある時、もしかしたら我々柔道人は、試合での勝ち負けだけを求め、素晴らしい「一本」の切れ味だけを求めている。形だけを求めて、一番大事な魂の心を忘れかけたのかもしれません。私はどちらも大事です。
今、教育が荒廃している日本の中で、柔道が中心になって青少年の育成、人づくり、これを行っていくべきではないかと考えております。・・・・』

山下さんは、「私は “ 強くなればなるほど優しくなれる ” この言葉が大好きです。これから、出来れば私の体の中から優しさが滲み溢れる、そういうふうに見られるような人間になりたい、なれたらいいな、こう思っています。」と言われています。

山下泰裕さんこそ、まさにそのような方です。

講道館での山下泰裕八段による「柔道ルネッサンスについて」の講演内容
山下泰裕公式ホームページ
武道画録

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人生二度なしー森信三の教え

これの世の 再びなしといふことを いのちに透(とお)り知る人少な


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  森 信三 先生


しつけ3原則 

「ハイという返事」 「朝のあいさつ」 「はきものを揃え、椅子を入れる」

この3つの根本的なしつけを、遅くとも小学校低学年までにやれば、他のしつけはできるようになる。



戦前、戦後を通じて、日本の教育界最大の人物と言われるのが森信三先生です。その気迫に満ちた実践教育は、教育界に留まらずあらゆる分野の人々に、今尚、感銘と影響を与え続けています。

神戸大学教育学部で森信三先生の教えを受けた、村上信幸氏の「人生二度なし」を元にその人となりと教えをご紹介します。

森信三先生は明治29年、現在の愛知県知多市で生まれました。京都大学(大学院)哲学科を首席で卒業し、神戸大学の教授を務めたと言うと、苦労を知らない順風満帆な人生のように思われます。
しかし、幼少の頃より常に厳しい現実生活に直面し、困難と挫折を繰り返しながら実践教育を確立し、平成四年、96歳で亡くなられました。

お祖父さんは第1回の国会議員で、愛知県会議長を16年間勤めていますが、お父さんが坊ちゃん育ちのお人好しですべての財産を失い、絶望したお母さんは幼い信三たちを残し実家に帰ります。
信三は2歳の時に貧しい小作農家に養子に出されました。

尋常小学校4年生を終了し、全校1500名の高等小学校に入りトップの成績を上げますが、貧しい家計で中学校に進学することができません。師範学校に入るには年齢が足らず、昨日まで全校生徒に号令を掛けていた母校で、授業開始の鈴を鳴らし教室の掃除をする用務員として働くことになります。

しかし、養父母は律儀で実直で愛情深く信三を育てます。経済的に貧しく、心豊かな環境が人を作るとすれば、森信三先生を作ったのは、この家庭環境であったと言えます。

数え歳13歳の正月、お祖父さんが一遍の詩を筆で書いて信三に渡し、「これが読めるか」と聞きます。「これは頼山陽という学者が、お前と同じ13歳の正月に詠んだ詩だ。お前もしっかりしなさい。」と漢詩に返り点を付けて意味を教えます。

十有三春秋          (この世に生まれて13年)
逝くものは水の如し      (時流れ、人もうつろう)
天地始終なく人生生死あり (天地は永遠なるも、人には死あり)
いずくんぞ古人に類して   (いかにして名をあげ)
千載青史に列するを得んや (歴史に名を残そうか)

同じ13歳の少年が新年の決意としてこれほどの詩を詠んでいるのに、自分は読むことさえできない。その恥ずかしさと悔しさが学問への決意となります。

愛知第一師範学校を首席で卒業すると、県内の小学校に赴任します。生涯を小学校の教師として全うしようと考えていましたが、その才能を惜しむ多くの人の助言や篤志に支えられ、広島高等師範学校に入学します。卒業後、1年間大阪の阿倍野女学校に奉職し、その後京都大学に進みます。
この間の学資は親戚や実業家の篤志に拠りました。

京都大学を首席で卒業した後、大阪天王寺師範学校教諭に着任します。天王寺師範学校には足掛け13年在職し、この間に書いたのが名著「修身教授録」です。


その後、副学長の懇望で満州の建国大学教授に赴任します。
しかし、6年目に終戦を迎え、戦争犯罪人としてソ連軍から呼び出しを受け、6日間拘留されました。
シベリア送りを覚悟した時、通訳の青年が、「先生、このような動乱の時ですが、お体を大事にして、研究だけは続けてください」とささやきました。建国大学の教え子でした。
しかし、ソ連将校の釈放の条件は、週2回出頭し、隠れている旧軍人を密告せよと言うものです。

そのようなことはできないと、零下20度の厳寒の中に新京を脱出しますが、食料もなく生死をさまよい、凍死、餓死寸前のところで命を取り止めます。
このとき改めて、「躾、たしなみ、道徳、倫理というものは、ある程度の経済基盤があってこそ可能だ」と思い知らされます。
日本に帰られた森先生は、その後、農業大学、神戸大学で教えられ、退官後は年間200回から250回の講演をされました。

森信三先生の教えの柱に、「腰骨を立てる」があります。
一日一日を有意義に生きるためには心を燃やし、己を律することが必要です。しかし、人間はいつもその緊張感を持続できません。

「観念というものは、シャボン玉のようなものでね。一度は『よし、やろう』と張り切っていても、すぐにしぼんでしまうものです。これはどんなに意思の強い人でもどうしようもないことですよ。
時間の経過とともにしぼんでいく決意をどのように持続するか、それには『腰骨を立てる』ということしかないのです。
心身相応の原理で、人間の心と体は切っても切れない、密接に結びついたものですからね。
心の緊張感を保とうと思うなら、体の緊張感を保たねばならないのです。」

森信三先生の講義は次のように気迫と情熱と信念に満ちたものでした。

「『石も叫ばん』という時代ですよ。いつまで甘え心を捨てないのですか。この二度とない人生を、いったいどのように生きようというのですか。教師を志すほどの者が、自分一箇の人生観、世界観を持たなくてどうするのです。眼(まなこ)は広く世界史の流れをとらえながら、しかも足元の紙くずを拾うという実践をおろそかにしてはなりませんぞ」

「教育とは、流れる水に文字を書くようなはかない仕事なんです。しかし、それをあたかも岩壁にノミで刻みつけるほどの真剣さで取り組まなければならないのです。教師がおのれ自身、あかあかと火を燃やさずにいて、どうして生徒の心に点火できますか。教育とはそれほどに厳粛で崇高な仕事なのです。民族の文化と魂を受け継ぎ、伝えていく大事業なのです」

森信三先生を足早に紹介しましたが、とても全体像を伝えることができません。
下記をご参照ください。

修身教授録一日一言
森信三の世界
森信三先生の名言
森信三
森信三一日一語



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敵国から尊敬される武士道ー工藤中佐(2)

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週刊新潮12月18日号誌面

戦後教育を受けた多くの人がそうであるように、私も「君が代」が歌えず、戦前の日本のすべてが悪かったと考えていました。しかし、あるきっかけで過去の日本を否定する戦後教育の過ちを知り、日本人が失った精神の偉大さを痛感するようになりました。
無論、すべてを美化すべきではなく、多くの過ちがありました。しかし良いものは良いと認め、それを継承する冷静な判断力を失ったことが、現在の日本の価値観の喪失と混乱に繋がっているのだと思います。

工藤中佐のエピソードが最近まで知られていなかったように、精神性の高い多くの無名な日本人が、この国を築いてきました。過去形で言わざるを得ないのが残念ですが、誇るに足る民族であったと思います。

承前
ーフォール卿の人生を変えた工藤中佐とは、どういう人物だったのですか。
恵 「工藤中佐は明治34年、山形県の農家に生まれました。軍人になろうと決意したのは、小学校3年生の時に、広島湾(注:岩国港沖)で起きた第六潜水艇の沈没事故が大きなきっかけでした

この時、艦長の佐久間勉大尉は、酸素が消耗していく艦内で、天皇陛下に対して事故の責任を詫び、「部下の遺族をして窮する者なからしめ給わんことを」という遺書をしたためたのです。
(佐久間艇長については過去の記事「忘れられた日本人ーこんな日本人がいた」をご覧下さい)


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第六潜水艇の沈没現場を望む

佐久間大尉の遺書は、工藤中佐が通っていた小学校でも校長の訓示と共に伝えられました。これにいたく感動した工藤中佐は、担任の教師に、「農民でも海軍士官になれますか」と聞きます。
「もちろんなれる」という返事に勇気を得た工藤中佐は、地元の米沢興譲館中学に入学するために猛勉強を始め、その目標の第一歩を歩むのです。

米沢興譲館は藩政改革で有名な上杉鷹山が創設した藩校で、そこは伝統的な武士道教育が行われていました。工藤中佐は海軍士官なるべく志を固め、大正八年、当時超難関とされた海軍兵学校に入学しました。

ー青雲の志に燃えていた。
身長180センチを超える巨漢で柔道は相当の腕前でしたが、ただ人間的には無口なおっとりとした文学青年だったようですね。温厚で強さを表に出すことをしない。細かいことには一切口を出さないが、締めるところは締めるというように、硬軟を使い分ける明治の海軍軍人を彷彿とさせる人間ではなかったかと私は思っています。
海軍兵学校時代、工藤中佐の人格形成に大きな影響を与えたのが、入校時の校長、鈴木貫太郎中将(当時)ですね。

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 鈴木貫太郎

ー終戦時の総理ですね。
そうです。鈴木校長の教育方針は武士道でした。工藤中佐が薫陶を受けたのは半年間でしたが、この間、鈴木校長は武士道に基づき、従来の教育方針を大転換するのです。その一つが鉄拳制裁禁止、つまり下級生を暴力で屈服させてはならないという教えでした。

実際、工藤中佐ら兵学校51期生は、この教えを忠実に守って鉄拳制裁を行わなかったばかりか、下級生を怒鳴りつけることもなく、自分の行動で無言のうちに指導したといいます。私はここに武士道の原点を見る思いがします。

ー駆逐艦「雷」でどのような艦長として見られていたのですか。
周囲から大仏と呼ばれるくらい、やはり普段はおっとりとして身辺を飾ろうとしなかったようです。
その指揮の仕方は駆逐艦長としてはかなり型破りで、着任の訓示も、「本日より本艦は私的制裁を禁止する」というものでした。
それに日頃から仕官、下士官に対し、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱ってはならない」と、口癖のように言っていたといいますね。
見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違って報告した時も、「その注意力は立派だ」と、逆にほめたといいますから。

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駆逐艦「雷」(Wikipediaより

ー艦を率いるには」、やさしさだけでなく厳しさも必要ではないのですか。
工藤中佐について調べるにあたって、私が疑問だったのは、「もしかしたら戦闘意欲が乏しかったのでは」ということでした。
しかし工藤中佐は戦闘指揮官としてもかなり優秀だったのです。彼は艦長時代、敵潜水艦から合計5回の雷撃を受けていますが、全部回避して生還し、うち3回は相手に反撃して撃沈しています。それだけ卓越した戦闘指揮能力をもったリーダーだったのです。

武士道というと強さばかりが強調されがちですが、工藤中佐は強さだけでなく、それと同じくらいの深い温情を持っていたのではないでしょうか。

こういう逸話がありましてね。
海軍艦船では士官食堂と兵員食堂では食事の内容がかなり違っていました。もともとサンマ、イワシなどの光り物が好きな工藤中佐は、士官食堂で出たエビや肉料理を皿ごと持って、草履をパタパタさせながら兵員食堂にやってきて、「おーい、誰か交換せんか」と言ったというのです。艦長といったら水兵たちにとっては雲の上の存在でありましたから、このような型破りの行為は他の艦船ではありえない話でした。

このほか士官兵の区別なく酒を酌み交わしたり、兵の家庭が困窮している事情を耳にすると、下士官に命じて、その兵が家庭に送る送金袋にそうっと、自分の俸給の一部を差し入れたという話も残っています。
工藤中佐着任後二ヶ月もすると、「雷」の乗組員は中佐に感化され、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになります。

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ー英兵の救助活動で、その総合戦力が見事に発揮されたのですね。
まさにそのとおりです。敵潜水艦が行動する海面で、長時間、艦を止め救助に当たるのは、この上ない危険な行為です。しかも救助する対象は敵兵です。それを決断した工藤中佐も立派ですが、その英断を信じ、危険を承知で救出にあたった「雷」乗員の努力にも心を打たれずにはいられません。

救出時には様々な逸話があります。浮遊木材にしがみついていた重傷者が最後の力を振り絞って艦まで泳ぎ着き、救助用の竹竿に掴まると同時に安心したように水面下に沈んでいくという光景も多く見られました。

甲板上の乗組員たちは涙声になって、「頑張れ、頑張れ」という声援を送る。そのうちに、これを見かねた水兵が独断で海中に飛び込み重傷者の体にロープを巻き付ける。続いて二人の水兵が飛び込んで救助に当たる・・・。そうなるともう敵も味方もありません。国籍を超えた海軍独特の仲間意識がそこに芽生えるのです。

工藤艦長はさらに遥か遠方に漂流するたった一人の敵漂流者を発見しても決して見捨てず、乗組員総出で救出した。そして救助した彼らに自分たちの貴重な飲み水や食料、衣類を与えて手厚くもてなす。これを武士道精神と言わずして何というのでしょうか。

ーその後の工藤中佐についてお話ください。
工藤中佐は「雷」艦長としての任務を終えた後、駆逐艦「響」の艦長などを務めました。戦後は奥様と二人、故郷の山形に帰り、庭師として生活しました。その後、奥様の姪が埼玉県川口市に医院を開業すると、工藤中佐は事務員として、奥様は賄い婦として働き、昭和54年に78歳で亡くなるのです。子宝や地位、金銭に恵まれることもなく、戦後ひっそりと生き、人知れずその生涯を閉じるわけです。

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ー自分の功績は誰にもはなさずに。
日本の職業軍人に対する評価は戦後180度変わりましたしね。それに「雷」はその後、撃沈され乗組員全員が散華(さんげ)されました。工藤中佐はこれに心を痛め、兵学校のクラス会に顔を見せることもなく、毎朝戦死した部下たちの冥福を祈るのが日課だったそうです。
そこには大業を成しながら、己を語らず、黙してこの世を去った男の美学を見ることができます。

しかし、私は工藤中佐の生涯は、今の日本人に大変なものを残したと思うのです。それは、日本人が失ってしまった武士道精神、誇りというものです。さらにこれを今回、旧敵英国海軍士官によって、逆に日本人が教示されたのです。

残念ながら現在、社会の指導的地位にある我々戦後世代には、欧米のエリートが当然堅持している愛国心や使命感が希薄です。このままでは日本は衰退し、さらに国際社会で孤立していくことでしょう。工藤中佐が示されたリーダーシップや勇気、さらには自己犠牲の精神こそ学校教育に早急に取り入れるべきです。」

参考記事:
フォール卿特集
博士の独り言


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こころの教えー東井義雄

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東井義雄 (とういよしお)氏

先日ご紹介した㈱タニサケから、「ー東井義雄伝ーほんものはつづく つづければほんものになる」(村上信幸著)という小冊子が出ています。

東井義雄先生は、明治45年に兵庫県豊岡市但東町で生まれました。檀家が9軒しかない、日本で一番貧しいと言われるほど極貧の寺の長男として生まれため、大変な苦労を重ねて教員になり、数々の功績を残されました。ペスタロッチ賞、文部省の教育功労賞などを受けられ、逝去後は従五位に叙されています。(東井先生の功績からすれば外面的なことですが)

東井義雄先生のこころの教えと言う本に書かれている話をご紹介します。

「広島県のある高等学校の話です。水泳大会のプログラムの中に、学級対抗のリレーが組まれました。ある学級で、4人の選手の中、3人はすぐ決まりましたが、4人目でもめました。その時、いじめグループの番長が「Aにでてもらおう」と叫びました。「そうだ、そうだ」と取り巻き連中が賛成してしまいました。
Aさんは小児麻痺の女生徒で、とても泳げる体ではなかったのです。でも、彼らの恐ろしさを知っているみんなは、それに抗議することができませんでした。

いよいよ大会の日、Aさんが泳ぐ番になりました。1メートル進むのに2分もかかりました。まわり中からバカにした笑いとののしりの声が浴びせかけられました。
その時、背広のままプールに飛込んだ人がありました。そして「つらいだろうが、がんばっておくれ。つらいだろうが、がんばっておくれ」と、泣きながらいっしょに進み始めました。校長先生でした。

冷たい笑いとののしり声がピタリとやんで、涙の声援に変わりました。
Aさんが長い時間をかけて二十五メートルを泳ぎぬき、プールサイドに立ち上がったとき、先生も生徒も、いじめグループのみんなも、一人残らず立ち上がって、涙の拍手をおくり、Aさんをたたえました。

その学校のいじめは、そのときからピタリと姿を消しました。校長先生が、Aさんの輝きをみんなに気づかせ、目覚めさせてくださったのです。」


以下は、ある教師の東井先生に対する思いを述べた文章です。

「ある日、締め切りの迫った論文の原稿を徹夜で書き上げ、「今日こそは東井先生に見てもらって発送しよう」と、張り切って登校しました。二時間目の休み時間に校長室へ行ってみましたが姿が見えません。教頭先生に尋ねても「さあ、どこへ行きはったんか知らんで」と言われます。

何度も何度も校長室をのぞきに行きました。何度行っても姿が見えません。私はだんだんイライラしてきて、「行き先ぐらい、ちゃんと言ってでればいいのに」と悪口をつぶやいていました。

昼休みも、午後も、放課後もおられません。とうとう帰る時間になっても東井先生の姿は見えませんでした。「今日、この原稿を送らないと、締め切りに間に合わないし、どうしよう」とイライラをつのらせ困り果てました。

ちょうどそのころ、妻が八鹿病院に入院していたので、私は病室から学校へ、学校から病室への生活をしていたのです。その日の夜、病室に入ると妻が「お父ちゃん・・・」と言って泣きながら私を見つめるのです。

「何だ?何があった?」と尋ねても、涙にむせんでなかなか話せないのです。やっと「今日、東井先生がお見舞いに来てくださって、一日中看病してくださったんです・・・・」「みんなの大切な校長先生です。看病していただくのは有りがたいですが、私などが一人占めするわけにはいきません。どうか学校に帰ってください」と、何度もお願いしたのですが、「学校はお父ちゃんたちが、きちんとやってくれているので心配せんでもええで・・・」と言って、午後もずっと看病をしてくださったと言うのです。

妻は大手術をした直後でしたから、背中に手を入れて持ち上げるようにしていないと、絶えず激しい痛みが襲ってくるのです。前の夜は私は論文を書きながら、何度も手を入れて背中を持ち上げ、その為に首も肩もパンパンに張っていました。

妻の背中には空気枕を入れて出勤したのです。東井先生は「お父ちゃんの代わりは出来んけど・・・」と言いながら、一日中妻の背中に手を入れて持ち上げ、痛みをやわらげていてくださったと言うのです。私は体中が硬直して、ガタガタ震えが止まらなくなりました。

一日中、東井先生の悪口を言い、腹立ちを募らせていた情けない自分、そんな私のために、妻のために東井先生は、その大切な時間を使って、骨の折れる看病をしてくださっていたのです。
・・・略・・・

東井先生の、限りない愛のいのちに出合い、いつの間にか、私と妻は手を取り合って泣いていました。それからは、私はもとより家族みんなが、東井先生をかけがいのない「人生の師」として仰ぐようになっていったのです。

東井先生の慈愛の光に突き動かされ、光を持たない私も、少しずつ光り始めました。」
・・・略・・・


学生時代、私も教職課程を取りました。無味乾燥な教育概論を、何の興味も持たず聞いていました。もし当時、東井先生の著書を読んでいたら、教育の可能性と重要性を知り、教員になっていたのではないかと思います。
教育とは理想を語り、情熱を傾けて、子どもたちの命を輝かすことであると、あらためて教えられました。




国際有機認証取得、信頼の「しらい田七人参」

ならぬことはならぬ

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会津藩「什の掟」

岐阜に株式会社タニサケという会社があります。すばらしい社風の会社で社員教育も立派です。社内の提案制度での改善は日本一と言ってよいかも知れません。その結果として高収益をあげており、全国から見学者が絶えません。

この会社が定期的に心の教えについて講演会を主催され、その講演録が小冊子になって販売されています。その中からエピソードをご紹介します。

坂西輝雄先生(元群馬県教育長)講演「今、こころの時代に」ー豊かな心への道ーより

・・・新潟県の高田市(今の上越市)でPTA会長をされていた戸羽さんという方の子育ての話です。

「私の長男は敏雄といって、今、高校三年生ですが、小学校三年生か四年生のとき、1月末の粉雪のちらつく寒い夕方でしたが、私が外出先から帰ってくると、妻から、敏雄が仏壇の前にあった金の一部を持ち出して使ってしまったと聞かされたのです。

私はすぐ敏雄を呼んで、「いいか、おまえがしたことがどんなに悪いことか、お父さんが教えてやる。これからおまえに水を5杯かける。しかし、おまえがそういう悪いことをしたのは、おまえが悪いだけではない。そういう悪いことをさせたお父さんにも責任がある。だから、お父さんも水を5杯かぶる」と言いました。

妻が泣いて止めるのも聞かず、パンツ1枚になった敏雄と私は粉雪の舞う庭に出ました。まず私が、身を切るような池の水をバケツで5杯かぶる。その姿を、目に涙を流しながら、そのとばっちりを避けようともせず、ぶるぶる震えて立っている息子を見たとき、この時ほど、この息子は、おれの血を分けた大事な息子なんだと実感をもって胸に迫ったことはありませんでした。

平生、トランプをしたり、キャッチボールをしたりして遊んでいるときも、自分の息子だと感じていたことにかわりはありませんが、私のバケツの水しぶきが自分の体に跳ね返ってくるのに、避けようともせず、たらたら涙を流してじっと見つめている息子の顔を見たとき、この子は自分の血を分けた大事な息子なんだ、と実感として受け止めたことはありませんでした。

それから心を鬼にして、息子に三杯、水をかけたら、息子はすくんでしまいました。あとの二杯は半分ぐらいにして、数だけ約束どおり5杯かぶせると、私は、息子を横抱きにして風呂場に駆け込みました。そして、乾いたタオルでごしごしと息子の体を拭いてやったのですが、そしたら、息子が、わきのタオルで私の腹をなでているのです。私は思わず息子を抱いて、男泣きに泣いてしまいました。
それからというもの、敏雄はまちがっても、自分の金でないものには、投げておいても手を触れない子になりました」

三百年ほど前、会津藩に「什(ジュウ)の掟」という、子どもの掟がありました。
藩全体で子どもにこういう「しつけ」をしたと言います。

一、年長者の言うことにそむくな。
二、年長者には、おじぎをしなさい。
三、うそを言うな。
四、卑怯なことをするな。
五、弱いものをいじめるな。
六、外でものを食べるな。(今の時代、通用しませんが美意識だと思います)
七、外で女の人と話をしてはいけない。(今の時代、通用しません)
八、ならぬことは、ならぬものです。

ーならぬことはならぬと、自信をもって言い切った会津藩の大人の権威が、そのまま生かされているかのような感動を覚えます・・・。



親が身をもって教えること、子供にも身をもって覚えさせることは、教育の重要な方法であるはずです。
スポーツの世界では当たり前のこととして受け止められるのに、教育の世界では体で覚えさせることを否定する甘やかせの風潮が、今の日本を作っているのではないでしょうか。


参考:会津藩校日新館」 「什の掟





吉田松陰から思うこと

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 松下村塾     
    
知人と話をしていて話題が吉田松陰に及び、考えたことがあります。

吉田松陰は29歳で刑死しましたが、松下村塾を開いた2年間で、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、木戸孝允(桂小五郎)、山田顕義(日本大学・国学院大学の創立者)、久坂玄瑞他、多くの人物を育てています。

なぜこのようなことができたのか。
これまでは単純に、吉田松陰がすばらしい思想家だったからだろうと考えていました
しかし、そうではなく、かっての日本の教育システムが人を育てていたことに気づきました。きっかけは6歳児の書いたお別れの言葉の記事でご紹介した丹養塾幼稚園でした。

この幼稚園で行われていたことは、教育がどれだけ重要で、どれだけのことができるかを教えてくれます。
そして大事なのは、かって、日本中の寺子屋や私塾で同じような教育が行われていたはずだということです。

いくら吉田松陰が立派な思想家であっても、2年間でできることは限られています。松陰の門下生たちは、寺子屋や私塾で基礎的な考え方や知識を学んでいました。人間的な生き方の基本が身についていたからこそ、松陰の教えを吸収できたのです。

そして、明治維新に必要な人材が長州(山口)に集中していたのではなく、たまたま薩長連合で長州が明治維新の中核になっただけであり、もし他の藩が中核になっていたとしても、同様の人材が活躍していたでしょう。それほど日本の教育水準は高かったのです。(山口の人、すみません。私も山口出身です)

日本に武士道精神が一番根付いたのは明治時代でした。士農工商が廃止され、廃藩置県で職を失った多くの武士が教員になりました。当時、教員の80%が武士だったといわれています。

日露戦争で、世界最強と言われたバルチック艦隊がバルト海を出航した時、それを見た沿岸諸国の人々は、その大艦隊が一隻も帰って来ないなど考えもしませんでした。
相手はわずか50年前に黒船に驚いた日本です。大国ロシアに勝つことなどありえない話です。

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日本海海戦

武力の戦いであれば結果は見えていました。
日本に勝利をもたらしたのは武力ではなく、知力を尽くし、誠を尽くし、義を尽くして国を守ろうとする日本人の無私の心でした。

「忘れられた偉人ーこんな日本人がいた」でご紹介した佐久間艇長に、無私の心とは何かを見ることができます。

過去の日本の教育を、軍国教育と決め付けるのではなく、優れたところを冷静に見る必要があります。





6歳児の書いたお別れの言葉ー丹養塾幼稚園 続き

小さな人生論〈2〉「致知」の言葉小さな人生論〈2〉「致知」の言葉
(2005/10)
藤尾 秀昭

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<その後分ったこと>
あの池田小学校の無残な事件の折、先生たちがパニックになり右往左往していた時に、3人の子供が相談して110番しました。
この子供たちは丹養塾幼稚園の卒園生でした。
残念ながら、園長先生が亡くなられた後、丹養園幼稚園は運営されていません。


「お別れの言葉」をもらった園長先生は、吉田良次先生といいます。
吉田良次さんは、兵庫県伊丹の農家の後継ぎに生まれました。師である安岡正篤に出会ったのが昭和24年、18歳の時でした。
「自分の人生は一介の農民としてこのまま終わっていいのか」という煩悶が師の門を叩かせたのです。
以来、吉田さんは農業に励む傍ら安岡師の教えを得て、古典の教えを学びました。

吉田さんはその学びを少しでも後世に伝えたいと考え、自宅の納屋を改築して、「丹養塾幼稚園」という保育園を開設しました。
そして古典の徹底した素読教育を実践したのです。

 園児たちの1日は、朝30分の勤行(ごんぎょう)から始まります。本居宣長などの「和歌」や三輪執斎の「憤」など古典の名言を唱和します。意味や解説は教えず、吉田さんが先頭に立ってとにかく朗誦し、その後を子供たちが唱和します。
ただその繰り返しが驚くべき力を発揮したのです。

1年もしないうちに、どの子も古今の名言をすらすらと朗誦するようになったのです。それだけではありません。新しく入ってきた子は年上の子に倣って朗誦するようになります。
そして、いつか漢字まじりの原文を読み、書き、意味を理解するようになっていきます。

どうしてこんな驚くべき教育ができたのか、 重要なポイントを整理します。

1.素読の重要性

古典を原文のまま繰り返し素読することによって、原文の持つ格調やリズムを覚える。

2.丸暗記の重要性
素読によって暗記したことは成長過程でその意味を理解し、気づきや指針となる。

3.幼児期に本物を教える
子供の能力に限界はありません。バッハの音楽を聴いて育てばバッハが好きになり、名演奏を聴かせれば名演奏に感動できる感受性が育ちます。
よく引き合いに出すバイオリンの「スズキメソード」は、バイオリンを始めたばかりの子供たちに巨匠の名演奏を聴かせます。古典の素読と同じ意味です。

6歳児の書いたお別れの言葉ー丹養塾幼稚園

小さな人生論〈2〉「致知」の言葉小さな人生論〈2〉「致知」の言葉
(2005/10)
藤尾 秀昭

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 致知出版社刊行の藤尾秀昭著「小さな人生論2」のなかに、ある幼稚園の園長先生が亡くなった際、6歳の女の子が書いたお別れの言葉が紹介されています。
とても6歳児が書いた文章とは思えないほどしっかりした内容に心を打たれます。

『お別れの言葉
園長先生、歩未の声が聞こえますか。2歳10ヶ月の時、丹養塾幼稚園に入園してから、漢字、算盤(そろばん)、諺、俳句、花園文庫、伝記、少年日本史朗誦選集など、園長先生には沢山の事を教えて頂きました。

毎日一生懸命勉強して南宋の文天(ぶんてん)祥(しょう)の正氣(せいきの)歌(うた)を暗誦できるようになった時も、算盤の大会でトロフィーを貰って来た時も、園長先生はとても喜んで褒めて下さいました。

それから園長先生は色々なところに連れて行って下さいました。北海道巡歴研修でクラーク博士の像の前で「青年と大志」を朗読した事、青森文字色駅のデパートの軒先で野宿をした事、北陸巡歴研修で、永平寺で座禅をした事、橋本左内の銅像の前で啓発録(けいはつろく)を読んだ事、沢山の楽しい思い出があります。

他にも、親子教室甲山の遠足、運動会、お餅つき、立志集、卒園式、小音楽会、桃太郎の劇など園長先生に教えて頂いた素晴らしい思い出が沢山出来ました。

これから園長先生は天国へ行って、私達の事を見守っていてください。

私達は、園長先生に教えて頂いた事をいつまでも忘れず深くさぐって強く引き出す人になります。天から受けたものを天にむくいる人になります。そして、この世に役立つ人になります。園長先生、ありがとうございました。 

平成15年11月23日 園児代表 吉田歩未』




「私達は、園長先生に教えて頂いた事をいつまでも忘れず、深くさぐって強く引き出す人になります。天から受けたものを天にむくいる人になります。そして、この世に役立つ人になります。園長先生、ありがとうございました。」

こんな表現が6歳児にできるのです。園長先生の教育のすばらしさに心を打たれます。
親や先生が引き出せば、子どもの能力には限りがないのです。

橋本左内が啓発録を書いたのは14歳の時でした。人に見せる為ではなく、自分を戒め、向上さすための自戒録として書かれています。
昔、12歳から15歳位の間に元服式を行い、大人として自立する覚悟を決めましたが、20歳の成人式が何の意味も持たない現在と比べて、かっての日本人の素晴らしさを痛感する文章です。

つづく




トップになる子の条件

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NHK杯での浅田真央ちゃんの演技(というのでしょうか)は,明らかに進化が感じられました。
どんな分野でもトップに立つ人は並外れた才能と、努力と運があります。しかしそれに加え、本番で上がらずに実力を発揮できるかどうかも才能です。

日本将棋連盟の米永邦雄会長は長年の経験から、「名人はみんなから名人の器と認められた者がなる」という持論を持っています。言い換えれば実力だけでは名人になれず、応援が多い者が名人になるというのです。
スターとして愛された選手には、観客や世間の応援が後押ししますが、一方、観客やテレビの前の人達がこの選手を一番応援していると思えば、他の選手は、「この選手には勝てない」との思いが湧きます。採点競技なら審査員の心証も変わるでしょう。

米永邦雄氏は、その道で一人前になる条件を「集中した5000時間の練習」と言っています。一日1時間集中して練習した場合は約14年、2時間では7年で一人前になるわけですが、子供の時に始める方が何倍も習得が早く、高度なレベルに到達します。
人並み以上の才能に加え、人一倍の練習をしていて、なぜ、トップに立てる人と並の才能で終わる人が出るのでしょうか。
そこにもう一つの要素があります

「志の高さ」です。



将棋のプロ棋士になるためには「奨励会」に入り、4段にならなければなりません。奨励会に入ってくる子供たちは、小学生で既に各県の代表レベルの実力を持っている才能ばかりです。では名人になる子供と並の棋士で終わる子供の差はどこにあるのでしょうか。

長年奨励会で子供たちの世話をしてきた棋士によると、「決定的な差が現れる原因は、才能ではなく、志の高さ」だと言います。自分は名人になると決意している子供でなければ、決して名人になることはできず、漠然と一流に成れたら良いと考えている子供は一流にもなれないと言います。

東大に入ると決めた子供は東大に入る努力をしますが、その目標がなければそれなりの努力しかしません。

成功法則で「目標を具体的にイメージする」と言うのも、このことだと思います。


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