不老不死の不幸「アデライン、100年目の恋」を観る

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観るつもりだった映画が満席で、同時間帯に上映していた映画「アデライン、100年目の恋」を観た。事故によりいつまでも変わらない若さと美しさを宿命付けられた女性の不幸がテーマだが、明るいラブ・ファンタジーで十分楽しめた。何よりアデライン役のブレイク・ライヴリーの笑顔が魅力的だった。

主人公アデラインは雪で車がリップして川に転落する。低体温症で心臓が止まった瞬間、車に雷が落ちて再び心臓が動き始める。落雷による電磁圧縮作用で老化が止まったアデラインは、100歳になっても外見は29歳の美しいままでいる。

彼女は怪しまれないように10年ごとに名前も住所も変えて生きている。親しい友人もなく心の支えは愛犬と一人娘だけだ。しかし愛犬たちを次々と見送り、娘もすっかり老いてしまったアデラインを待っているのは孤独だった。

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そんな彼女の前に青年エリスが現れ愛の告白をする。エリスは大学時代の起業で手にした資産で社会貢献をしており、その人間性に感銘を受ける。しかし自分の秘密を知られたくないアデラインはエリスの前から消えようと葛藤する。
やがてエリスの愛を受け入れたアデラインはエリスの実家を訪れる。エリスの父親ウィリアム(ハリソン・フォード)は彼女を見るなり驚愕して「アデライン」と呼びかける。彼はかつてアデラインが心から惹かれながらも、自分の秘密を守るために身を隠した昔の恋人だった。
「100年目の恋」というタイトルは内容とあまり関係なく、ハリソン・フォードは主役ではない。


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  テロメア

アデラインが歳を取らなくなった理由は、落雷によって細胞の末端にあって老化と寿命を司るテロメアが働くなったためと言う設定になっているが、老化はテロメアだけで決まるものではなく、また車に落雷した場合は車体の表面に電気が流れるので車内は安全である。
だが、この映画はラブ・ファンタジーであってそんなことはどうでも良い。この映画はアデライン(ブレイク・ライヴリー)の美しいほほ笑みを見るためにあると言って良い。

永遠に若く美しくあることが不幸であるというこの映画の発想は、テロメアの発見によるものだろう。
細胞がいつまでも分裂を繰り返すのであれば、人の寿命は何百歳でも可能だ。細胞分裂の回数を制限するテロメアという存在は、種の保存という観点からは邪魔な存在であり、これは多分創造主の叡智によるものだろう。

様々な肉体と生存環境で魂の修行をするためには、一つの肉体に長く留まるべきではない、創造主はそう考えたのだろう。
もし厳しい環境で人生修行することを選んだ魂にとっては、死は救いとなるはずであり、一方、逆に安楽な環境でどれだけ長く生きたとしても魂の修行にはならない。

ソフォクレスのギリシャ悲劇「コロノスのオイディプス」の中に次のような記述があった。

この世で一番良いことは、この世に生まれないことだ。
二番目に良いことは、 生まれたからにはなるべく早く生まれて来たところ(あの世)に帰ることだ。

日本でも欣求浄土厭離穢土(ごんぐじょうど おんりえどー穢れたこの世を去り、早く極楽に行きたい)という末法思想があった。長い間、人々にとって生きることは苦しいことであり、救いはあの世にあった。

多くの人の衣食住が安定し、生活を楽しむことができるようになったのはほんの近年に過ぎない。しかしそれが今や深刻な高齢化社会に直面している。
もしテロメアと言う寿命を制限するストッパーがなければ、世界はさらに深刻な高齢化問題に直面しているはずだ。

人間にとって死は救いであって、永遠に生きることほどの恐怖は無い。
天国は死後にあるのだから。

「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」  細川ガラシャ




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また泣いたー「永遠の0」

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永遠の0」をまた見て、また泣いた。
ストーリーがわかっていて感動するのは、この映画の完成度の高さを物語るものでしょう。
原作になかった、主人公が「必ず帰って来る」と妻に伝えるエピソードが、この映画の感動に大きく貢献しています。
それを追加した山崎貴監督の感覚は見事です。
前回も感じたことですが、元ゼロ戦パイロットでヤクザの親分に扮する田中泯の存在感は際だっていました。

井筒和幸監督が、「永遠の0」は特攻を美化している、観たことを記憶から消したい」と批判しているようですが。どれだけ粗雑な感性であれば、この映画からそういう結論がでるのでしょうか。
「特攻は悪」という観念に凝り固まった人間には何を言っても無意味でしょう。短期記憶を消すには認知症が有効なので、そうなることを願わずにはいられません。

特攻が作戦として間違っていたことは明らかです。しかし特攻という無謀な作戦に身をささげた若者たちが守りたかったのは、日本と言う国であり家族であり文化でした。金や地位や自己のエゴを大事にする昨今の日本人なら、特攻になど志願しません。
国や同胞や家族をまもるために散って行っ若者たちに、感謝をささげることができないほど日本人が落ちぶれたことを知ったら、彼らは自分たちの死が犬死だったと悔しがるでしょう。

話はまるで違いますが、著名な音楽評論家である宇野功芳さんは、チャイコフスキーが嫌いだと公言しています。多分甘美な旋律が俗っぽいのだと言いたいのでしょうが、例えば『「白鳥の湖』の「情景」の美しい音楽を聴きながら、これは美しいのではない、俗なだけだと自分に言い聞かせているのだと想像するとほほえましくなります。

好き嫌いの問題であれば、バッハが嫌い、チャイコフスキーが嫌いと言っても、その趣味をとやかく言うことはできません。
しかし特攻は悪である故に、それをテーマにした映画は無意味だと断ずるのは、論理的に正しくないだけでなく、映画や芸術のテーマを限定し、表現の自由を制限することになります。映画表現は正しさを基準にするものではありません。もしそうであれば、井筒監督の映画も存在理由が無いはずです。


先だって、山田洋次監督の「小さいおうち」を観ながら、しまった、「永遠の0」をもう一度観るべきだったと考えていました。

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「小さいおうち」は、別の映画を観るつもりが、上映時間を間違えて代わりに観たものでした。映画をつくりなれた山田洋次監督らしくそつのない作品で、別に悪く言う出来ではないのですが、松たかこ演ずる人妻が好意を寄せ、不倫関係になる相手の男が吉岡秀隆と言う点で、感情移入ができず白けてしまいました。(彼は無いよ)
もうひとつ、舞台になる家が小さいとは言えなかったのは企画のミスでしょう。家が出るたびに「小さくないよ」と思っていました。
「小さいおうち」ではなく、小さかったのは映画でした。
主人公のお手伝いさんを演ずる黒木華は、昭和の香りがする女優ではまり役でした。

「永遠の0」をもう1回観ようと思っています。
 観ていない方は是非観てください。



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