真央ちゃんとゆるキャラ

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浅田真央ちゃんの引退に伴うマスコミの大々的な報道を見て、あらためて真央ちゃんがどんなに愛されていたかを知りました。

なぜ真央ちゃんがこれだけ日本人に愛されたのかを考えることは、日本人の特性を知るための格好のテーマです。

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真央ちゃんが愛された理由を考えるとき、思い浮かぶのが「ゆるキャラ」です。
ゆるキャラが日本人に受けた理由の一つは、丸く角がないデザインと材質にあるでしょう。角がないため攻撃性が感じられず親近感を覚えます。柔らかい材質はあたたかさや安心感をあたえます。

顔の作りは美しさではなくかわいさを追求しており、体型は基本的にバランスの悪いドラえもん型です。
ドラえもん体型には日本人が親近感を覚える理由があります。

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古来日本人は黄金比ではなく白銀比に親しんできました。
黄金比(1:1.618≒5:8)がピラミッドやパルテノン神殿、ミロのヴィーナス、ダヴィンチのモナリザ、オードリー・ヘップバーンの顔の縦横比などに見られるのに対し、白銀比(1:1.414≒1:√2)は、法隆寺、仏像や浮世絵の顔の縦横比 風呂敷、A判用紙などに見られます。
白銀比は大和比とも呼ばれ日本が発祥です。

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タレントや女優でも美しいというよりかわいい方がもてはやされます。
たとえば有村架純の顔はほとんどゆるキャラですし、「あまちゃん」の能年玲奈(なぜか干されて、現在は「のん」に改名)は文春の好感度ランキングではV2となっています。美人顔でないのがポイントでしょう。

なぜ日本人は美人よりかわいいを好むかのかと言えば、美人には気取りがあったり、高飛車であったり、生意気さが感じられたりするのですが、かわいさにはそれがありません。
まわりとの調和が感じられます。
「かわいい」は日本文化のキーワードになっていますが、それは和を尊ぶ日本人の性格と感性の現れと言えます。

真央ちゃんは女子フィギュアスケートのトップスターでありながら、いつも子供のような笑顔をうかべて、少しも偉ぶるところがありません。まず思い浮かぶのが「かわいい」であり、日本人が一番好きなタイプです。

それにしても引退会見で『トリプルアクセルになんて言ってあげたいですか?』と愚かな質問したNHKの記者は、現在のマスコミのレベルの低さを象徴しています。
質問の愚かさなら金メダルです。

参考:「日本人の常識は間違っているか

黄金比より日本人にとって馴染みのある比率「白銀比






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老いと青春

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初めて若さを輝かしいものに感じたのは、父親を老人ホームに訪ねた時でした。
献身的にお年寄りを介護する若者たちを見た時、若さとはなんと魅力的なことなのかと目を瞠りました。

それまで会社でいくら若い社員たちを見ても、若さというものにさほど魅力を感じず、むしろ若さゆえの未熟さや危うさを感じさせられていました。当時、自分の中のエネルギーや気力が若者たちに負けていないという自負があったからでしょうが、若さを輝かしく見るという思いはほとんどありませんでした。

しかし老人ホームの中でお年寄りの介護をする若者たちは、老人の枯れて朽ちて行く肉体と、未来のない人生の対極に位置していました。そこには若さの持つ力と輝きがありました。

現在ほど老人の存在が問われている時代はありません。
年金や健康保険、あるいは認知症の問題など、長生きが国の大きな問題となっています。
つい最近、100歳以上の老人が6万人を超えたと発表されましたが、1970年は100歳以上の老人は310人に過ぎませんでした。

「キンは100歳、ギンも100歳」という金さん銀さんのCMがありましたが、100歳が珍しくない今の時代であれば生まれることのなかったCMです。
還暦、古希、米寿、喜寿など、長寿を祝う言葉は、人生が50年以下の時代に生まれた言葉であり、現在はむしろ老害について語られなければならない時代となっています。

自然に死ぬということ

サミュエル・ウルマンの「青春」という詩があります。
この詩を初めて見た時は、「青春」が心のありようであることを言うのに、なぜこのように大げさに語られなければならないのかと辟易しました。

久しぶりにあらためて読んで見ても、やはり大げさな表現に鼻白む思いがしますが、しかしそれはウルマンのせいではありません。原文は平易に青春が心のあり方であることを語っており、訳者の美文調の名訳が私には合わなかっただけです。

しかしこの詩が語っていることはその通りのことです。
人間は魂の修行のためにこの世に生まれてきます。肉体が老化して思考力が失われ、生きていることが魂の向上につながらなくなった時、魂は肉体から離れ死を迎えます。

長生きが単純に良いことであるという認識の中で、病院の延命治療が行われています。しかし老人の延命は、場合によっては好ましくないということを社会の共通認識にしなければならないでしょう。そのことは多くの人がわかっていながら、倫理に反することのように言い出せないでいます。

心にこそすべての価値が存在します。老人問題はこの視点を無視して語ることは出来ません。


  サムエル・ウルマン「青春」
                   佐山宗久 訳 

青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を云う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、
驚異に惹かれる心、おさなごのような未知への探求心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・喜び・勇気・力の
霊感をうける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪に覆われ
悲嘆の氷に閉ざされるとき、
20歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
80歳であろうと人は青春にして已む。

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「YOUTH」
Youth is not a time of life-it is a state of mind; it is a temper of the will,a quality of imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love ease.

No body grows only by merely living a number of years; peoples grow old only by deserting their ideals. Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, doubt ,self-distrust, fear and despair-these are the long ,long years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.

Whether seventy or sixteen, there is in every being's heart the love of wonder, the sweet amazement at the stars and the starlike things and thoughts, the undoubted challenge of events, the unfailling childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.
you are yang as your faith, as old as doubt ;
as young as your self-confidence, as old as your fear;
as young as your hope, as old as your despair.

So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur and power from the earth, from man and from the Infinite so long as your young.

When the wires are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of pessimism and the ice of cynicism, then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul
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失くなった携帯電話

田沢湖
秋田県 田沢湖


先日、買ったばかりの携帯電話が失くなった。
会社から出る時にバッグに入れ、車の助手席に置いたはずだが見あたらない。
翌日会社を探したが出てこなかった。

つい最近携帯を失くして買ったばかりだった。もう一度車内を丁寧に捜したが見つからない。
電話の利用停止手続きをして、30分後に車に戻ってドアを開けると、なんと運転席のシートの上に、何事もなかったかのように携帯がある。

見落としていたのだろうか。しかし運転席のシートの真ん中にあるものを見落とすことは、いくら注意力散漫な私であっても難しい。
誰かがいたずらをした可能性はどうだろうか。車のキ―はずっと自分で持っていた。そんなイタズラをする人間もいない。
いよいよボケが始まったのだろうか。こちらの可能性は強く否定できない。(泣)

もう一つの可能性は、携帯電話がどこかに移動し、また戻ってきたということだ。馬鹿なことと思われるかも知れないが、本当にそうだと思っている。いつまでも気づかない私に対して、あることを教えるメッセージだと直感的に思った。その直感が正しければ、メッセージは自分の今後の生き方を指し示すものだった。

学生時代にUFOを見てから、見えない世界の仕組みを研究するようになった。次元の違う世界が関与すれば、瞬間移動や物質化は不思議なことではない。
空中から水晶の玉が出てきたことがあった。何だろうと拾い上げた時にゼリーのように柔らかかったのが、みるみる手の中で硬くなっていった。

いや、そんな事はたいして意味がない。危険なことも多い。そうではなくて大切なことは、魂の兄弟姉妹である守護霊は、いつも私たちに気づいてほしいと様々な形でメッセージを伝えようとしているということだ。たとえばそれは、朝目が覚める直前の夢であったり、散歩をしている時のひらめきや気づきであったりする。

最初にそれを体験したのは、皇居の前を歩いている時のことだった。
前に書いたように、戦後の反日教育を受けて育った私は、天皇や皇室が大嫌いで、君が代を歌うなどとんでもないことだった。君が代を歌わなければならない時は、口パクでごまかしていた。

ところが、ある時皇居の傍を歩いていると、突然「天皇は日本の救いだ」との思いが湧いてきた。それは無条件の説得力で心に響き、その瞬間、天皇陛下に対する思いが一変した。日本の歴史や文化の中心に天皇陛下がおられた。穢れの無い日本的心性の中心に神道の祭祀があり、天皇陛下がおられた。天皇制は日本の救いだった。
その体験が守護霊によるものであることを知ったのは、ずっと後になってからだった。

携帯電話と言えば、印象に残るのは東京大学医学部教授で東大病院救急部長の矢作直樹先生のことだ。
話の最中に、たびたび携帯に掛かってくる電話やメールに、一度も対応されなかった。そのような人に会うのは初めてだった。
矢作先生の持っておられた携帯電話は、銀メッキが剥げた古びたものだった。しかしそれは、昔の日本人の心性を有する矢作先生に、いかにも似つかわしく、物を大切にする美しさが現れていた。


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アーミッシュの写真集「The Gift to be Simple」より


ハリソン・フォードの代表作、「刑事ジョン・ブック」の舞台は、アーミッシュの住むアメリカの田舎だった。
写真のアーミッシュの少女は、アンドリュー・ワイエスの絵のように、素朴な詩情に溢れている。
車や電話や電気製品を拒否して生きる彼らの生活には、シンプルに生きる豊かさがある。
携帯電話などとは無縁な生活をしている彼らが不幸だと言える人は誰もいない。

ところで、携帯電話が消えてまた出てきたのは、もっと物を大切にしろと言う意味だったのだろうか。
それとも単に、ボケの始まりなんだろうか。

参考:「魂とは何か
   :「音の世界からあの世を考える
   :「猫とウサギ

   :「低レベル放射線は体に良い」





人の好き嫌いについて

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趣味や価値観が違っても合う人がいるのに、同じような方向を目指していて居心地の悪い人もいます。
人の好き嫌いや気が合う合わないは、何に起因しているのでしょうか。

音叉が共鳴するように、同じ振動数(波動)を持ったものは共鳴します。人間の心にも振動数があり、気が合う合わないは振動数の違いによるものです。
繊細な心の振動数を持った人が、粗い振動数の人と合わないのは物理的にやむを得ないことです。

しかし誰とでも合わせられる人がいる一方、好き嫌いが激しい性格があるのはなぜでしょうか。
その理由を考えることは難しくありません。なぜなら自分自身が人一倍好き嫌いの激しい性格であったからです。
職場で上司と合わず苦労している方が多いと思いますが、以下に挫折の体験を述べます。失敗を参考にしていただければ幸いです。

若い頃は人一倍程激しい性格でした。それが露見したのは社会人になってからです。
傲慢で思いやりのない人間は上司であろうと許せず、反発を繰り返していました。
まだ新入社員の頃、ある役員から「君のようなふてぶてしい人間を初めて見た」と言われましたが、反骨精神こそ自分の信条であると思っていた人間にとって、その言葉は肯定的にしか響きませんでした。

どんな立場の人間であろうと許せないことには徹底的に反発しましたが、自分は正義感の強い人間であり、正義感に基づく反発である以上、悪いのは上司でした。

幸いに仕事の実績を挙げ、同期より早く昇進して得意の内にあった翌年、担当役員と衝突し課長を降格され左遷されました。得意からの挫折はより屈辱的であり、打ちのめされる思いの毎日でした。
しかし悪いのは上司であり、自分が間違っているとは思いませんでした。

左遷先での屈辱の日々の中、ある本に「組織の長の命令は絶対である」と書かれていました。
組織にとって必要なのは調和であり、調和を乱すことは、仕事が出来る出来ないに拘わらず悪であったのです。
それが組織の原則であり、嫌なら辞めるしかないことが、目からうろこのように納得できました。

悪口を言うのを止めようと考え、実行してみました。1週間経ち2週間経つうちに、悪口を言おうとすると心にブレーキが掛かり、悪口が言えなくなってきました。
1ケ月経った頃には、社内に嫌な人間がいなくなっていたことに気づきました。
すべては自分自身が作り上げていたことでした。

合う合わないは波動共鳴の法則に基づくものですが、好き嫌いを増幅するのが悪口です。
人を判断する基準は自分の価値観に基づくものであり、その勝手な基準で人を裁いていたのです。

人を裁いてはいけなかった。もし人が間違った行いをすれば、その結果は100%自分に返るのが宇宙の法則であり、他人が裁く必要はなかったのです。

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新約聖書の「主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん」の「我」とは、神という法則であり、自分自身のことでした。
「人を裁くな、みずからが裁かれないためである」 このマタイの言葉も同じことです。人の顔の汚れを指摘する前に、自分の顔の汚れを取り去らなければならなかったのです。

正義感が強い人間ほど、人を許せない傾向にありますが、正義の主張が度を越えて調和を乱した時、それは不正義となります。正義感の落とし穴です。

このように書くと、まるで自分がそれらを克服したかのように取られますので、あわてて書き加えますが、心は部屋の汚れと同じで、油断しているとすぐにホコリが溜まってきます。今はまた、人の悪口に相槌を打つようになってしまい、悪口を言うこともあります。
残念ながら、相槌を打たず、静かに微笑む心を忘れてしまっているのが現状です。

人生はひと山越えれば更に高い山がそびえる終わりの無い旅であり、常に新しい宿題が用意されています。
おそらく死ぬまで悪戦苦闘を続けるはずです。求めれば苦しむのが人生だと覚悟を決めるしかないでしょう。






国際有機認証「しらい田七人参」