参拝の流儀

奈良 246


今年どれほどの人が初詣に行ったのかわかりませんが、初詣で願い事をしない人はいないでしょう。

神社や寺に参拝してご利益があるかどうかは疑問ですが、私が神仏に願うことを止めたきっかけはある本によってでした。
それはヴァイオリンの幼児教育で有名な「スズキメソード」を創始した鈴木鎮一先生の著書、「愛に生きる 才能は生まれつきでない」によってでした。


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本が手元に無いので記憶で書きますが、若い頃の鈴木先生に対してお父様が、「寺社で願い事をしてはいけない、寺社に行った時はただ有難うございますと感謝だけして帰りなさい」と教えられたそうです。

多くの人間は僅かな賽銭で大きな願いをします。
その願いの多くは自分自身の利害にかかわるものです。いわば欲を満たすために神仏に祈ります。

良い高校や大学に入りたい、恋人がほしい、あるいは宝くじが当たりますようにと言った願いを神仏が聞き入れてくれるとは考えられません。
それよりも現在生かされてあることに感謝する方が、はるかに神仏の心に叶うはずです。

しかし自分自身のためでなく、家族や友人知人のために祈るのであれば、その祈りは叶えられることがあります。
その場合、祈りが叶えられたのは神や仏によってではなく、守護霊や指導霊、あるいは天上界の協力によってであると思います。
個々の人間の祈りに、直接的に神仏がかかわることはないはずです。

いずれにしろ、この世は自力による努力によって魂を高める原因結果の世界です。
神頼みで解決することは、原因結果のルールに反します。

ところで以前「パワースポットという幻想」で書いたことですが、最近神社仏閣をパワースポットと呼ぶようになりましたが、これは非常に危険なことです。

本来、昔の日本人が作った神社や寺は、浄化された場所であったり霊的に重要な場所であったはずですが、欲望の集積する場所となってからは、パワースポットと呼べるものではなくなりました。

以前、名古屋にある有名な寺社に入った時、あまりの邪気に驚いたことがあります。(固有名詞を書きたいくらいです)
そのような場所で願いごとをすることは、邪霊による霊障を招くことになり危険です。

神社仏閣は決してパワースポットではありません。
人間の心の中に最大のパワースポットがあります。
心に火をつければ、どんな苦労も克服できるエネルギーが湧いてきます。

心こそ最大のパワースポットです。


パワースポットという幻想

供養について考える

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先だって母親の法事で実家に帰った時、永代供養をどうするかと聞かれたので、「必要ないと思う」と答えました。

その理由は後に記しますが、仏教の儀式については、形式化し意味がわからず行っているものがすくなくありません。

日本人と供養の歴史について考える手掛かりが墓にあります。
日本に個人の墓ができたのは(貴族や権力者の墓を除き)江戸時代中期か、せいぜい江戸時代前期と言われます。
中世まで墓が無かったのは、人は死ねば極楽浄土に往生すると考えられていたからですが、墓に入るよりはるかに好ましい死生観です。

現在の墓の主流である、「~家の墓」という家族墓に至っては明治時代に一般化したといわれます。
(東大の本郷教授によれば、綱吉の生類憐みの令以降に家族墓ができたといわれています。)
私たちが当たり前だと考えている墓や墓参りが、比較的最近になってできたものであることに驚きます。

なぜ江戸時代になって墓ができたのかはっきりしませんが、中世までの戦乱の世では、人々は厭離穢土(おんりえど)、けがれてつらいこの世を去って、極楽浄土に往生することが何よりの願いでした。
しかし江戸時代に入り、世の中が安定し人々が生活を楽しむようになると、人は死んでもこの世に執着を持つようになったのではないでしょうか。

そうしてあの世に帰らずこの世に執着する霊が増えると、人々の生活に支障が出てきます。
成仏しない魂に対して死んだら墓に入ると教えることで、人々の日常生活と死者の世界の住み分けをはかったのかもしれません。

死んだら墓に入ると思いこんだ霊は、帰るべき光の世界がわからず、成仏できずにこの世に留まることになります。
供養とは魂を光の世界、浄土に帰すことです。
しかし、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌、あるいは永代供養などというと、何回供養すれば魂をあの世に帰すことができるのか疑問に思います。

(兄弟親族が集まる場としての法事は、みんながバラバラに暮らす現在では貴重な出会いの機会であることは間違いありません)

浄土信仰は、仏像という物質を有りがたがり、僧侶の読経によって極楽に往生できると考える他力信仰となりました。
しかし光の世界に帰る為には、光の世界にふさわしい心でなければなりません。
生前、自己中心的でまわりの人々を不幸にした人間が、いくら死んだ後にお経を読んでもらっても光の世界、浄土に帰ることはできないはずです。
そのような魂は、あの世で自分の過ちに気付くまで、光の世界に帰ることはできません。

経とは経糸(たていと)のことです。
経糸がぐらついては、しっかりした織物はできません。
人生の指針となる、永遠に変わることの無い真理を経と呼んだのです。
お経は生きている人間が理解し行うべきものであり、死者に聞かせるものではありません。

仏教はお釈迦様の説いた原点に帰らなければなりません。

参考:
戒名とは何か

佐藤弘夫著「死者の花嫁―葬送と追想の列島史―」
死者の花嫁とは現在の山形県村山市で、独身のまま亡くなった男子に花嫁を添わせた絵馬を作り、死者を弔う風習をさします。

パワースポットという幻想

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パワースポットが人気です。しかしむやみに信じては危険です。
パワースポットは、当初N極とS極の磁気が互いに打ち消しあって、ゼロに近い磁気を保っている場所のことをいいました。
しかしその後、神社や寺などがパワースポットであるかの如く宣伝.されるようになりました。神社仏閣はパワースポットではなく、むしろマイナスのパワースポットと言うべき場所です。

なぜマイナスのパワースポットかと言えば、これらの霊的な場所には成仏していない霊が数多くいるからです。むしろ、霊的に清浄なところは少ないと言ってよいでしょう。

昔の日本人は「いやしろ地」や「けがれ地」、あるいは気脈を見分ける能力があり、土地のエネルギーを判断して神社仏閣を作りました。ゼロ磁場と称される場所に、神社仏閣が多く存在するのはそのためです。しかしその後、このような霊的な場所に人間の欲や業が集積し、マイナスの場となっています。

パワースポットと思ってこのような場所を訪ねて憑依された人を何人も見てきました。
一度憑依されたら、憑依霊が勝手に離れることはありません。体は不調になり、性格は暗く、怒りっぽくなります。また自己中心的で欲望に振り回されるようになります。憑依霊はその人間を破滅させて、死に至るまで引きずり込みます。
これは嘘でも誇張でもありません。憑依霊が離れるのは、その人が自分の心を見つめ反省した時だけです。

霊的な世界については、それを語る人がたとえ日本を代表する財界人であっても、著名な学者や社会的に尊敬される立場の人であっても、簡単に信じては危険です。(遠慮して書いていますが、実名を出したいところです。)
それらの人も、霊的な世界については見ることも聞くこともできず、ただ人の話を鵜呑みにしていることが多いのです。
また霊能者と言われる人も安易に信じては危険です。なぜなら霊能者の多くが憑依を受けているからです。


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ついでながら、麻薬や危険ドラッグの使用も憑依を受けます。最近テレビで危険ドラッグを使用した人間の映像がよく出ますが、あの狂気の表情は憑依した地獄霊の表情です。
これらの薬物が怖いのは、常用するといつまでもその影響が残り、憑依を受けやすくなることです。史上最悪の薬物と言われる危険ドラッグは、憑依ドラッグです。

神社仏閣をパワースポットと信じている人を、さらに危険にするのが祈りです。
この場合の祈りとは、自分の願いを叶えてほしいと願う自己愛からの祈りです。人の幸せを願う祈りは愛であり光であるので、悪霊は憑依する事はできません。初詣などで神社や寺に行く際は願い事をせず、ただ「有難うございます」と感謝だけ述べて帰る方が良いでしょう。


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パワースポットに対する信仰は、日本人の中にある御利益信仰や偶像崇拝と同根です。
祈れば救われると信じ、仏像やお経に御利益があると信じる心が、パワースポットの信仰に繋がります。仏像や偶像に祈って救われれば簡単ですが、いくら祈っても空いたお腹を満たすことはできません。また夜トイレに行きたい時、いくら祈っても誰かが自分の代わりに行ってくれることはありません。自分の人生を変えられるのは、自分の思いと行い以外にはないのです。

以前に書いた記事、「信ずべきこと、疑うべきこと」で書いた、「本物の教えを判断する基準」を再掲します。
それぞれ常識や理性で判断できることです。神は存在すると確信していますが、安易に信じることは極めて危険です。


本物の教えを判断する基準

神は金を要求しない
神は決してお金を要求しません。お布施が少ないから守ってくれないとか、金を多く出したからご利益があるなどということはありません。そんなセコイ神様を信じてはいけません。第一、神はいったいどこでその金を使うのでしょうか

神は脅さない
信じなければバチが当たるとか、不幸になるなどと脅しをかける神は信じるべきではありません。神が創造主であれば人間はその子供です。わが子の幸せを願わない親はいないはずです。神がバチを当てたり不幸にすることなどありえません。
神は威張らない
威張るのは優越感か自信の無さからです。そんな小さな神様はいません。
「我はイエスである」、「我は何々菩薩である」、あるいは「我は大天使なんとかである」と名乗って出るのは100%偽者です。本物は決して肩書きを利用しません

先祖の祟りは無い
自分のお祖父さん、お祖母さん、あるいはもっと昔の先祖が、なぜ祟って自分の子孫を不幸にするのでしょうか。守りたいとは思っても祟って不幸にするはずがありません。

神は神殿に宿らない
宇宙を神が創ったのなら、宇宙全体が神の体です。いくら荘厳で立派な神殿を作ろうが、宇宙から見ればチリのようなものです。そのようなものに神は宿りません。

死んで墓に入らない」
人は死んだら天上界に帰ります。墓に入るのではありません。死んで墓に入ると思い込んでいる霊は、天上界に帰らずに墓でさ迷うことになります。

仏像を拝んでも御利益は無い
木や銅でできたものを拝んでも御利益はありません。仏像であれ、イエス・キリスト像であれ、それらは単なる物質です。神はわれわれ一人ひとりの心の中心にいます

神は非常識なことを言わない
私達は良いことをすれば気持ちがよく、悪いことをすれば心がとがめます。自分の行いを見ているもう一人の自分がいます。そのもう一人の自分は、何が正しいかを知っています。
その基準は常識です。非常識なことを信じろと教える神は疑うべきです

過去世にとらわれない
過去世が現在の自分に影響を与えていることは事実ですが、重要なのは現在の生き方です。
われわれは過去世を忘れて生まれてきます。それは過去世を知らない方が修行しやすいからです。最近はやりの退行催眠は非常に危険です。催眠術を受けると憑依される危険があります。注意してください。

心の法則を説く
正しい生き方、考え方を説かず、信じれば幸せになれる、金が儲かるなどと、利益ばかり強調する宗教は疑うべきです。人間が輪廻転生を繰り返すのは、過去世のカルマを解消し、魂を大きく豊かにするためです。経済的に満たされなくても、気づきの多い人生は豊かな人生です。

さわらぬ神に祟りなし
宗教を信じなくても正しい生き方をしていれば、神は守ってくれるはずです。
平凡な生活の中に学ぶべきことは沢山あります。
うかつに霊的な世界に係わることは非常に危険です。「さわらぬ神に祟りなし」です

不思議現象は疑う」
私達は超能力や霊能力を見ると、それだけですごいと思ってしまいます。しかし、たとえ不思議な能力があっても、その人間性に問題があれば、信じるべきではありません。
霊的体験をしてある日突然霊能力がついたという霊能者は、99.9%憑依されています。
判断すべき基準は、その人の心と行いです。

地位や肩書に騙されない
いくら地位や肩書があろうとも、その人が真理を語っている保証はありません。たとえ東大教授でも、見えない世界の事は伝聞による知識を語っているに過ぎません。天上界の真実の前に、地位や肩書は何の力もありません。

教えに科学的合理性があること
作用反作用の法則、原因結果の法則、波動共鳴の法則、エネルギー保存の法則などの物理法則と、心の法則は同じです。現れ方が違うだけです。
悪いことを行えば悪いことが、良いことを行えば良い結果が出ます。10の行いには10の結果がでます。その教えに科学的合理性があることが重要です。

エネルギースポットは自分の心の中にあります。
心の中には神の無限のエネルギーが宿っていますが、そのエネルギーを覆い隠しているのが人間のエゴです。
輪廻転生の目的は、エゴによって作られたカルマを解消することだと思います。

〈参考〉
高橋信次:「心の原点
      :「悪霊
      :「人間釈迦




フォトンベルトによって起きること

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まだ先だと思っていた、2012年12月23日が近づいて来ました。(21日という説もあります)

フォトンベルトによって、人類は5次元に次元上昇すると言われています。5次元は肉体の無い世界であり、魂が肉体を持ってこの世で学びをする輪廻転生が無くなることを意味します。もしそうであれば、人類が待ちに待った時代が来るわけですが、多分そうではないように思います。

フォトンベルトは、幽界(4次元)とサタンを抹消するために、天上界で計画されたと言われます。私が最も尊敬するある方に、「神はフォトンベルトによる次元上昇を、いつ決めたのですか」と質問したところ、「3000年以上前には決まっていました」と言われていました。モーゼの時代には、すでに決まっていたことになります。

神がこの世と人類を作ったならば、なぜ人間は憎み合い、奪い合い、殺し合って地獄のような苦しみを味わわなければならないのか、そのことを多くの人が疑問に思ったはずです。
それに対する一つの答えが、神は愛し合うように人類を作ったのに、サタンや悪霊が人間を支配し、苦しめているという考えです。

サタンはもともと7大天使の一人、ルシフェルでしたが、神のような自分の力に傲慢となり、地獄の支配者に堕してしまったと言われます。現代の世相を見ると、人間は自己中心の心に支配されて、あたかも魔によって支配されているように感じられます。
もはやフォトンベルトによる光の浄化によってしか、世界は変えられないのかも知れません。
(日本人にはまだ自己犠牲の心があります。様々な予言で、日本人が重要な役割を果たすと言われているのは、この調和された心によるものでしょう。)


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フォトンベルト以降、どのような時代になるのか、ヨハネの黙示録には次のように書かれています。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人とともに住み、人は神の民となる。神は自ら人とともにいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」

この記述を文字通り受け止めれば、フォトンベルトによる次元上昇によって、人は苦しみや悲しみから解放され、神の愛を感じながら生きることができるということになります。
そのことを信じたいと思いますが、個人的には、フォトンベルトが来て4次元は消滅するものの、三次元はそのまま残るのではないかと思います。それでも人類にとっては大変な福音です。

ほとんどの人は、悪霊や地獄の存在を信じられないでしょう。しかし実在します。具体例を挙げることもできます。(具体例を書いたのですが、気味の良い話ではないので削除しました。)
科学で証明されないことを信じるのは、愚かしいことであると考える人もいるでしょうが、科学的合理性ですべてが説明できるわけではありません。

フォトンベルトによって何が起こるのか、真実は12月23日が来ればわかります。
尚、フォトンベルトによって、3日間、太陽の光が消え、電気も使えないと言われます。事実かどうかわかりませんが、ロウソクと食糧を3日分用意する予定です。
もし何も起きなければお詫びし、今後このような話を一切拒絶して現実的に生きることにします。

参考:アセンションー 次元上昇の意味





戒名とは何か

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テレビであるお坊さんが戒名について、こう言っていました。
「三途の川を渡る時、俗名では渡れない。だから戒名が要る。」

お坊さんに言われればそうなのかと思いますが、それならキリスト教徒やイスラム教徒など、戒名が無い魂はあの世に帰れないことになります。

いい加減な理由をつけて脅し、金儲けを正当化してはいけない。

戒名の由来はお釈迦様とその弟子、舎利子(シャーリープトラー)に由来します。
舎利子は本名を「ウパティッサ」と言います。
ウパティッサが仏陀に帰依した時、仏陀はウパティッサに、
「お前のお母さん、シャーリーは賢婦人として有名な方である。お前もしっかり修行してお母さんのような賢い人間になりなさい」と言って、お母さんの名前のシャーリーを取り、シャーリープトラーと名付けました。

戒名とは仏陀の教えを学ぶにあたり、自分を戒めるために付けたものであり、死んでから付けるものではありません。ましてや平等である人間の魂に、金銭で上下をつける戒名など、お釈迦様の教えとは何の関係もないものです。

お釈迦様の時代、今から2500年以上前のインドは貧しい人が多く、学校もありませんでした。
昼間は農作業などの労働をし、夜に仏陀の話を聴きに来る無学文盲の人たちに、仏陀は難しい言葉は一切使わず、例え話で誰でも理解できる話をしました。
その分かりやすい教えが、日本の仏教の中で哲学かされ、訳の分からないものになってしまったのです。

ちなみに、夜、お釈迦様の話を聴こうとすると蚊や虫が寄ってきます。これらの虫を寄せ付けないように薬草を焚いたのが線香の由来であり、ロウソクも照明として使われた松明の名残です。

お経とはお釈迦様が説いた、正しい考え方、生き方の教えであり、生きている人間が学ぶものであり、死んだ人に向かってあげるものではありません。

お経の「経」は織物のタテ糸を意味します。タテ糸(経糸)がブレたら、しっかりした織物はできません。
地球の経度もタテ糸を現しています。
そのように、正しく生き、幸せになるための人生の教えをお経と呼んだのです。


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お釈迦様が法を説かれたのは2500年以上前のことであり、誤って伝えられていることがたくさんあります。
祈れば救われる、願いが叶うという他力信仰など一切説かれていません。
正しく思い、正しく生きることが幸せへの道であり、不幸は自己中心的な考え方、生き方の結果として起こる、と説かれたのです。(縁起

人間関係における正しさとは相対的なものであり、自己中心の考え方を改め、相手の立場に立って考える中道の中に正しさがあります。
人間の目は外を見るように出来ています。そのため、人の欠点は良く見えますが自分の間違いには気づきません。
自分の間違いに気づくためには、目をつぶり、反省しなければなりません。
お釈迦様はその反省の方法として八正道を説かれました。

大金を出して立派な戒名を付けることが亡くなった人の供養ではなく、残された人たちが争いの無い、幸せな人生を過ごすことが最大の供養であるはずです。

仏教はお釈迦様の説いた教えを分かりやすく伝える、本来の役目に立ち帰らなければならないでしょう。


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国際有機認証「しらい田七人参」
Tag: 戒名

信ずべきこと、疑うべきこと

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スピリチュアリズムや精神世界に興味を持つ人が増えています。
既存宗教に救いや満足を見出せない人たちの多くが、精神世界の教えを信じています。
しかし、その中には危険な考え方や誘惑があり、正しい基準を持たないまま係わってしまうと、人生を棒に振る恐れがあります。そのような人をたくさん見てきました。

本物の教えを判断する基準を考えてみたいと思います。

神は金を要求しない
神は決して金を要求することはありません。お布施が少ないから守ってくれないとか、金を多く出したからご利益があるなどということはありえません。そんなセコイことを言う神なら信じるべきではないでしょう。
第一、神はいったいどこでその金を使うのでしょうか。

神は脅さない
信じなければバチが当たるとか、不幸になるなどの脅しをかける神は、信じるべきではありません。
神が創造主であれば、人間はその子供です。わが子の幸せを願わない親はいないでしょう。 ましてやバチを当てたり不幸にすることなどありえません。

神は威張らない
威張るのは自信の無さか優越感からです。ずいぶん小さな神様です。
「我はイエスである」、「我は何々菩薩である」、あるいは「何々の天使である」とか名乗って出るのは、100%偽者と言って良いでしょう。本物は決して肩書きを利用しません。

先祖の祟りは無い
自分のお祖父さん、お祖母さん、あるいはもっと昔の先祖でも、自分の子孫を何故不幸にしようと考えるでしょうか。
守ってやりたいとは思っても、祟って不幸にするはずがありません。

神は神殿に宿らない
宇宙を神が創ったのなら、宇宙全体が神の体です。いくら荘厳で立派な神殿を作ろうが、宇宙から見ればチリのようなものです。そのようなものに神が宿るとは考えられません。(それぞれの宗教を信じる人たちが集まる場所としての施設は必要でしょう。)

神は非常識なことを言わない

私達は良いことをすれば気持ちがよく、悪いことをすれば心がとがめます。自分の行いを見ているもう一人の自分がいます。このもう一人の自分は、何が正しいかを知っています。
その基準は常識です。非常識なことを信じろと教える神は疑うべきです。

過去世にとらわれない
あなたの過去世は何々だった、その過去世が影響して現在こうなっているなどと、最近過去世がはやっています。興味あることですが、証明できる何ものもありません。
重要なのは現在の生きかたです。

心の法則を説く

正しい生き方、考え方の法則を説かず、信じれば幸せになれる、金が儲かるなどと、利益ばかり強調する宗教は疑って見るべきです。

さわらぬ神に祟りなし
「心だに まことの道にかないなば 祈らずとても 神や守らん」という歌があります。
宗教を信じなくても、正しい生き方をしていれば、神は守ってくれるはずです。
平凡な生活の中に学ぶべきことは沢山あります。
うかつに霊的な世界に係わることは非常に危険です。「さわらぬ神に祟りなし」です。

不思議現象は疑う
私達は超能力や霊能力を見ると、それだけですごいと思ってしまいます。しかし、たとえ不思議な能力があっても、その人間性に問題があれば、信じるべきではありません。
ある日霊的体験をして、突然霊能力がついたという霊能者は、99%憑依されていると考えるべきです。
判断すべき基準は、その人の心と行いです。

「<肉体行では悟れない
お釈迦様は、激しい肉体行をしても悟れるわけではないと言われました。お釈迦様自身が、かつて誰も経験したことが無いほどの苦行を経験して悟れなかったのです。悟りとは、過去現在未来がわかるようになることを言い、第一段階の悟りの状態をアラハン(羅漢)と言います。お釈迦さまが悟られたのは、生まれてからの人生をすべて反省し、心を調和されたからです。
肉体行は憑依を受けやすく危険です。

死んで墓に入らない
人間は死んだら光の国に帰らなければならないのですが、自己中心の人生を送った魂は幽界に留まることになります。
未成仏霊で、死んだら墓に入るものだと思いこんだ霊は、本当に墓に入ることになります。
「私の墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」と歌う「千の風になって」は本当のことです。墓に大金をつぎ込むのは馬鹿げたことです。

物理法則と心の法則は一致している
作用反作用の法則、原因結果の法則、波動共鳴の法則、エネルギー保存の法則などの物理法則と、心の法則は同じです。現れ方が違うだけです。
悪いことを行えば悪いことが、良いことを行えば良い結果が出ます。10の行いには10の結果がでます。
その教えに科学的合理性があることが重要です。

有名な哲学者で天文学者であったカントが、「実践理性批判」の中で述べた言葉が、墓碑銘に刻まれています。
  「いや増す畏敬と驚嘆をもって、わが胸を満たすもの二つあり、
   天に星散りばめたる夜空と、わが胸の内なる道徳律」

カントが長年の探求で至った結論は、物理法則と心の法則が同じだと言う事です。
天の星が一糸乱れぬ調和の法則で運行しているように、心の法則も調和であったとその感動を述べています。

おかしいと思ったら勇気を出してすぐに離れ、疑問の無いものだけを信じるべきです。


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