死は肉体からの卒業

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先だって、長年ともに学んできた知人がガンで息を引き取りました。
大きな喪失感があって、それが癒えるまでどれほどの時間が要るだろうかと思ったのですが、人の悲しみは時間によって薄皮をはがすように小さくなることを実感しました。記憶が薄らぐことは、悲しみを乗り越えるために神が与えた慈悲なのでしょう。

知人は喉のリンパのガンが再発し放射線と抗がん剤の治療を勧められましたが、それをせずに代替療法を行いました。結果的には一千万近く費やした代替療法は何の効果ももたらさず、むしろ喉をガンが圧迫して息ができない苦しみを味わうことになりました。

抗がん剤は副作用が大きくその割に効果が期待できないとする意見があります。また喉の放射線治療は痛みで水も飲めなくなるようです。そうしたことから代替医療に救いを求めるのですが、今回の知人の苦しみを見て、自分がガンになったら多分手術、放射線、抗がん剤の治療を選択するだろうと思いました。

もし代替医療で知人が助かっていたら、逆に現代医療を拒否して良かったと思うはずですから結果論かもしれません。しかし多大な治療費と苦しみを伴った知人の代替療法は、ガンと言う難敵を相手にするにはあまりにも無力すぎました。
今の後悔は知人が放射線と抗がん剤の治療を受けていればというものですが、しかしそれも運命なのでしょう。

人の本質は魂で肉体はその衣裳にすぎません。古くなった服は脱ぎ捨ててあの世に帰り、また別の衣裳をまとって新しい人生を歩みます。
しかし肉体を失うことはその人のすべてを失うように思われます。
火葬場で遺骨となった知人を見ながら、魂の輪廻転生を知っていても別離の悲しみは大きなものであることを感じていました。
縁生の魂は来世においてもいつか出会い、学びの旅を続けます。しかしその時は過去世での出会いを忘れています。
その前に死後天上界に帰った魂は、ふたたび縁生の仲間たちと出会います。その時にお互いの過去世での生き方について振り返り、来世での学びを誓うようです。

死は永遠ではなく、魂こそ永遠であることを知れば人の生き方は変わります。
現代人は魂を語ることを非科学的なことのように考えていますが、潜在意識の中に魂の本質が隠されていることにいづれ気づくはずです。





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現代の難問

暇つぶしは現代の最も重要な問題の一つです。

人類は長い間、生きるために過酷な労働に耐えてきました。その労働から自由だったのは、貴族や金持ちなどごく一部の特権階級だけで、彼らにとって暇つぶしは人生で最も重要なことでした。

しかし仕事に疲れた大多数の人々が求めていたのは、暇つぶしではなく休息でした。
マルクスが富の公平な分配と労働時間の短縮を訴えた時、過酷な労働と搾取に苦しんでいた労働者は、理想の世界がここにあると期待しました。しかし社会主義という絵にかいた餅によって、人類の願いを実現することはできず、それを実現したのは産業機械や家庭電化製品の進歩と普及でした。

薪でご飯を炊き、洗濯板で洗濯をしながら育児をしていた主婦には、暇つぶしの時間などありませんでした。
しかし家庭電化製品の普及によって、今や一部の主婦は(と言っておきます)亭主よりも時間の余裕を与えられました。


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文明は暇によって生まれました。
スクール(学校)と言う言葉は、ギリシャ語のスコーレ(暇)から生まれました。
奴隷制度によって暇を得たギリシャ人は、哲学、科学、芸術を論じ、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者や、ピタゴラス、ユークリッド、デモクリトスなどの科学者、数学者を生みだしました。壮麗な大理石の神殿や美しい彫像、演劇や音楽などの古代ギリシャ文明は、暇によって生み出されたものです。

「源氏物語」、「枕草子」、「徒然草」、「方丈記」などの作品も暇によって生みだされました。

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吉田兼好は、「つれづれなるままに 日くらし硯にむかひて」世の中を観察し、その本質を鋭く見通しました。これほど透徹した眼を持った思想家は、世界にもほとんどいません。彼の至った境地は思考の結果と言うより、鋭い観察の結果と言った方が正しいでしょう。
次の文章は、彼の観察が如何に鋭く的確だったかを物語るものです。

「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。・・・・木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつはるに堪へずして落つるなり。

四季は、なほ、定まれる序(ついで)あり。死期は序(ついで)を待たず。死は、前よりしも来らず、かねて後に迫れり。・・・・沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」

人間のレベルは暇の過ごし方に現れます。
孔子は、「小人閑居して不善をなす」、小さな人間は、暇になるとロクなことをしないと述べています。すみませんと言うしかありませんが、暇な時間の過ごし方にその人の人生が集約されています。

忙しいという字は、心を亡くすと書くとよく言います。しかし忙しい時は集中しているので心を無くすことはありません。逆にヒマ潰しにゲームをしたりパチンコをしたり、あるいはボーっとしている時にこそ心を無くしています。

話が逸れますが、ラスベガスやマカオ、モナコ、カンヌなど、世界には数多くのカジノがあります。これら世界のカジノの売り上げを全部足しても18兆円に過ぎず、日本のパチンコの売り上げ20兆円に及びません。パチンコが如何に巨大な利権であるかに驚きます。
パチンコは遊戯施設と景品交換施設が別という抜け道で、賭博罪の規制を免れています。戦後の負の遺産です。
この売り上げが消費に回れば、景気回復に貢献できるのにと考えざるをえません。

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パスカルは『パンセ』で、「人間はどんなに悲しみで満ちていても、なんらかの気晴らしにうまく引き込まれさえしたら、その間は幸福である。・・・・気晴らしがなければ喜びはなく、気晴らしがあれば悲しみはない。」と書いています。
しかしそれは暇つぶしを評価しているのではなく、暇つぶしによって人は死に至ると説くのです。

「惨めな我々を慰めてくれる唯一のものは、気ばらしである。とはいえ、これこそ我々の惨めさの最大のものだ。なぜなら、これは我々が自分をかえりみるのをことさらに妨げ、我々を知らず知らず滅びにいたらしめさせるものだからである。(『パンセ』)

人生が学びであるとすれば、何も考えずに時間を浪費する暇つぶしは、たしかに人生の浪費です。

どうすれば暇つぶしの時間を有意義なものに出来るか、幕末の思想家 佐藤一斎は学ぶことだと言います。

    「少にして学べば 則ち壮にして為すこと有り
     壮にして学べば 則ち老いて衰えず
      老いて学べば 則ち死して朽ちず」 

佐藤一斎先生に聞かずとも答えはわかっていたのですが、誰だって学ぶより遊ぶ方が楽しい。
やはり「小人閑居して不善をなす」ことになってしまいます。




                           

人間は進歩しているのか

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人間は進歩しているのだろうかと考える時、まず思い浮かぶのが古代ギリシャです。
今から2500年ほど前の古代ギリシャでは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者や、アルキメデス、ユークリッドなどの科学者、ホメロス、アイスキュロス、ソフォクレスなどの文学者が次々と現れました。

ソクラテスと弟子のプラトンは、この世とあの世の真実をほとんど知っていました。歴史上、最高の哲学者です。
ギリシャ悲劇の傑作、ソフォクレスの「オイディプス」を電車の中で読み始め、あまりの面白さに、電車を降りて歩きながら読んだことを思い出します。古代ギリシャでは地球が丸いことがわかっており、地球の外周も概略で計算していました。

2500年前の世界を見ると、仏陀や孔子、老子他、多くの心の指導者が現れており、 2000年前にはキリストが誕生しています。
この時代に世界で多くの精神的指導者が現れたことを、哲学者のヤスパースは、「軸の時代」と名づけました。人類の心の軸です。

なぜ2500年前に、これほど多くの精神的指導者が出たのかはわかりませんが、これらの偉大な人たちを想起すると、人類は進歩していないのではないかとの思いを強くします。

ところで、プラトンが著書「ティマイオス」「クリティアス」の中で、賢者ソロンがエジプトの神官から聞いた話しだとしてアトランティスのことを述べています。
今から12000年前、現在の科学より遥かに進んだ技術を有していたアトランティス大陸が 一夜にして海中に没したと言われています。

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アトランティスは物質文明の中で心を失い、神の怒りをかって滅んだと言われ、滅亡を事前に察知した人達がエジプトやマヤに逃れ、ピラミッドを築いたと言われます。
アトランティスの存在については証拠がなく、フィクションだとする説がありますが、スフィンクスには水の浸食跡があり、それが可能だったのは12000年前のことであり、このことを裏付けているのかも知れません。
ヨーロッパ種のウナギの産卵場所が、かってのアトランティス大陸があった場所ではないかという説もあります。

話は変わりますが、ウナギの稚魚であるシラスが激減し、昨年はkg200万円以上していました。一方、ヨーロッパ種のウナギの稚魚は、kg10万余りと格安です。

あるウナギ漁業協同組合の役員に、なぜヨーロッパ種のウナギのシラスを輸入しないのかと聞いたところ、ヨーロッパ種はジャポニカ種に比べて病気に弱く、多量の薬剤を使わなければ養殖できないからだそうです。
しかし日本の薬剤使用基準では養殖できないヨーロッパ種が、中国などで大量の薬剤を与えられて養殖され、日本に入ってきています。ばかげた話です。
これだけ日本のシラスが高騰しているのですから、ヨーロッパ種が使えるように法律を改正すべきです。中国産を輸入するより、はるかにはるかに(お好みではるかにを追加してください)安全です。

話が逸れましたが、知識や技術は蓄積でき、伝承が可能です。しかし人間は年を取って経験を重ね、ようやく人生の機微や法則を理解し始めた頃にこの世を去ります。
人生が1回きりで輪廻転生しないのであれば、人間はいつもゼロから人生を始めなければならず、何万年経っても進歩しないはずです。

神はそのような効率の悪い仕組みは作られなかったようです。
魂を向上さす、もっとも合理的な仕組みが輪廻転生です。
人間の魂の中には、これまでの輪廻転生のすべての記憶が蓄積されています。般若心経の、「般若波羅蜜多―パニャパラミタ」とは、「内在された偉大な叡智」という意味ですが、これは過去世で学んだことのすべてが、魂に内在されていることを意味します。

王羲之~3


しかし人間は、過去世の記憶を忘れて生まれてきます。
過去世の記憶は潜在意識の中に蓄積されていますが、もし過去世をすべて覚えていたら、過去世で自分を殺した人間や、自分を苦しめた人間に対して復讐心が生まれ、憎しみの連鎖が止まることはありません。

人間は表面意識が真っ白な状態で生まれて来ます。それはイエスキリストも我々も同じ条件です。その後の教育や躾や努力によって魂を磨いて行きますが、魂を磨くためには苦労と言う砥石が必要です。自分の置かれた困難を肯定し、何かを学んだ時、人はその苦労から卒業し、次のステップに向かうようです。
言うまでもなく、人間は金や地位や名誉をあの世に持って帰ることはできません。
持って帰ることができるのは学んだことだけです。

この世で一番重要な事が教育であることは、孔子や孟子を生んだ中国が唯物論教育の結果、平気で人をだまし、略奪するエゴの塊になっていることを見ればわかります。
人の表面意識は白紙であるがゆえに、教育によって貪欲な人間にも、人に奉仕する人間にもなります。

日本を変えるには経済の復興だけでなく、日本と言う国を否定し、国を思う心を否定した戦後教育を正し、正直で親切で信義を重んじ、親孝行や友情や長幼の序を大切にした昔の教育に戻すことが第一であると考えます。





フォトンベルト始末記

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2012年12月、フォトンベルトによって何も起きませんでした。
もともと3次元には変化が無く、4次元(幽界)が消滅するものと思っていましたので、何も起きなかったことは予想通りでした。しかし4次元にも変化はありませんでした。
以下のことは、4次元に変化が無かったことの証明になるでしょう。

昨年10月、面識のないある方から電話をいただきました。相談の内容は息子さんの心の病についてでした。息子さんは強迫神経症で入退院を繰り返していましたが、問題はその息子さんだけではないと感じたのでいろいろ聞いて行くと、もう一人の息子さんが自殺をしており、御主人はウツ状態、電話をされた御本人もパニック障害だと言います。

問題の深刻さに唖然としましが、その原因は家の立地にありました。

ここから先は霊的な話になります。心地良い話ではありませんので、怖いのが苦手な方は*印の間をスキップしてください。

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この方の家が建っているのは墓場の上で、家の土台に墓石を使っており、庭を掘れば人骨が出てくると言います。夜には壁にいろんな顔が浮かんできて、彼岸になると白装束の霊たちが列をなして歩き、自殺した息子さんが家の中を歩いていると言います。

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この方の話を聞きながら、もしかしたら12月にすべて解決するかも知れないと思っていました。それは4次元が消滅すれば未成仏霊も消滅するからです。
しかしフォトンベルトが過ぎた後に確認したところ、変化はないとのことでした。この他の事例も確認しましたが4次元は消滅していません。

前に書きましたが、私自身は13~14年前に初めてフォトンベルトの話を聞いた時、訳のわからないスピリチュアル系の話だと思っていました。それが事実だと知ったのは、NASAのホームページに詳しく書かれているのを見てからでした。その後(今から9年くらい前)、突然NASAのホームページからフォトンベルトが削除されたのを奇妙に思いましたが、フォトンベルトが400光年離れたプレアデス星団を中心とするエネルギー帯である以上、数年先にその影響が地球に及ぶことはあり得ないと考えていました。

それが変わったのは、ある方がフォトンベルトによって4次元が消滅すると断言されたからでした。今は亡きその方は、私がこれまで会った最も尊敬すべき方でした。人間はここまで自己顕示欲を無くすことができるのか、ここまで自我や欲望から自由になれるのかと驚き感動しました。過去現在未来を見通す観自在菩薩のようなこの方が断言された以上、私ごときが否定する理由はありませんでした。

しかしフォトンベルトは起きませんでした。
フォトンベルトによって人類は新たな時代を迎えるという予言は、共同幻想だったのでしょうか。

フォトンベルトが信じられた背景に地球の異変がありました。地球温暖化や地磁気の減少、太陽活動の異常、熱圏の崩壊、頻発する巨大災害など、人類の未来に不安を抱かせる様々な異変により、近未来に何が起きてもおかしくないという意識が形成され、さらに天文学で驚異的なレベルに達していたマヤの暦がオーバーラップしました。

なぜ世界中でフォトンベルトという共同幻想が生じたのかわかりませんが、今回のことでスピリチュアルな世界を否定することはできないと思います。

これまで自然科学で説明のつかない事象を否定する事が、科学的態度と考えられていました。しかしノーベル賞を受賞された南部陽一郎博士が提案した「超ひも理論」は、「あの世」が死んでから行くところではなく、三次元宇宙に併存する世界であることを示しました。


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ベルナデッタ

神や精霊の存在を証明することは容易ではありませんが、ルルドの泉を聖母マリアから伝えられたベルナデッタの遺体が、死後100年以上経った今も、まるで生きているように美しいのを見る時、見えざる聖なる力の存在を感じざるを得ません。
事実、知人の世界的に著名な理論物理学者の方が癌になった時、ルルドとファティマを訪れ、奇跡を体験するとともにガンが消失しています。

しかし、神と言う偉大な英知が存在する何よりの証拠は、宇宙の根本に調和(バランス)という中心原理が存在することではないでしょうか。





なぜ人を殺してはいけないのか

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「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれた時、どう答えたらよいでしょう。
文部科学省が、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子供からの質問に対する模範回答を作ろうとして、うまくまとめることができなかったと言います。

宗教のプリズムを通せば、対立する異教徒を殺すことは正義であり、神の名のもとに多くの命が奪われました。
戦争と言う大量殺人も、ジュネーブ条約で国家間の紛争解決手段として認められており、大東亜戦争(太平洋戦争)において、勝った連合国側は正義となり、原爆による殺りくでさえ正当化されたのです。

結論を言えば、この世の善悪、価値の全てが相対的であり、神という絶対的な存在を持ちださずに、人を殺してはいけない理由を提示することはできません。

なぜ人間を殺すのが悪なのかと言えば、人間には魂があり、その魂は神の光だからです。
光を否定すれば、自らが闇に落ちます。
近世まで世界中で、神仏と霊魂、天国と地獄の存在が信じられてきました。良いことをすれば天国に行き、悪いことをすれば地獄に落ちる、だから殺人を犯してはならないのだと。

現在、日本の殺人事件は、年間1000件余りと言われますが、実際はその30倍以上の殺人が行われています。
その殺人とは自殺です。
自殺は被害者が本人であるため、法律で禁止されているわけではなく、悲しいことであっても、殺人のような悪とは考えられていません。しかし自殺は殺人であることを認識する必要があります。
なぜこのように自殺が増えたのかと言うと、死ねばすべてが終わるという唯物論に支配されているためです。


天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」
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アラン カルデック

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全世界で400万部以上売れた、アラン・カルデックの「霊との対話」ー天国と地獄―に、自殺をして地獄で苦しむ霊たちが紹介されています。信じるかどうかは自由ですが、死後の世界を前提にしなければ、殺人や自殺を抑止する根拠は無くなります。

「霊との対話」-天国と地獄―からご紹介します。

―公衆浴場で自殺した身元不明に男性―

―いま、あなたはどこにいますか?
「分かりません……。ああ、私がいまどこにいるのか教えてください」
「私はまだ生きているのですか…。棺桶の中で窒息しそうです」

≪彼の魂は肉体から離れたとはいえ、今だに混乱したままである。地上で生きていたときの感覚が強くて、自分が死んだとは思えないのである≫

―どうして自殺などしたのですか?
「では、私は死んでいるのですか……。いや、そんなことはない……。まだ、体の中にいますから……。私がどれほど苦しいか、あなたがたには分からないでしょう。ああ、息が詰まる! 誰か、優しくとどめを刺してくれないだろうか?」

―いよいよ自殺をしようとしたとき、ためらいはなかったのですか?
「とにかく死にたかったのです……。疲れ果てていたので、休息が欲しかった」

―「将来のことを考えて思いとどまる」という可能性はなかったのですか?
「私には、将来は、もはやありませんでした。希望をすっかり失っていたのです。希望がなければ、将来のことなど考えられません」

―生命が失われる瞬間は、どんな感じがしましたか?
だいたい、私の生命はまだ失われていません……。私の魂は、まだ体につながっています。ああ、蛆虫(うじむし)が私の体を食っているのが感じられる!」

―死が完了したとき、どんな感じがしましたか?
「死は完了しているのですか?」

≪死んで間もない人が、自分で死んでいるのかどうかも分からない状態になるということは、実に頻繁に観察される。特に自分の魂を肉体のレヴェル以上に向上させなかった人の場合には顕著である。
この状態は、いずれにしても、つらいものである。上の例では、蛆虫が体を食っている感覚があるだけに、苦痛はより激しいものとなっている。さらに、その状態は、彼が命を縮めた年数分だけ続くことになるので、いっそう、つらいものとなるだろう。

ルーヴェ・フランソワ・シモン―身投げをした男性

≪以下のメッセージは、一八六三年二月十二日にル・アーヴルで行われた霊実在主義者の集いにおいて、自発的に降ろされた霊示である≫

「ああ、これほど長いあいだ、これほどひどく苦しんでいる悲惨な者に、どうか哀れみを! 
ああ、空虚……。空虚の中を落ちていく、限りなく落ちていく、ああ、助けてくれ~!

神様、私はとても悲惨な人生を送りました。哀れな人間でした。特に、老いてからは、いつも飢えに苦しみました。だから酒に溺れ、すべてを恥じ、すべてに嫌悪を感じていたのです……。もうこれ以上、生きていたくなくなり、身を投げました。

ああ、神様、何という恐ろしい瞬間! いずれにしても、もうすぐ死ぬはずだったのに、どうして自分から死を選んだのだろうか!?
どうか祈ってください。もうこれ以上、空虚がのしかかることに耐えられません。このままでは体が砕けてしまいます。どうかお願いします。あなたがたは、自殺によって地上を去った人間が、どれほどの悲惨を経験するか、よくご存じです。

≪その後、調査をした結果、一八五七年、七月二十三日の新聞『ル・アーヴル』に、次のような記事が掲載されているのを見つけた。

『昨日、四時ごろ、桟橋を散歩していた人々は、悲惨な事故を目撃して心を痛めた。ある男性が、塔から見を投げて岩の上に落ち、血まみれになっているのを発見したのである。年老いた曳(ひ)き船(ふね)人夫で、アルコール中毒の果てに自殺したものと見られている。名前は、ルーヴェ・フランソワ=シモンという。遺体は、コルドリ街の娘の住まいに運ばれた。享年六十七歳』

この男が死んでから、やがて六年がたとうとしているのに、この男は相変わらず、「塔から落ち、体が岩に激突する」という体験を繰り返している。目の前に広がる空虚を見ては繰り返し恐れおののいているのである。体が落下する恐怖に、絶えずさらされているのだ。それも六年ものあいだである。それは、あとどれくらい続くのであろうか? 彼には、それはまったく分からず、そして、そのことが、さらに苦悩を深くしている。これは、地獄の業火の苦しみに匹敵すると言えるかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現在、いじめによる子供たちの自殺が絶えません。
そのニュースを聞くたびに、彼らが今いるであろう暗く厳しい世界に心が痛みます。
子供たちは、いじめによる地獄のような日々から逃れるために自殺をします。
しかし自殺によって苦しみから逃れることはできず、むしろ百倍も苦しい世界に落ち込むことになります。
そのことがわかれば、自殺を問題解決の手段に選ばないはずです。
子供たちに、魂が永遠であることを知ってほしいと願います。
身近で自ら命を絶った子供がいたら、どうかその子のために祈って下さい。


「音の世界からあの世を考える」
「死の瞬間、死後の様子」 





パソコンが壊れて考えたこと

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オーヴェール ゴッホの麦畑

夏休みを楽しんでいる子供たちも、残りの日数を数える頃となりました。
この時期には、「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」という歌を思い出すのですが、今年は秋を思わせる風がなく、蝉時雨が無くなったことに夏の終わりを感じる位です。

家のパソコンがダウンしてしまい、それを機に色々考えさせられることがありました。
昨日、家に帰ってしたことは、本を読み音楽を聴くことでした。
それはブログを書き始める2年前までの生活でした。
パソコンの束縛が無いことが、これほど自由で、すがすがしいことであったのかと気づかされました。

ブログを書いていて、いつもこれは意味のないことではないかと思っていました。
私の拙い記事を読んで頂いている人たちにとっては、記事の内容は自明のことであり、一方、知ってほしい人にとっては興味の無い記事のはずだからです。

パスカルの「パンセー瞑想録」に、「警句を吐く人、悪い性格」という言葉があります。もしかしたら、したり顔で分かったような警句を吐いているのではないか、という思いもありました。

これを機に、ブログを休止しようかと思っていた矢先に、ある方からコメントを頂きました。
過分な言葉で、引用させて頂くことにためらいがありますが、このコメントを頂かなかったら、多分ブログを休止していたと思いますので、そのままご紹介します。

「御礼
いつもブログを拝見させて頂いているガラシャと申します。
「心と体に光を」を約二年前から拝見させて頂いており、このブログで致知を知り、二ヶ月前、遂に致知出版社に入社をしました。
この縁のきっかけはパック様の素晴らしいブログが発端であって、いつか御礼を伝えたいと思っていました。日本の荒廃に何もできない自分が嫌で、思い切って転職をしました。
まだまだ見習いで会社に貢献をできてはいない身ですが、致知をたくさんの方に広めて日本を元気にしていき、またパック様のような博識で徳が香るような人になっていけたらと思います。
富国有徳の日本を目指して、志を胸に励んで参ります」

何度もご紹介しています「知致」は、日本の良心というべき雑誌で、この雑誌が存在すること自体、日本にはまだ希望が残されていると思えるほどです。一人でも多くの方に読んでいただきたい雑誌です。
拙ブログが、ガラシャさんと「致知」との間を取り持つことが出来たとしたら、それだけで駄文を重ねた意味があったと、うれしく思っています。

部屋にパソコンの無い生活をしばらく続けてみようと思っています。
ブログは休止せず、書きたいことがあった時だけ書くことにします。
皆さまのブログは楽しみにしていますので、これまで通り訪問させて頂きます。(別のパソコンから)

残暑と言うには暑すぎる毎日です。
若きアルチュール・ランボーの、さわやかな詩をご紹介します。

「青い夏の宵々には、 小径を行こう、
麦の穂に刺され、 小草をふみに。
夢見るぼくは、 草の冷気を足に感じ、
あらわな額は風の浴みにまかせよう。

ぼくは話さない。 考えもしない。
だが限りない愛は魂にあふれてくるだろう、
ぼくは遠くにゆこう、 とても遠く、 ジプシーのように、
自然のなかを、 女連れみたいに幸せに。 」

ランボー 15歳 『Sensation』 平井啓之訳





国際有機認証「しらい田七人参」

和をもって貴しと為す

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人は育った環境や教育で、異なった価値観やものの見方ができあがります。
身体の特性も考え方に影響し、人にはそれぞれの考え方があって、何が正しいかを一概に決めることはできません。
自分の意見が絶対だと言い張ることは、その意見が正しいかどうかに関わらず、他の考えを認めず、和を乱すことにおいて間違っています。

ものの見方や感じ方は相対的で、大切なことは調和であると説かれたのが、聖徳太子でした。

平城遷都から今年で1300年、その更に100年前の聖徳太子の教えは、近年まで日本人の心性に素直に響きました。
聖徳太子は仏教を篤く信仰しましたが、太子はもともと和が第一だと考えており、仏教の調和に自らの信念との一致を見たのではないでしょうか。

「和をもって貴しと為す」、この言葉は日本人なら誰でも知っているはずです。(もしかしたら、最近の小学校では教えていないかも知れませんが)
17条憲法は、心の法則を基に官吏の心得を述べています。
全部をご紹介出来ませんので、「十七条憲法」をご覧ください。下記現代語訳は、このサイトを参考にしています。


(第一条)
「和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。
ここをもって、あるいは君父に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。
しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」


(意味)
和を何よりも大事にして、争いを起こさないことを根本としなければならない。人は徒党を組みたがり、本当に道理が分かった人は少ない。君主や親のいうことに従わなかったり、近隣の人たちとうまくいかないのはこのためだ。
上の者も下の者も協調して議論をするなら、自然と道理にかない、すべて成就して行くものだ。

*人の世で、まず第一に大切な事は和であり、和がなければどんな仕事も為すことはできません。例え正義によるものであっても、組織の調和を乱せば、仕事を達成することが困難です。


(第七条)
「~ 事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。
これに因って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危うきことなし。故に古の聖王は、官のために人を求め、人のために官を求めず。」


(意味)
事柄の大小にかかわらず、任に適した人を得られれば必ずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、危うくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

*今の日本の混乱は、国を治める総理大臣以下の職責が、それに適した人ではなく、欲得や党の利害によって決められることにあるでしょう。

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 夢殿

(第十条)
「忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違(たが)うを怒らざれ。
人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。
われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。

相共に賢愚なること鐶(みみがね=耳環)の端なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。


(意味)
心の中の憤りをなくし、それを表情に出さぬようにし、他の人が自分と異なったことをしても怒ってはならない。
人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分は良くないと思うし、自分がこれこそと思っても相手は良くないとする。

自分は聖人で、相手が必ず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。
そもそもこれが良いとか良くないとか、だれが定めうるのだろう。お互いだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

*解説の必要はありません。考えや価値観は相対的であり、独善にならず、人が怒る時は自分に否が無いか振り返って反省しなければならない。その通りです。


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(第十四条)
「群臣百寮(官吏)、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智おのれに勝るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。


(意味)
官吏は嫉妬の気持ちを持ってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬は果てしない。自分より英知が優れている人がいると喜ばず、才能が勝っていると思えば嫉妬する。
それでは500年たっても賢者に会うことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することも困難である。
聖人・賢者といわれる優れた人材がなくては国を治めることはできない。

*こちらが好意を持てば相手も好意を持ち、嫌だと思えば相手もそう思う。嫉妬も怒りも恨みも妬みも、ネガティヴな感情は意識すればするほど増幅し、自らを苦しめると共に、その相手となる人間から応分の感情が帰ってきます。
最近の精神世界で語られる鏡の法則を、太子は1400年前に書いています。

日本の歴史において、重要な節目節目で人物が現れ、国を救い、立て直してきました。今、日本建国以来の国難の時に、そのような人物が見当たらないのは、やはり今の日本人が、それにふさわしい徳を失ってしまった結果ではないでしょうか。


(第十五条)
「私(私心)に背きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。


(意味)
私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、必ず不和が生じる。不和になれば私心で公務を執ることとなり、結果として公務を妨げる。恨みの心がおこってくれば、制度や法律を破る人も出てくる。上の者も下の者も協調の気持ちをもって論議しなさい。

*私心を去ることは、人の上に立つ者、公に奉仕する者が、まず第一に心掛けなくてはならないことであり、それはその立場に立つ日本人が、当然の義務として心得ていたことでした。
現在の政治家、天下り役人の姿を見ると、太子のこの言葉が空しく響きます。


(第十七条)
「それ事は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。


(意味)
ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

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五箇条の御誓文

*明治天皇の「五箇条の御誓文」にある「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」の一文は、十七条憲法の、この一条の心を述べたものでしょう。

良くご紹介する雑誌「致知」4月号で、拓殖大学日本文化研究所客員教授 山内健生先生が聖徳太子「十七条憲法」に学ぶと題して寄稿されていて、その中で興味深い意見を述べられています。

「昭和59年、聖徳太子がお札から消えました。そして、ちょうどその頃から日本はおかしな方向に進み始めました。
私はこれも単なる偶然ではないような気がします。

自分たちが日本という国の過去と未来を繋ぐ一点に今いること。そして、この国の精神的支柱に「十七条憲法」があることを、私は最後に改めて強調しておきたいと思います。」

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*お金はエネルギーであり、善でも悪でもありません。しかし、欲望の対象となるため、悪いエネルギーが付きやすく、お札に聖徳太子を印刷することは、無意識の中に聖徳太子の聖徳を刻印していたのかも知れません。

大和の国は、まさに大いなる和の国でした。その和の礎を築いたのが聖徳太子でした。
聖徳太子が亡くなって100年後に編纂された「日本書紀」に、太子が亡くなった時、世の中は光を失い、人々は泣き続けたとの記述があります。

聖徳太子の徳の高さを物語り、同時に、当時の日本人の徳への尊敬の強さを物語るものです。
聖徳太子を生んだ国、その教えを大切にした民族、何と素晴らしい国、素晴らしい民族であったかと、今更のように思います。





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アセンションー次元上昇の意味

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 フォトン・ベルト


2012年のフォトンベルトによって、地球は5次元に次元上昇(アセンション)すると言われています。

フォトンベルトによって、本当に次元上昇が起きるのかどうかわかりません。又、次元上昇が起きたとしても、どのような世界になるのかもわかりません。
しかし、なぜ4次元ではなく5次元なのか、その理由について考えてみます。

フォトンベルトに興味のない方には、荒唐無稽な記事になるでしょうし、事実、証明できる根拠もありません。
極めて宗教的な内容であり、異論、誤解を承知して書くことにします。


音の世界からあの世を考える」で書きましたように、宇宙はすべてエネルギーで出来ており、エネルギーの究極は光です。
物質とは光が最も振動数を落とした状態で、言わば凍結した光です。

次元とは何かと言えば、エネルギーの振動数の諸相です。
水の相で例えれば、氷は3次元、水は4次元、さらに振動数を高めた水蒸気は5次元と言えます。

4次元、5次元、6次元・・・がどこに存在するかと言えば、当然ながら3次元の物質の世界には存在しません。
高次元が存在するのは人間の意識の中です。

魂とは何か」で書きましたように、意識は4次元、5次元、6次元・・・と多層構造になっており、中心には自分に嘘のつけない神の心が存在します。

さて、フォトンベルトによる次元上昇がなぜ5次元なのか、そのことを考えたいと思います。

魂はエネルギーとして不滅です。肉体が死を迎えたとき、魂は肉体を離れ、元の光の世界に帰ります。
しかし、生前に人を犠牲にして、自己中心的な人生を送った魂は、振動数(波動)が低いため光の世界に戻れず、暗い世界に留まることになります。
光を失ったこの暗い世界が4次元で、幽界とも言われます。

物質は光が凍結した状態と言われるように、極めて振動数が低く、4次元(あの世の一番低い世界)と言えども、物質より遥かに高い振動数の世界です。
4次元以上の世界は、少なくとも現在の素粒子実験で観測可能な、10-18m以下の世界と考えられます。

ところで、5次元、6次元・・の光の意識体は、人間の自力修行のために、基本的には見守ることしかできません。
しかし、4次元の意識体は、未成仏霊、地獄霊、キリスト教では悪霊、サタンと呼ばれ、人類の長い歴史の中で、人間を苦しめてきました。

フォトンベルトによって、5次元に次元上昇する意味はここにあります。
5次元に移行すれば、4次元の意識体、自己中心の魂は、次元上昇によって消滅するか、少なくともその影響は無くなります。。

黙示録の予言とフォトンベルト
新約聖書の最後に、ヨハネの黙示録がありますが、これまで何を意味するのか良く理解できませんでした。
しかし、フォトンベルトと併せて考えると、不明であったその意味が理解できます。

最後の審判とは、フォトンベルトの次元上昇のことで、「死者を墓場から引きずりだして裁く」とは、4次元(幽界・地獄界)が抹消されることだと理解できます。

ヨハネの黙示録に次のような文章があります。

「もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。
死者たちはこれらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行為に応じて裁かれた。
海はその中にいた死者を外に出した。
死と陰府(よみ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」

火の池とは、フォトンベルトのことではないでしょうか。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人とともに住み、人は神の民となる。
神は自ら人とともにいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」

「すると玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、
『書き記せ、この言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。

フォトンベルトによって本当に次元上昇が起きるのか、起きたとしてどのような世界になるのか、本当のことは分かりません。

しかし、もしかしたら聖書の予言にある、至福千年と言われる人類が待ち望んだ世界の実現かも知れません。
3次元での様々な苦しみや悲しみから解放され、輪廻転生から解放され、人と人は信頼し合い、愛し合い、助け合う理想の世界が実現する、是非そうであってほしいと心から願います。

2012年まで、あと2年余、夜明け前が一番暗いと言われるように、これからのしばらくは、戦争や食糧危機、転変地異や様々な災厄が避けられない時期になるでしょうが、夜明けを信じたいと思います。


ここまで書いてきて、小惑星探査機「はやぶさ」が帰還しました。
最近に無い、感動的なニュースです。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)の技術と努力と情熱が成し遂げた、奇跡的な快挙でした。
JAXAのスタッフは、7年振りに帰還した「はやぶさ」が燃え尽きる前に、最後に地球の姿をを見せてやろうとして、2時間かけて地球の方を向かせました。
はやぶさはそれに応えるように、大気圏突入のぎりぎりの時に、1枚の地球の姿を送ってきました。
(ボイジャーが太陽系から去る時に、振り返って太陽系の写真を送ってきたエピソードを思い出します。)

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満身創痍のはやぶさ君、お帰り、最後まで良く頑張ってくれました。お疲れ様、ありがとう、!!
JAXAの皆さん、おめでとう。!! 
JAXAのF君、おめでとう!! 君から航空宇宙センターに移ろうと思うと相談された時、賛成して良かった。

民主党、こんな素晴らしい仕事を事業仕訳するな!!

すこっちさんが描いた素敵なはやぶさのマンガです。





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正義感の落とし穴

《追記》
過去の記事「神は悪を許しているか」に、今回の記事に関連する内容を書いています。ご覧いただければ幸いです


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正義の女神 Wikipedia


正義感の強い人ほど人を許すことができずません。
人を裁く判断基準が、自分の中の正義感ですから、身勝手な人間、傲慢な人間を許せないのは当然のことであり、それが自分の生き方だと信じています。

正義感が強い人は、会社や組織に不満を抱きやすく、身勝手な上司、傲慢な上司に強く反発し、いつでも辞めてやると口にします。しかし残念ながら「いつでも辞めてやる」と言う人間ほど辞めることはありません。こうした不満はどの組織にもあり、上司に反抗する人間を受け入れてくれる組織を探すのは困難であり、出世から取り残され、しかし辞めるに辞められず、会社生活を終えるケースが大半です。

課や部であれば、課長や部長、会社であれば社長の命令は絶対です。組織は組織の長の命令に従うことが前提で成り立っています。良い悪いではなく、それが組織の宿命です。
春に咲く花の中で、自分は秋に咲きたいと言っても通る話ではありません。その時は、秋に咲く花を探すしかないのです。

イエスは、「人を裁いてはいけない。自分が裁かれないためである」と言っています。上司の傲慢さや身勝手さを裁くその刀が、作用反作用の法則によって自分を裁きます。

昔、「復讐するは我にあり」という映画がありました。新約聖書の、「『主言い給う。復讐するは我にあり、我これを報いん」から取られています。
悪に対して悪で報いてはならない、悪を裁くのは神であると言うことですが、クリスチャンならともかく、神を信じない人間に信じろと言っても無理でしょう。第一、神が一々の悪人を裁くことをイメージできません。

この意味は、神が定めた宇宙の法則である「原因結果の法則」によって、悪をなした人間には、それに等しい結果が返ってくるということだと思います。
「原因結果の法則」によって、自らが自らを裁きます。「復讐するは我(自分)にあり」です。

この世で多くの悪を重ね、人を不幸にしながら安楽に生涯を終える人間がいます。その時、神も仏も無いのかと思われますが、もし、この世で「原因結果の法則」が現われなければ、あの世、あるいは来世で、その結果が100%自分に返って来るはずです。
「原因結果の法則」が存在するためには、命・魂はこの世限りではなく、永遠に輪廻転生を繰り返すことが前提となります。

正義感によって、人を裁くことのできる人間がいないことを表す、イエスの有名なエピソードがあります。
姦淫の罪を犯した女を取り囲んだ人たちが、ユダヤの律法により石を投げつけて殺せと口々に叫ぶ中、イエスは「汝らの中で罪なき者のみ彼女に石を投げよ」と言いました。
その言葉に一人去り二人去り、すべての人が去って行きました。

人を裁くとは、自分の顔についた汚れに気づかず、相手の顔の汚れを取れと言うことであり、正義感とは、人の顔の汚れが気になる性格だと言えます。

相手の性格が変えられないように、相手の顔の汚れを取ることはできません。
自分が裁かなくても、相手が自分自身を裁くのだと考えれば、正義感の呪縛から開放されます。

但し、社会悪については十分に真実を見る目を持ち、みんなでしっかり汚れを取り除く努力をしなければなりません。






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我に潜む刃

新緑


漢字の成り立ちには、深い洞察力が感じられます。

「我」という漢字の左側は、鋭いのこぎりの歯を表し、右側は両刃の剣に長い柄をつけた武器「戈(ほこ)」を表しているそうです。
「我」には危険な武器が二つ入っており、意識して自分を律しなければ危険なものであることが分かります。

様々な人間関係のトラブルや夫婦家族のいさかい、すべての原因は「我」にあります。国と国との争いも、「我」の集合です。

人間の争いは、自分の利益や都合だけを考える我欲や我がまま、自我が肥大した傲慢や虚栄、あるいは自分の意見を押し通す自己中心性などよって起きます。
夫婦や家族の間は、遠慮がないために自我が出やすく、余計に気をつけなければならないでしょう。

「我」は、人も自分も傷つける両刃の剣です。
人を傷つけた我という刃は、寸分たがわず自分を傷つけますが、それが自分に返るまでに時間差があり、原因結果の法則が理解しにくい仕組みになっています。

もし他人に悪を行い、その結果が瞬時に自分に返ってくれば、人は悪を行わないでしょう。しかしその場合、行動の基準は物理法則のように有無を言わせぬものとなり、自由意志での選択ではなくなります。結果が分からないから試行錯誤し、学んで行きます。

人間はみんな真っ白でまん丸い心で生まれてきます。しかし、成長し「我」が大きくなるにつれて心を汚し、ゆがめて行きます。
人間の目は外に向いて付いており、人の欠点や過ちは目につき許すことができませんが、自分を外から見ればきっと他人と同じことをしています。

「人の振り見て我が振り直せ」、昔の人のさりげない言葉に、我をただす知恵があります。

夜、交差点で対向車のライトがまぶしいと不快に思う時、自分の車のライトも相手にはまぶしいはずです。
自分がライトを消せば、相手も消してくれます。
「譲れば道は広い」と言われますが、譲れないのが「我」です。自分から譲れば、相手も譲ってくれます。

自分を意味する漢字に「吾」があります。
「吾」の字の「五」は木で作った蓋で、下の口は、祝詞(のりと)を入れる器です。
器の上に五をのせて蓋をし、祈りの効果を守る意味が吾(ご)だそうです。
本来「まもる」という意味の「吾」が、「われ」という漢字として使われるようになりました。

自我の危険性を内包する「我」と、神聖さを表す「吾」、人間は聖と俗を併せ持っています。

「我」を小さくするための修行が、人生なのでしょう。


参考:大紀元日本「争いの元は我
親子で学ぼう!漢字のなりたち






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魂と物質

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  ジョルダーノ・ブルーノ

ジョルダーノ・ブルーノ、この名前を聞いたことがある人はほとんどいないでしょう。
誰も知らないこの一人の死が、その後の思想と科学を変えました。その影響は現在に及んでいます。

ジョルダーノ・ブルーノは、16世紀のイタリアの聖職者で哲学者です。地球が太陽の周りをまわっていると地動説を唱えたため、火あぶりの刑に処されました。そのニュースはヨーロッパ中に衝撃を与え、それを聞いたガリレオは、「それでも地球は回っている」と、有名なことばを残し、沈黙しました。
子供の頃、科学雑誌でジョルダーノ・ブルーノの処刑の絵を見て、強い印象を受けました。リアルタイムでこのニュースを聞いた人々は強い衝撃を受けたはずです。

科学はキリスト教に支配され、聖書と矛盾する説を唱えることは死を意味すると知ったフランスの哲学者デカルトは、キリスト教の弾圧を受けずに真理を探求する方法を考えました。それが物質と心を分けて考える「心身二元論」です。
物質と魂はまったく別物と考えることにより、物質を研究する科学は、キリスト教の影響から逃れられることになります。この考え方は成功し、その後の科学的発展につながりました。

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  魔女の火あぶり

その一方で、科学は魂や霊を除外しなければならないこととなり、魂や霊は科学の対象でないばかりか、魂を語ること自体が非科学的と考えられるようになりました。さらに、魂や霊は存在せず、この世に存在するものは物質だけであると主張する唯物論が共産主義思想と合体し、世界的な影響力を発揮しました。

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  ヘーゲル

弁証法は、哲学者のヘーゲルによって大成されました。
弁証法と言うと、何を弁償するのかと勘違いしますが、簡単に言えば、ある意見には反対意見が成立し、それを統合することにより、より視野の広い、正しい見解に到達できるという考えです。つまり、絶対的な意見や価値観にこだわることは、それ自体が誤りを含んでいることになります。これは真理に到達する正しい考え方です。
又、この世には、男と女、光と闇、陰と陽など、相反する性質を持ったものが存在し、これらのものが調和して生成発展を繰り返す仕組みが存在します。

絶対的な意見や価値観が誤りであれば、共産主義も資本主義も、どちらも絶対ではありません。Co2が温暖効果をもたらすことは事実ですが、それを絶対化して、太陽の強い影響を否定する意見も正しくありません。右に振れすぎた時には左に、左に振れすぎた時には右に振り返す必要があります。

唯物論が誤りであると断定することも誤りです。三次元の世界では、物質しか存在しないことも事実です。
魂や霊は、エネルギーの振動数の高い高次元に存在します。科学は3次元の世界だけを見て、魂や霊は存在しないと考えますが、現在の科学レベルでは、振動数の高い世界を観測したり測定したりできないだけです。

上記のものの考え方や仕組みは、この世はバランス、調和で成り立っていることを意味します。

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今世界は、破壊や憎悪や自己中心の考えに支配されています。来年は、もしかしたら更に振り子が不調和に向けて振れて行くかも知れません。

アインシュタインの有名な言葉があります。

「近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。その驚異的発展には他の国と違ったなにものかがなくてはならない。果たせるかなこの国の歴史がそれである。この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという国体を持っていることが、それこそ今日の日本をあらしめたのである。

私はいつもこの広い世界のどこかに、一ヶ所ぐらいはこのように尊い国がなくてはならないと考えてきた。なぜならば、世界は進むだけ進んでその間幾度も戦争を繰り返してきたが、最後には闘争に疲れる時が来るだろう。このとき人類は必ず真の平和を求めて世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いない。

その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊い家柄でなくてはならない。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたことである。」

アインシュタインが現在の日本を見たら、この言葉を取り消してくれと言うでしょうが、かって彼が見たものは、聖徳太子が説いた「和を以って尊しとなす」という心が実現した、調和された国でした。
今こそ世界は、「和を以って尊しとなす」という心を必要としています。

今年一年、皆様の言葉に励まされて、拙い記事を書いてきました。
大変お世話になりました。
新しい年が、皆様にとって輝かしい年になりますよう、お祈り申し上げます。



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真理は言葉

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バートランド・ラッセル

数学者・哲学者でノーベル賞(文学賞!)を受賞したバートランド・ラッセルは、「真理とは、主語と述語が一致することだ」、と述べています。

どういう事かと言えば、例えばコップを、「これは本です」と言えば誤り(誤謬)であり、真理ではありません。
「これは」と言う主語(実体)と、「本です」と言う述語が一致しないからです。
この簡潔な定義から、真理の本質が見えてきます。

物や自然の存在は事実の世界であり、物質や植物や動物の世界に真理はありません。人間の思考が正しい場合に、真理が生まれます。そして、思考は言葉によって行われ、その言葉は心から生まれます。
真理とは言葉であり、心であると言えます。

心で見るもの」で書きましたように、真善美ーすべての価値は人間の心によって生まれてきます。
神が人間を創った理由はここにあると考えます。

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神は宇宙を一糸乱れぬ完璧な世界として創りました。しかし、そこに人間がいなければ、永遠の時が流れても、何の価値も生まれません。
それは、ミシュランの三つ星レストランの料理より、もっと完璧な料理を作っても、それを味わう客がいなければ何の意味もないことと同じです。

今、宇宙はどのようにして出来たかを研究する宇宙論の中で、宇宙は人間(知的生命体)を創るために出来たと考える、「宇宙の人間原理」が、有力な説となってきました。そう考えなければ、ビッグバンから生命が誕生する可能性は無限にゼロに近いからです。(確率は10のマイナス1230乗)

人間を創るために宇宙が作られたとしたら、人間とは宇宙の歴史の集大成であり、すべての価値の根源であり、偉大な宇宙そのものであるはずです。その人間が欲望のままに、争い奪い破壊し殺し、最も価値の無い存在に成り下がってしまいました。

宇宙を創り、人間を創った偉大な叡智(神)は、人間にもう一度価値の創造者として目覚めてほしいと願っているはずです。そのために、この三次元の世界をリセットしなければならないのかも知れません。
それがフォトン・ベルトの意味だと思います。フォトン・ベルトについては、いずれ書きたいと思いながら、まだ勉強不足です。

硬い記事の口直しに、立原道造の詩をご紹介します。
それにしても、立原道造が24歳で亡くなったのは残念です。

いつの間 もう秋! 昨日は 
夏だつた…おだやかな陽気な 
陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる 
ひとところ 草の葉のゆれるあたりに
 
おまへが私のところからかへつて行つたときに 
あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた 
そしていま おまへは 告げてよこす 
私らは別離に耐へることが出来る と
 
澄んだ空に 大きなひびきが 
鳴りわたる 出発のやうに
私は雲を見る 私はとほい山脈(やまなみ)を見る
 
おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る                             
しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼(まな)ざし… 
かへつて来て みたす日は いつかへり来る?

          立原道造 ーまた落葉林でー 「優しき歌 II」




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