五木の子守唄は朝鮮由来か

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お盆が近づいてくると、「五木の子守唄」の哀調を思い出します。
日本の古謡の中で、「五木の子守唄」の寂しさは異質です。
中国地方の子守唄も陰旋律のさみしさがありますが、五木の子守唄の救いのないようなさびしさとは違います。
なぜ五木の子守唄の寂しさは際立っているのか、以前から疑問でした。

五木の子守唄」は秀吉の朝鮮出兵の折に連れて来られた陶工が五木に住みつき、彼らによって作られたという説があります。日本の古謡には珍しい3拍子であり、アリランやトラジと同じ3拍子であることから言われているようです。歌詞の「おどまかんじんかんじん」の「かんじん」が韓人であるとの説までありますが、韓国ができたのが戦後なのでこれはあり得ません。

「五木の子守唄」の寂しさの説明として、朝鮮由来説は感覚的に納得できますが、秀吉の朝鮮出兵の折に日本に連れてこられたとすれば400年以上昔であり、その後五木に住み着き、五木弁を話すようになっても尚、朝鮮的な感性がそのまま残るだろうかという疑問がありました。(最近、パク・クネ大統領が、千年たっても恨むと言っているので、すぐ水に流す日本人の感性で理解してはいけないのかも知れませんが)

また、陶工として連れてこられた人間が、五木村のような山奥に住み着くのは不自然ではないかとの疑問もありました。
薩摩焼の沈寿官さんは社会的な名声と地位を得て、その後朝鮮に帰る機会を与えられながら帰らなかったことを考えても、余程のことがなければ陶工たちが五木村に住み着くことはないでしょう。

「五木の子守唄」の寂しさや悲しさが、アリランに感じられる朝鮮的な感性ではないかという疑問は、五木村のホームページで正調五木の子守唄を聞いて氷解しました。元歌の感性に朝鮮的なものはまるでないのです。
(五木村のホームページで是非正調五木の子守唄をお聴きください)

Wikiによれば、戦後に古関裕而が採譜し、民謡歌手の音丸によってレコーディングされたとあります。採譜した「五木の子守唄」の元歌を、古関裕而が戦後の風潮に合わせ、哀切な曲調に編曲したと考えるのが正しいようです。
われわれが知っている歌詞もお座敷唄として編集されたものであり、つまり有名な五木の子守唄は古謡に題材を得て作られた、いわば戦後歌謡なのでした。

「お座敷唄」
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 
盆が早よくりゃ早よもどる

おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆
よか衆ゃよか帯 よか着物

「正調五木の子守唄」
おどまいやいや 泣く子の守りにゃ
泣くといわれて憎まれる 泣くといわれて憎まれる

ねんねした子のかわいさむぞさ
起きて泣く子の面憎さ 起きて泣く子の面憎さ  以下略

中国地方の子守唄」は、岡山県井原市付近に伝わる子守歌を、1938年に山田耕筰が採譜編集したものだといいます。元歌がわからないのですが、山田耕筰の改編が加わっているとすれば、西洋音楽的に洗練されたものになっているでしょう。また1938年という時代風潮が反映されているかもしれません。

ねんねこ しゃっしゃりませ
寝た子の かわいさ
起きて 泣く子の
ねんころろ つらにくさ
ねんころろん ねんころろん

ねんねこ しゃっしゃりませ
きょうは 二十五日さ
あすは この子の
ねんころろ 宮詣り
ねんころろん ねんころろん

宮へ 詣った時
なんと言うて 拝むさ
一生 この子の
ねんころろん まめなように
ねんころろん ねんころろん

有名な二つの子守唄が、著名な作曲家によって手が加えられていたのは意外でした。
ちょっと調べれば長年の疑問が判明するのだからネットは便利です。

日本が貧しかった頃、幼い子どもが口減らしのため働きに出され、子守や雑用をさせられていました。
盆に親元に帰るときの喜びがどれほどのものであったか想像を超えます。
幼い子どもたちはそのような苦労の中でも決して親を恨まず、早く親を楽にしてあげたいと考えました。
家貧しくて孝子出づ
過保護の中から生まれるものは何もないことを痛感します。


<参考>
五木の子守唄
中国地方の子守唄




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