「ありがとう」の反対語

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ありがとう」の反対語は、「あたりまえ」だそうです。
言われてみればその通りです。

花が咲いて新緑が萌えること、雨が降り日が射すこと、新聞や郵便が配達されること、
電気があること、車が動くこと、着る服があり、住む家があること、仕事があり、給料がもらえること、
当たり前のことです。


料理を作ってくれること、洗濯してくれること、掃除をしてくれること、
親に育てられること、家族がいること、友達がいること、
目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、
健康であること、生きていること、
当たり前のことです。

私たちは、与えられているものが失われるまで、有難いことだと思いません。

今日の延長で明日が来て、あさってが来て、あたりまえのように一日が過ぎてゆきます。
明日になれば朝が来て、朝になれば目が覚めて、そこに家族がいるはずです。当たり前のことです。

今日一日、健康でいられたことを、「自分自身」に感謝しようとして気づいたことがあります。
「自分自身」に感謝することは出来なかったのです。


私たちは意識して呼吸をしていません、意識して消化吸収をしません、意識して体温を36度に保っていません。
心臓も肺も肝臓も腎臓も胃も腸も、それぞれが勝手に自分の役割を果たしてくれています。
協力し合って体を維持してくれています。

何一つ自分でコントロールしていません。
体が勝手に生きてくれています。

「自分自身」に、有難うと言うことは、自分自身の内側にあり、自分を生かしてくれている力、
体全体を調和させ、命を維持してくれている力に対しての感謝でした。

その力は、人間を、動物を、植物を生かしている命です。
すべてに共通する唯一つの命です。

人間が死に、動物が死に、植物が枯れた時、死の有様はすべて一様です。
生けるものに宿る命と、その命が失われた生と死の様は、すべて一様です。
その命を神と呼ぶとすれば、私たちの中に神が宿り、自分も他人も、犬も猫も、木や花も、すべてが神の命を生きています。


太陽の光や空気や水は、命を維持するために欠かせないものですが、あまりに当たり前に与えられているため、それに感謝することはありません。
私たちは無数の「有難い」ことを与えられて生きています。

昔の日本人は、今在ることはあたりまえではない、こうして生きていられることは得がたいことであると考え、「有難い」と言い慣わしました。
その言葉には深い叡智がありました。

私たちの心から感謝や愛の心を奪う危険な無意識、「あたりまえ」を無くすために、いつも「有難う」を意識したいものです。


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